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たとえ弾薬が尽きても紅茶を飲みたい…イギリス軍の戦闘車両に必ず搭載されている"ある設備"

プレジデントオンライン / 2022年11月1日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Galina2012

初めて紅茶と出会った日本人にちなみ、11月1日は「紅茶の日」とされている。その紅茶をなによりも愛しているのがイギリス人だ。ティースペシャリストの藤枝理子さんは「第2次世界大戦の時、チャーチル首相が『兵士にとって重要なのは弾薬よりも紅茶』と発言するほど、紅茶を飲むことはイギリス人にとって深い意味がある」という――。

※本稿は、藤枝理子『仕事と人生に効く教養としての紅茶』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

■初めて紅茶を飲んだ日本人

初めて日本に紅茶が入ってきたのは明治時代です。じつは、その100年以上も前にロシア女帝エカテリーナ2世のお茶会に招かれた日本人がいました。

時は江戸時代、彼の名は大黒屋光太夫。なぜ、鎖国時代に日本人の男性が、しかも遠いロシアの地で“宮廷の茶会”に招かれることになったのでしょうか?

1782年12月9日、伊勢で船頭をしていた大黒屋光太夫は、紀州藩御用米を積みこんだ帆船・神昌丸で白子港(現在の三重県鈴鹿市)から江戸へと向かいました。その道中、記録的な暴風雨に遭遇し帆が吹き飛ばされ、船が難破。伊豆大島付近で目撃されたのを最後に、行方をくらますことになります。

光太夫をはじめとした17名の船員は、8カ月もの漂流生活の後、日付変更線を越えて北太平洋ロシア領のアムチトカ島に漂着します。日本への帰国を懇願したものの叶わず、光太夫一行はロシア語を習得しながら、寒さや飢えと闘いながらシベリアを横断し、首都サンクトペテルブルクを目指します。

■1791年11月にロシア宮廷の茶会で紅茶を飲んだのが由来

漂流から8年あまり、ようやくエカテリーナ2世への謁見(えっけん)が叶い、日本への帰国を直談判。幾度かの謁見の末、1791年11月、宮廷のお茶会に招かれ、エカテリーナ2世から帰国の許可を受けたのです。

10年にも及ぶサバイバル生活の末、日本への生還を果たしたのは光太夫と船員2名だけ、日本に来船した初めての黒船が、光太夫が乗ったロシアからの送還船でした。この船の中には、餞別(せんべつ)品として貴重な茶と砂糖も積まれていたとされています。

200年以上も前、過酷なロシアでの生活を強いられ、エカテリーナのお茶会に招かれるという波乱に満ちた人生を送った光太夫。初めて紅茶と出会った日本人にちなみ、11月1日は「紅茶の日」に定められています。

■明治時代の紅茶は紳士淑女の嗜好品

明治20年(1887年)、紅茶100kgが輸入され、「舶来品のハイカラ飲料」として、鹿鳴館や長楽館などを中心に紳士・淑女の間で少しずつ広がりを見せます。

明治39年(1906年)、明治屋がリプトン紅茶・イエローラベルの輸入をスタート。明治屋の創業者である磯野計氏は英国留学の経験を活かし、明治18年横浜に「明治屋」を設立。食文化のパイオニアとして、日本に海外の珍しい商品を紹介しました。

昭和2年(1927年)、民間企業としていち早く紅茶マーケットに目をつけた三井財閥が、日本初のブランド紅茶「三井紅茶」(のちに日東紅茶と改称)を発売します。

ただし、当時の紅茶は高嶺の花。有産階級やエリート層が嗜む高級品という位置づけでした。

■イギリス兵にとって紅茶は戦地でも必需品だった

第2次世界大戦では、日本とイギリスは敵対関係となりました。お茶好きな両国、戦時中にはどのようにお茶が扱われていたのでしょうか。

20世紀に入り、イギリス人にとってティータイムは日常に欠かせないものとなっていました。政府も同じ認識だったため、紅茶に制限をかけることには躊躇していたのですが、1940年から紅茶は配給制となり、配給手帳によって厳しく管理されました。年齢や職業によっても振り分けられる量が異なり、その制度は終戦後も1952年まで続けられました。

しかし、最前線で戦う戦士たちにとって、紅茶は命綱ともいえる存在でした。チャーチル首相は「兵士にとって重要なのは弾薬よりも紅茶」と言い、熾烈(しれつ)な戦火が広がる中でも、紅茶とビスケットが戦地に届けられました。

1942年にイギリス政府が購入したリストを見ると、重量順に弾丸、紅茶、砲弾、爆弾、爆薬であったという記録も残されています。

前線では、紅茶を飲むために戦車を離れた兵士が標的にされることが続いたため、安心して紅茶が飲めるようにと、戦車にもBoiling Vesselつまり「戦車専用の給湯器」が装備され、装甲戦闘車の必須装備となりました。現在でも、イギリス陸軍が使用する戦闘車のほぼすべてに最新の給湯器が装備されているそうです。

透明なガラス鍋で沸騰する水
写真=iStock.com/Magnascan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Magnascan

紅茶をいれる重要任務は「BV(Boiling Vessel)司令官」と呼ばれ、受け継がれているという裏話の真偽はともかく、戦争という非常事態においても、紅茶は今も昔も変わらず重要な飲みものであることには間違いありません。

