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かつての吉野家の売り文句が「うまい、安い、早い」ではなく「早い、うまい、安い」だった深すぎる理由

プレジデントオンライン / 2022年10月24日 10時15分

(写真=Gunther Hagleitner/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

吉野家の牛丼は「うまい、安い、早い」で親しまれている。このキャッチコピーは、急成長を遂げた1970年代までは「早い、うまい、安い」という順番だった。なぜ「早い」が最初だったのか。日本フードサービス協会顧問の加藤一隆さんの著書『「おいしい」を経済に変えた男たち』(TAC出版)より紹介する――。(第2回)

■「うまい」「安い」「早い」最も大事なのはどれか

最近の吉野家の看板には「うまい、安い、早い」とキャッチコピーが記されています。ご年輩の吉野家ファンはお気づきかと思いますが、「うまい、安い、早い」の順番になったのは、2000年代に入ってからのことです。

創業者の松田瑞穂さんの陣頭指揮で急成長を遂げた1970年代のキャッチコピーは「早い、うまい、安い」です。経営破綻し松田さんが吉野家を去った1990年代に「うまい、早い、安い」と変わり、さらに2000年代に「うまい、安い、早い」となり現在に至っています。

ちょっと順番が変わっただけのようにも見えますが、私はその変化は経営陣の経営方針を如実に表していると思います。つまり、「うまい」「安い」「早い」のどれも重要だけれども、最も重視しているのは「うまい」だというのが現経営陣の経営方針であり、創業者である松田さんが最も重視していたのは「早い」だったということです。

松田さんの原点は「早い、うまい、安い」であり、「うまい、早い、安い」でも「うまい、安い、早い」でもなかった。そして、それが吉野家成功の原動力でした。

■牛丼への特化は偶然の産物

外食産業史的な視点に立つと、吉野家の最大の功績はメニューを牛丼の一品に特化したビジネスモデルの構築にあります。牛丼専門店やカレー専門店、ラーメン専門店など、いまでこそ、メニューを一品や一品に近い形態に特化したチェーン店は珍しくありませんが、そのビジネスモデルを作ったのは松田さんにほかなりません。それこそが、松田さんが外食産業にもたらしたイノベーションでした。

ただ、私は松田さんから直接、牛丼に特化した理由を聞いたことはありません。おそらく、品質を一定に保つには、結果として牛丼に特化するしかなかったからだと思います。松田さんは頭で考えて、単品に特化したレストランチェーンのビジネスモデルを編み出したわけではありません。簡単に言うと、顧客回転率の高い効率的な店舗経営を突きつめていった結果、牛丼の単品特化に行きついたということだったと思います。

■吉野家のたれの秘密は白ワインにあり

1958年に吉野家を株式会社とした松田さんは年商1億円をめざし、いかに牛丼を効率よく売るかに心血を注ぎ始めます。そのなかで、メニューを牛丼に絞り、具も豆腐やたけのこなど牛鍋には定番だった具材をやめ、牛肉と玉ねぎのみとし、カウンター中心の店づくりや、作業手順の確立やオペレーションなど、いまの吉野家の原点を創り上げていきました。

吉野家のたれの主な材料は、醤油、白ワイン、しょうがなど、とてもシンプルです。松田さんは「毎日食べても飽きない、胃がもたれない牛丼を」と、ご自身でたれを調合していました。くわしい調合の割合は秘密でしたが、なんと醤油よりも白ワインが多く使われています。

吉野家の牛丼
吉野家の牛丼(写真=Dinkun Chen/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■セントラルキッチンシステムの草分けだった

松田さんが外食産業史に残した足跡は、単品特化のビジネスモデルだけにとどまりません。吉野家はセントラルキッチン導入の草分けの一つでしたし、フランチャイズ方式の多店舗展開のビジネスモデルを生み出したのも、松田さんでした。

そして、単品特化を含め、そのいずれにも、根っこには「回転率の向上」の飽くなき探求があったのだと思います。セントラルキッチン方式を導入したのは、店舗での調理作業を少なくすることで、注文から提供までの時間を短縮し回転率を向上させることが目的の一つでした。

