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いまの天守閣に歴史的価値はない…城めぐりを楽しむ人たちに伝えたい「本当の大坂城」の姿

プレジデントオンライン / 2022年10月30日 10時15分

大坂城の六番櫓と南外堀(写真=Hyppolyte de Saint-Rambert/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

大阪城天守閣は日本の城郭で最多の入場者数を誇る人気の観光スポットだ。歴史評論家の香原斗志さんは「現在われわれが見ている大坂城は、徳川期に築かれた天守台の上に豊臣時代風の天守を想像して再現したもので、歴史的な価値はない」という――。

■いま目にする城は「太閤秀吉の城」ではない

都市大阪の礎を築いたのは、いうまでもなく豊臣秀吉だ。そして、巨大な大坂城は太閤秀吉の城として知られる。

実際、大坂城のスケールは圧倒的だ。隣接する読売テレビが社屋から見渡した映像を流すのを見ても、立派な天守の周囲は、広大な城域が高い石垣で堅牢に固められ、さらに広い堀で二重に囲まれ、まるで巨人のための戦艦のようだ。

歩いてみても、たとえば南外堀は最大幅が約100メートルもあり、石垣の総延長は約2キロにもおよぶ。しかも、石垣の高さは堀底から30メートル。その上に現存する六番櫓は高さが15.4メートルと大きいのに、このスケールのなかに置かれると、とても小さく見える。

それに、主な門の周囲の石垣には途方もない巨石が使われ、本丸正門の桜門に用いられた城内最大の蛸石は、高さ5.5メートル×幅11.7メートル。36畳分に相当し、推定重量は108トンという。こんな巨石がいくつも集められた城は、世界にも類例がない。

大阪城の蛸石(写真=lasta29/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
大坂城の蛸石(写真=lasta29/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

こうしたスケールを前にして、「さすがは秀吉、やることがデカい」と思う人がいまも多いようだ。ところが、いま地上で目にすることができる大坂城は、じつは石垣の石ひとつとっても、秀吉とは縁がないのである。

■「信長の安土城を超える」という決意を実現した秀吉

もちろん豊臣秀吉は「大坂城」を築いたし、それはスケールでも豪華さでも過去に例がないほどの城だった。

大坂は都に近いうえに、京都方面から流れる淀川や奈良方面から流れる大和川が合流する河口に位置し、船が重要な交通手段だった時代には、非常に便がいい場所だった。それに大阪湾から瀬戸内海を通じて西日本に移動しやすい海上交通の要衝で、外国との貿易のためにも好適地だった。

その地の利に目をつけたのは織田信長で、そこにあった浄土真宗の総本山、石山本願寺との11年にわたる戦いの末に、大坂を手に入れている。信長は大坂に、天下を治めるための城を築くつもりだったといわれる。

ところが、その2年後に本能寺の変で信長は斃(たお)れてしまう。その後は、周知のように秀吉が後継者としての地位を固め、天正11年(1583)から大坂城を築いた。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』には、秀吉が「日本の歴史上未曽有の著名にして傑出した王侯武将と言われている(織田)信長の後継者となるに及び、可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾けた」という記述がある。

要するに秀吉は大坂城を、信長が自身の権力の象徴として築いた安土城を超える城にする、と強く決意していたということだ。

そして、同じ『日本史』には「(大坂)城の建物なり部屋、大坂の拡大した市自体、また城の周囲に建てられて行った日本の諸侯、武将たちの屋敷等そのいずれにおいても、すでにかつての美しかった安土の市および城をはるかに凌いでいるとの定評がある」という記述もある。秀吉は自身の決意を実現したわけだ。

■大坂の陣で無残な廃墟に

秀吉が生涯をかけて少しずつ拡大した大坂城だったが、秀吉の死後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で徳川幕府軍に取り囲まれる。そして、徳川家康が出した和解の条件を豊臣秀頼側がのんだ結果、本丸の周囲を残して堀を埋められてしまい、翌年の大坂夏の陣で落城。本丸も天守も炎上し、無残な廃墟になってしまった。

大坂城が落城した話は、よく知られているのではないだろうか。ただ、その後は秀吉が築いた石垣の上に徳川が建物を再建した、と思っている人は多い。実際、戦後のある時期までは、専門家でもそう思っている人が多かった。

しかし、現実には、いまの大坂城には豊臣時代に築かれたものは、その痕跡すら残っていない。現在、目にすることができる大坂城は、元和6年(1620)年から11年をかけて、西国を中心に64の大名を動員し、あらたに築かれている。

■秀吉時代を想起させるものは地中の中に

もちろん、大坂城が徳川の手で大きく改築されたという認識は明治時代からあったが、秀吉が築いた石垣などもそれなりに残っている、というのが一般的な理解だった。

大阪市中央区の大阪城(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
大阪市中央区の大坂城(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

そうではないとはっきりしたのは昭和34年(1959)、大阪市、大阪市教育委員会、読売新聞大阪本社が合同で「大坂城総合学術調査団」を立ち上げてからだ。

石垣を調査すると、江戸時代に工事を担当した大名のものと考えられる刻印が多数見つかり、石垣も徳川が再築したことが確認された。

さらにはボーリング調査の結果、本丸の地下7.3メートルに石垣が発見された。その石は地上に築かれている石垣のものとくらべて小ぶりで、しかも自然石がほとんど加工せずに積まれていた。

