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呪術廻戦の最恐キャラ「両面宿儺」が、飛騨地方では「民衆の英雄」として崇拝されていたワケ

プレジデントオンライン / 2022年10月21日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ig0rZh

人気マンガ『呪術廻戦』(芥見下々著、集英社)には、「呪いの王」という恐ろしい存在として「両面宿儺(りょうめんすくな)」が登場する。一体「両面宿儺」は史実ではどう記述されているのか。2013年に亡くなった同志社大学名誉教授・森浩一さんの著作『敗者の古代史 「反逆者」から読みなおす』(角川新書)から、一部を紹介する――。

※本稿は、森浩一『敗者の古代史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■宿儺は悪名高い人物か、はたまた英雄か?

仁徳(にんとく)紀に、飛騨国にいた不思議な人物の逸話が伝わる。体は一つだが顔は二つ、手足は四本ずつあり「人民を掠略(かす)めて楽(たのしみ)とす」と悪業を記す。

他方で、「両面宿儺(りょうめんすくな)」と呼ばれるこの人物を開基と崇(あが)める寺が飛騨には一つならずある。まるで正反対ともいえる評価の落差から浮かび上がるのは、都での使役に駆り立てられた飛騨の匠(たくみ)たちを守ろうとして討たれた地元の豪族としての宿儺の姿である。

仁徳天皇の時代のことである。『日本書紀』(以下、『紀』と略す)には仁徳の六十五年の条に次の話がでている。

「飛騨国に一人あり。宿儺という。為人(ひととなり)(生まれつき)、身体は壹(ひとつ)にして両(ふたつ)の面あり。面各相背き頂(いただき)合いて項(うなじ)無し(以下続く)」の文で始まっている。

この文章によると両面宿儺は世間でいう俗称であって、本来は飛騨の宿儺なのである。宿儺は飛騨という土地の有力豪族の尊称で、姓となる前の宿禰と元は同じであろう。以下は飛騨の宿儺を使う。

話に入るまえに飛騨という地域について概観しておこう。飛騨は岐阜県北部の山国である。周囲に峻(けわ)しい山々が連なり、海には臨んでいない。今日の主邑(しゅゆう)は高山市で、市の南にある宮峠(みやとうげ)によって北飛騨と南飛騨に分かれる。

■宿儺誕生の地は仏教がさかんだった

南飛騨の中央には、益田(ました)川から飛騨川と名をかえ北から南へと流れる大河がある。この川の下流は木曽川と合流して伊勢湾に注ぐ。南飛騨は太平洋水域である。縄文遺跡は多いけれども古墳や奈良時代の寺跡は知られていない。飛騨国三郡のうちの益田郡だった。

北飛騨は宮峠より北の地域で、ここには荒城(あらき)川から宮川と名をかえ北流して富山県に入る大河がある。下流は神通川となって富山湾に注いでいる。北飛騨は日本海水域である。

北飛騨でも荒城川と宮川流域の狭い平地には、縄文遺跡が多く、特有の大型石器の御物石器が分布する。木を加工するときに用いる抉入石斧(えぐりいりせきふ)などの磨製石斧を祭器にしたものであろう。弥生遺跡や古墳もすこぶる多く、出土遺物にも注意すべきものがある。

古墳後期には岐阜県でも最大規模の横穴式石室をもつ、こう峠口古墳もある。また瓦葺(かわらぶき)だったとみられる伽藍(がらん)跡も十四カ所にのこっていて、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての仏教の隆盛ぶりが偲ばれる。当然のこととして、飛騨国の国府、国分寺、国分尼寺も宮川流域に設けられた。

■活躍したのは古墳中期と考えられる

この地域は飛騨国三郡のうちの荒城郡(のち吉城(よしき)郡と字を「荒」から「吉」へ変えた)にあたり、飛騨の宿儺の活躍した土地であることが伝説や信仰、さらにのこされた「両面宿儺像」などから推測される。

さらに飛騨の宿儺がいた仁徳のころは考古学での古墳中期だが、のちに述べるように飛騨での最大規模の墳丘の古墳が、荒城郡の元の国府町に集中している。前方後円墳や大円墳である。