また、回転率が高く、利益率の大きいビジネスモデルの構築こそが、フランチャイジー方式による多店舗展開の成功の原動力となったのです。つまり、「早い」です。

■うまい、そして“まずくない”

松田さんが最初に立てた目標は年商1億円でした。席数24という狭い店舗で、それをなにがなんでも達成するという意識で、回転率の向上を至上命題として試行錯誤を重ねた結果、単品特化というビジネスモデルができ上がっていったのだと思います。

吉野家の牛丼の具材は牛肉と玉ねぎだけですが、牛丼は牛鍋やすき焼きをルーツとしていたので、当初はしいたけや豆腐など他の具材も入っていました。が、スピードを追求するなかで、牛肉と玉ねぎだけに純化していきました。松田さんが最も重視していたのは、なにより「早い」だったのです。

「早い、うまい、安い」に「うまい」が入っていることが示すように、松田さんは決して味を軽視していたわけではありません。「早い」を実現するオペレーションや、「安い」と対立しないかぎり、「うまい」も追求していました。

「食べ物の味っていうのにはな、うまいとまずいだけじゃなくて、『まずくない』というのがあるんだ。1000円の牛丼ならうまいのはあたり前だろ。でもな、吉野家の安くて、うまくて、早いというのは、まず『まずくない』のが大事なんだ」

これが、松田さんの口癖でした。そこまで徹底しなければ、回転率を極限まで上げ、24席の店で年商1億円という目標は達成できなかったのだと思います。

■無駄を徹底的に排除するために

松田さんがつくり上げたフランチャイズシステムの特徴は、いまでは一般的となっているフランチャイズシステムとは一線を画するものでした。簡単に言うと、ビジネス資材やノウハウだけでなく、人材派遣から店舗運営までのすべてを本部が行う「まる抱え」のシステムです。つまり、店舗運営に関しては直営店とほぼ同じです。

フランチャイジーの役割は、店舗を出店するのにいい物件を探してくることだけでした。物件を購入したり借りたりする資金の融資先も吉野家本部が紹介するため、自己資金がまったくなくても、いい物件さえ探してくれば加盟店のオーナーになることができました。それが松田流のフランチャイズシステムです。

■人材教育も「まる抱え」

本部「まる抱え」のシステムは必然でした。吉野家の生命線は「早い、うまい、安い」です。あの味をあの早さと価格で供給することは、本部が仕入れなどで主導権を発揮して材料を送り、吉野家の本部で訓練を受けた人材がオペレーションすることでしか実現できませんでした。

店舗の調理場の鍋で煮立った牛肉を、あっという間にお玉ですくうだけで盛りつけられるというサービスは、本部で厳しい訓練を受けた人にしかできません。ですから、材料から人材まですべて本部が調達するというシステムは、吉野家のフランチャイズとしては必然だったのです。

吉野家には直営の訓練センターがあり、そこで人材を教育していました。チェーンレストランには、加盟店が雇った人材を本部が訓練するという形態を採用しているところが少なくありませんが、松田さんはそうした無駄の多いやり方を嫌いました。自社の社員ではなく、他社の社員を教育するのは「まどろっこしい」し、「無理とムラ」が出るというのが、松田さんの考え方でした。

「あいつがやっている牛丼はおいしいけど、こいつの牛丼はおいしくないってのは俺は認めない」と松田さんはよく話していました。

つまり、加盟店が雇用した人材では、訓練後のことまでは目が行き届きませんが、吉野家の社員ならば、雇用期間中、本部が責任を持って質を保つことができる。そのため、店舗運営にも本部が責任を持つことで、どの店舗でも均一のサービスが実現できる、そう松田さんは考えたのです。

■なぜ牛丼の肉はアメリカ産なのか

国産牛を使った牛丼はうな重とならぶ高級料理でした。吉野家が破格の値段で牛丼を提供できたのは、アメリカ産の牛肉を使っていたからです。今日ではあたり前のことですから、なんだ、そんなことが「安い」の秘密かと思われるかもしれませんが、「そんなこと」を思いつく人は、松田さんのほかにいませんでした。