調査団はそれを秀吉が築いた石垣と断定することには慎重だったが、今度は徳川家の京都大工頭だった中井家から、豊臣時代の「大坂城本丸図」が発見された。そして地下に見つかった石垣の位置は、この「本丸図」の「中の段帯曲輪」と一致したのだ。

昭和59年(1984)にも、「大阪城天守閣」の東南の地下1.1メートルから、高さ6メートルの石垣が見つかった。ここは「本丸図」によれば、秀吉や正室の北政所が住む奥御殿が建っていた「詰の丸」で、本丸より一段高くなっていた。だから、現在の地表からそれほど深くないところに石垣があったのだ。

こうした発見が重なって、現在の大坂城は、大坂冬の陣後に埋められた外堀を掘り返したり、内堀を豊臣時代より大きく掘り下げたりし、その土を場所によっては10メートル以上も盛って豊臣の城を埋め、その上に徳川が当時の最新技術で築いたものだとわかった。

しかも、豊臣時代をはるかに上回るスケールが目指され、秀吉が信長超えを意識したように、徳川は豊臣を超えたことを視覚的に演出したのだ。

■徳川が築いた天守台に秀吉の天守という異様

秀吉が建てた天守は、外壁が黒漆で塗られ、そこに金で装飾した菊や桐の紋の木彫を取りつけ、金の金具や装飾で彩られていた。また、内部も障壁画や彫刻で飾り立てられ、史上もっとも絢爛(けんらん)豪華な天守だった。

一方、徳川が建てた天守は、派手さでは秀吉のものにかなわないが、石垣をふくむ高さは秀吉の天守の推定約39メートルに対し、58.3メートル。規模で圧倒した。そもそも天守台(天守が建つ石垣)の面積が、秀吉の天守台の約2倍もあった。

また、天守台の位置も、秀吉時代は本丸の北東部にあって、いまの天守の位置からは離れていた。

むろん、秀吉の天守台は埋められてしまったから、いま「大阪城天守閣」が建っているのは、徳川が築いた巨大な天守台だ。それなのに、そこに復元されたのが徳川時代の天守ではないから、話がややこしい。

■安倍元総理が起こした論争のズレ

令和元年(2019)にG20サミットが大阪で開催された際、故安倍晋三総理(当時)が「大阪城天守閣」について「16世紀のものが忠実に復元された」が、エレベーターを設置したのは「大きなミス」だと発言。「障碍(しょうがい)者への配慮が足りない」という批判が相次ぎ、一方で「歴史的建造物を忠実に復元する際、エレベーターをつけるべきではない」と安倍氏を擁護する声も上がるなど、論争になった。

だが、それはズレた論争だった。なぜなら「大阪城天守閣」は忠実に復元されたものではなく、徳川の巨大な天守台の上に秀吉の天守を想像して再現したという、言ってみればトンだシロモノだからだ。

■歴史的景観とはまったく異なる「天守閣」

とはいえ、そんなものが建ったのも致し方ないともいえる。「大阪城天守閣」の建築計画が持ち上がったのは昭和2年(1927)で、「秀吉の天守を復興させたい」というのが大阪市の方針だった。

当時は秀吉時代の天守台は、位置も違えば規模も違うということが知られておらず、そのため「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣所蔵、重要文化財)を参考に、秀吉の「小さな天守」を徳川の「大きな天守台」の上に再現するという作業が、大真面目に行われた。

大坂夏の陣図屏風、部分(図版=National Geographic/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風〈部分〉(図版=National Geographic/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

こうして、最新の鉄筋鉄骨コンクリート造で「秀吉の天守」が建てられ、昭和6年(1931)に竣工(しゅんこう)した。しかし、この「大阪城天守閣」は、なぜか壁面は秀吉時代の漆塗りや黒い漆喰(しっくい)が再現されず、徳川の天守と同様に白漆喰(コンクリート造なので白漆喰風)で仕上げられている。

平成19年(2007)に外壁を塗り替えた際、天守閣の5重目の塗装のみ豊臣時代「風」に改められたが、余計にちぐはぐな感さえある。

結果として、この「天守閣」は秀吉のものとも徳川のものとも姿が大きく異なるので、秀吉の大坂城を想像するうえでも、徳川によるあたらしい大坂城を思い描くうえでも、大いに邪魔になる。

■国の登録有形文化財という皮肉

それなのに、この「天守閣」には別の価値が生じている。すでに国の登録有形文化財にも指定されているのだ。秀吉の天守は建ってから30年ほどで失われ、徳川の天守も創建から40年もたたない寛文5年(1665)に落雷で焼失し、その後、再建されなかった。結局、3代目の「大阪城天守閣」がもっとも命を永らえている。

いわばインチキに価値が生じているわけで、歴史の皮肉というほかない。大坂城を訪れる際は、「天守閣」に見いだされるのは、あくまでも「近代建築」としての価値で、歴史的な景観とはまったく異なることを知っておいたほうがいいだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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