【図表】岐阜県旧国府町の関連遺跡
出典=『敗者の古代史』

■多くの建築技術者が都の造営に駆り出された時代

持統天皇が飛鳥の北に新しい都城としての藤原京の造営を始めると、いままでにはなかったほどの多くの建物を作る必要がおこった。六九〇年ごろからの約二十年間であり、この最中に大宝令が制定され「賦役令」で建築技術者としての斐陀人を国家の力で使役するようになった。

話は持統の夫の天武天皇が六八六年に没した時に遡る。天武の死後、盛大な殯(もがり)の儀式がおこなわれた。この時に天武の子の大津皇子の行動が謀反とみられ処刑された。そのさい大津皇子に加担したとされたなかに新羅(しらぎ)の沙門行心(しゃもんこうじん)がいた。行心は特別のはからいで「飛騨国の伽藍に徙(うつ)した」(『紀』)。

なお行心が流された飛騨国の伽藍とは、元の国府町にある石橋廃寺や古川町にある寿楽寺(じゅらくじ)跡が候補地とされている。寿楽寺跡からは、名古屋市の尾張元興寺にある忍冬文(にんどうもん)の丸瓦と同型の瓦が出土している。尾張元興寺は尾張国でも最古の伽藍跡である。

■宿儺の逸話が後世の都に伝わった

寿楽寺跡は斐陀国造(くにのみやつこ)の氏寺の可能性が高い。『先代旧事(せんだいくじ)本紀』の「国造本紀」では、斐陀国造の出自は尾張連(むらじ)としている。尾張元興寺も尾張氏に関係があったとみられ、同型の瓦の意味するところが大きそうである。

先ほどの天武の殯には、“国々の造らも参加し、それぞれ誄(しのびごと)をし種々の歌舞をおこなった”とある。この時に斐陀国造が誄のなかで、飛騨の宿儺の昔話をし、それが『紀』の記事になったことは考えてよかろう。

先ほどから『紀』が飛騨の表記に統一していることに気付いたことであろう。

行心はしたたかな人物で、大宝二年(七〇二)に国司を介して天皇に神馬を献じている。このことを祥瑞(しょうずい)とみて政府は天下に大赦をおこなっている。『続日本紀』はこの記事の最後に「瑞を獲る僧隆観は罪を免じて入京せしむ」とあり、割註(わりちゅう)で「流僧幸甚の子なり」としている。幸甚は行心のことであろう。なお隆観はその後に還俗して名を金財(きんたから)にした。

斐陀(太)という表記を飛騨としたのは、大宝二年の神馬の献上にともなっての変更とみられ、『紀』は飛騨に統一している。飛騨の宿儺の話は仁徳の時代のことであっても、都に伝えられたのは『紀』の編纂の直前だったとみてよかろう。

■実際の宿儺は屈強な体で山仕事をしていた?

仁徳紀六十五年の飛騨の宿儺の話の後半部分を見よう。そこでは宿儺の身体の特色を述べている。

両面に「各手足有り。それ膝有りて膕(ひかがみ)と踵(かかと)無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩(は)きて四の手に並び弓矢を用ふ。是を以て皇命に随はず。人民を掠略(かす)めて楽(たのしみ)とす。是に和珥(わに)臣の祖難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣して誅(ころ)す」とある。なお膕は膝のうしろのくぼみである。

この話は都人の関心をひくため、宿儺の武勇と敏捷(びんしょう)さを強調しているとぼくはみている。承和元年(八三四)四月の『太政官符(だいじょうかんぷ)』の労役を免れようとする飛騨工について述べた一節に「飛騨の民は言語容貌すでに他国に異なる」の一節がある。これは事実を言ったのではなく、仁徳紀の飛騨の宿儺の記述からえた知識であろう。

飛騨生まれの考古学者の八賀晋(はちがすすむ)氏は「膝有りて膕と踵無し」とは、山仕事に従事する杣人(そまびと)が山の急斜面を歩くことを日常的におこなっていることから生まれた表現とみている。そうだとすると、宿儺についての描写のうち真実性のある個所といってよい。