フランス軍の兵士にワインが欠かせなかったように、イギリス軍にとっては紅茶がエネルギーを補給し、士気を高めるための秘密兵器というわけです。

■日本の抹茶は兵士の「疲労回復」に重用された

昭和に入ると、緑茶は日常生活に定着、紅茶も少しずつ輸入されるようになっていました。しかし戦争が始まると、敵国であるイギリス紅茶の輸入は当然ストップ、食料不足とともに嗜好(しこう)品の位置づけだった緑茶は制限作物となり、茶畑ではじゃがいもや穀物などへの転作が進みます。

特に高級な玉露や抹茶の原料となる碾茶(てんちゃ)は贅沢品とされ、製茶が禁止となります。危機感を覚えた宇治の茶業組合は、軍用として採用してもらえないかと陸軍航空技術研究所に訴えました。

抹茶と茶筅
写真=iStock.com/ASMR
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ASMR

そこで、抹茶の効能を調査したところ、覚醒作用やビタミン補給として活用できると評価され、軍の食糧庫へ納められることになったのです。軍用として採り上げられた抹茶は、不急作物から外され、京都の茶業はなんとか命をつなぐことができました。

また、京都府立茶業研究所は「糖衣抹茶特殊糧食」(固形の抹茶に糖分を含む被膜を施したもの)を開発し、航空機や潜水艦に乗り込む兵士の疲労回復と眠気覚ましとして、広く重用されました。

■1971年の輸入自由化で日本独自の紅茶文化が育ち始めた

戦後になると、在日外国人のためにホテル用の輸入枠が認められましたが、「紅茶はリプトンのみ」「輸入業者は明治屋限定」などの縛りがあったため、日本にも密輸品が入ってきたり、闇ルートのようなものも存在したといいます。

日本の紅茶史が転換期を迎えたのは、昭和46年(1971年)の「紅茶輸入自由化」です。

高度経済成長とともにライフスタイルも変化、朝食はダイニングテーブルを囲み「紅茶とトースト」など、西洋化が進んでいきます。同時に、アメリカで広まったティーバッグが日本の食卓にも登場し、「リプトンや日東紅茶の黄色いラベルに赤いロゴの紐付きティーバッグ」がお目見えします。

「日本式のお紅茶」には、ミルクかレモンと一緒に角砂糖を入れ、甘くして飲むというスタイルが浸透しました。

昭和50年代に入ると、紅茶のギフト市場が活性化。贈答用として「トワイニングの色とりどりのティーバッグ詰め合わせ」や「フォションのゴールドの包装紙に包まれた紅茶缶」などが大流行しました。

喫茶店では、本来コーヒーをいれるカフェティエールという器具にティーサーバーという名がつけられ、おしゃれな紅茶をいれる道具として広まります。

昭和レトロな「紅茶の原風景」ともいえるこうした時代背景から、第一次紅茶ブームがはじまりました。

そして昭和60年代のバブル期、英国紅茶文化の象徴でもあるアフタヌーンティーがトレンドとなります。まずは、英国系ティールームが「シルバーの3段スタンド」というアイコンを高々と掲げ、英国製のボーンチャイナのティーセットとともに優雅なティータイムというイメージを確立します。

■コロナ禍のホテルや飲食業界にとって紅茶は救世主

平成の幕が開けると、外資系ホテルが次々とオープンし、開業時に西洋文化の象徴としてアフタヌーンティーを導入するようになります。この時期になると、バブル期に海外駐在を経験し帰国したマダムや、旅行で本場のアフタヌーンティーを体験したOL層が急増し、クオリティーが格段にアップ。人気とともに、日系ホテルも続々と後を追いました。

藤枝理子『仕事と人生に効く教養としての紅茶』(PHP研究所)
藤枝理子『仕事と人生に効く教養としての紅茶』(PHP研究所)

令和に入ると、SNS映えを意識したZ世代の間で、アフタヌーンティーを愉しむ活動=ヌン活がブームになります。コロナ禍で海外旅行へも行けず、多くの制限がかかる中でも、プチ贅沢気分を満喫でき、インスタ映えするアフタヌーンティーは、世代や性別を超えて広がりをみせています。

ホテルや飲食業界にとっては、まさに救世主ともいえる存在。それぞれが個性を競い合う中で、茶の湯の文化とも融合し、オリジナリティあふれる日本ならではのアフタヌーンティーへと発展し、今日に至ります。

日本は異文化を取り入れ、日本らしさを加えながらアレンジし、独自のカルチャーとして育てることが得意です。日々、変容しながら進化を遂げる新しい紅茶文化は、これからも時代とともに形を変えていくのではないでしょうか。

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藤枝 理子(ふじえだ・りこ)
ティースペシャリスト
大学卒業後ソニー株式会社に勤務。会社員時代のお給料と休みはすべて、日本全国、そして海外の茶博物館・陶磁器美術館・ティーロード探検にあてる。紅茶をライフワークにしたいと一大決心をして仕事を辞め、イギリスに紅茶留学。本物の英国文化としての紅茶を、一般家庭の暮らしから学ぶ。同時に、ヨーロッパ各国の生活芸術を研究。2006年に初の著書『サロンマダムになりませんか?』を出版。著書に『もしも、エリザベス女王のお茶会に招かれたら?』(清流出版)、『プリンセスになれる午後3時の紅茶レッスン』(メディアファクトリー)、『予約のとれないサロンのつくりかた・育てかた』(辰巳出版)、『英国式アフタヌーンティーの世界』(誠文堂新光社)など多数。

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(ティースペシャリスト 藤枝 理子)

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