当時、国内で輸入牛を提供していたのは、外国人観光客を顧客とするホテルのレストランぐらいでした。農産物の輸入規制が厳しかった時代で、アメリカ産の牛肉は精肉店でもほとんど扱っていませんでしたが、ホテルには特別に輸入枠がありました。松田さんはそこに目をつけ、やがてアメリカ産の牛肉を安定的に輸入できる道筋をつけました。

アメリカの形の牛肉
写真=iStock.com/RyanJLane
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RyanJLane

吉野家が購入していた肉は「ショートプレート」、日本ではバラ肉とよばれる部位だけでした。これができたのはアメリカの牛肉は部分肉流通だったからです。吉野家の牛丼のためには脂が多くて甘みがあるショートプレートが適していました。

しかも、その部位はアメリカではステーキなどのメニューに使わないので見向きもされません。当時、アメリカ牛のショートプレートは日本がほとんどを輸入していました。そのため、吉野家も牛肉なのに安価で、しかも安定して買うことができたのです。

■経営破綻の理由

吉野家は本格的にフランチャイズ方式を導入した1970年代に急成長し、77年には国内100店舗を達成、翌年には200店舗を突破しました。

「早い、うまい、安い」を看板とした24時間営業の単品ビジネスは、戦後の高度成長期を終え、オイルショックの後遺症に苦しみながらも安定成長期に入り、「一億総中流」と呼ばれる豊かな時代に入った日本社会に支持されました。その一方で、陰では安価な輸入牛に頼ったビジネス戦略が崩壊しつつありました。

1973年に起こったオイルショックに苦しむ農家を救済するため、政府は74年に牛肉の輸入を一時的に停止する措置を講じました。このとき、松田さんが取り組んだのは、海外での加工でした。輸入を制限されていたのは生肉だったため、加工品ならば制限枠をクリアできたからです。たれの粉末化や生肉のフリーズドライ技術などを導入しましたが、うまくいきませんでした。

加藤一隆『「おいしい」を経済に変えた男たち』(TAC出版)
加藤一隆『「おいしい」を経済に変えた男たち』(TAC出版)

結果的に、たれの粉末化とフリーズドライ肉の使用により客離れが起こりました。加えて、アメリカでの事業の行きづまりもあって、吉野家は経営危機に見舞われることになりました。吉野家は1980年に会社更生法の適用を申請し、経営破綻しています。

経営危機の際、松田さんはフランチャイジーで大株主となっていた不動産会社から多額のお金を借り入れました。そのことがきっかけで松田さんは実権を失ってしまいました。

そこから枝分かれをしたのが現在、吉野家と並ぶ牛丼チェーンとなった「すき家」です。現在、牛丼チェーンは吉野家、すき家、松屋、なか卯などが鎬(しのぎ)を削っていますが、いずれも松田社長時代の吉野家の影響を受けているのです。

■ビジネスモデルは間違っていなかった

松田流のフランチャイズシステムは成功要因でしたが、最終的にはそれに足をすくわれてしまいました。松田流の上意下達のシステムもうまくいっているときはよかったのですが、一歩誤ると誰もノーと言えない組織でした。

しかし、松田さん自身は自分が失敗したとは露ほども考えていなかったと思います。松田さんが作り上げた単品特化のビジネスモデル自体は、間違っていなかったからです。

幸いにも会社更生法によって吉野家はよみがえりました。しかし、それは吉野家を200店舗だった1978年の状況に戻しただけです。それが松田さんが正しかったことのなによりの証左です。

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加藤 一隆(かとう・かずたか)
一般社団法人日本フードサービス協会顧問
1942年京都府生まれ。1974年の協会設立当初より事務局を務め、事務局長、常務理事、専務理事を歴任。30兆円産業となった外食産業を陰で支えた業界の生き字引。外食企業の組織化を推進しながら、コメや牛肉の輸入自由化、BSE(牛海綿状脳症)などの食の安全をめぐる問題、新型コロナウイルス感染症などの対応に取り組む。

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(一般社団法人日本フードサービス協会顧問 加藤 一隆)

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