ぼくは八賀氏と協力して昭和六十三年(一九八八)の秋から四回の「飛騨国府シンポジウム」をおこなった。そのうちの主要な論考を『飛騨 よみがえる山国の歴史』として平成九年(一九九七)に大巧社から出版した。この四回のシンポジウムでは、当然のこととして飛騨の宿儺について多方面から解析した。

霧がかかった幻想的な日本の風景
写真=iStock.com/liebre
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

■都への強制連行を防ぐ頼もしい存在だった

ぼくが注目したのは仁徳紀の文章のなかの「(宿儺が)皇命に随はず。人民を掠略めて楽とす」の表現である。この個所は都の支配者の立場からの見方に徹していて、勝者の発言であることは言うまでもない。

斐陀匠たちは、古墳時代になると甘言でつられたり土地の豪族を介して、半ば強制的に都などへ連れて行かれて労働に従事させられたのであろう。それを防いだのが宿儺だったとぼくはみる。匠たちの都への連行を妨害するのだから「皇命に随はず」とみられたのであって、斐陀人にとっては当然の反抗だったのである。斐陀の人間にとっては宿儺という豪族は頼もしい存在だった。

飛騨には高山市の千光寺(せんこうじ)のように寺の開基を宿儺としているところはある。千光寺は合併前は丹生川村だった。『萬葉集』巻第七に丹生川が詠まれていることは前に述べた。千光寺は現在の飛騨地域でも屈指の大寺であり、この寺には円空が作った「両面宿儺像」が伝わっている。

■日龍峯寺の境内からは“宿儺さま”という言葉が

円空は美濃生まれの僧で足跡は広く、前に北海道伊達市の善光寺を訪れたとき、宝物館に元禄(げんろく)の年号を刻んだ作品があって驚いたことがある。円空は蝦夷地まで行って仏像を作っていたのである。生涯に十二万体の自由奔放な仏像や神像を作った。

「両面宿儺像」は仏像や神像ではないが、円空の代表作の一つであろう。両手で斧の柄を握っている様子から、円空は宿儺に斐陀の杣人をイメージしていたことがわかる。

宿儺を開基とする寺は、岐阜県中南部には飛騨以外にもある。武儀(むぎ)郡武儀町(現・関市)の日龍峯寺(にちりゅうぶじ)である。山腹から麓にかけて建物のある大寺で、坂はきつい。境内の坂道を上っていると御詠歌のテープが流されていた。すると“宿儺さま”という言葉が何度も聞こえてきた。ここでは宿儺は謀反人ではなく、いまも敬愛の対象である。

■宿儺を殺した都の人間はだれだったのか

ぼくの頭のなかでは、『紀』の記述のような宿儺像は次第に影をひそめ、飛騨や北美濃の地元の人がもっていた宿儺像が浮かぶようになってきた。

『紀』では、飛騨に派遣され宿儺を殺したのが和珥臣の祖の難波根子武振熊とする。『記』では丸邇臣の祖の難波根子建振熊命である。

和珥臣の祖の武振熊といえば、神功(じんぐう)・応神(おうじん)側の将軍だった。詳しくは『敗者の古代史 「反逆者」から読みなおす』(角川新書)で解説しているが、仁徳紀六十五年条と同じ人物とみると高齢者であって、この個所は『紀』の編纂時での挿入の可能性が高い。飛騨の宿儺が殺されたとしても武振熊以外の人物によってではなかろうか。これからの研究課題になる。

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森 浩一(もり・こういち)
同志社大学 名誉教授
1928年大阪市生まれ。日本考古学・日本文化史学専攻。同志社大学大学院修士課程修了、高校教諭、同志社大学講師を経て72年から同大学文学部教授。環日本海学や関東学など、地域を活性化する考古学の役割を確立した。著書に『古代史おさらい帖』『天皇陵古墳への招待』『倭人伝を読みなおす』(いずれも筑摩書房)、『僕が歩いた古代史への道』(角川文庫)『記紀の考古学』『森浩一の考古交友録』(いずれも朝日新聞出版)、『敗者の古代史 「反逆者」から読みなおす』(角川新書)など多数。2012年第22回南方熊楠賞を受賞。13年8月逝去。

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(同志社大学 名誉教授 森 浩一)

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