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なぜ男子小学生は「トイレでの大便」をバカにするのか…日本人は「潔癖モンスター」と自覚するべきである

プレジデントオンライン / 2022年10月28日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ChiccoDodiFC

日本の男子小学生は「トイレでの大便」をバカにして、はやし立てることがある。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「これは排泄行為を恥や穢れのように扱い、忌み嫌っているからだろう。日本人は、清潔であること、無菌であることにとらわれ、いまや『潔癖モンスター』となっている。これは日本人の幸せを損ねているのではないか」という──。

■排泄を徹底的にタブー視する日本人

人生とは、排泄である。

食事は一般的に1日2回~4回程度だが、排泄は大便と小便を合わせれば7回ほどはするだろうか。頻度としては食事よりも高いわけで、非常に重要度が高い日常的行為といえる。

先日、私の現在の拠点である佐賀県唐津市から福岡空港まで高速バスで向かう知人・A氏から悲痛なメッセージが届いた。そのやり取りから、改めて「排泄」という行為が人間にとってどれほど重要かを思い知らされた。さらに、場合によっては汚点や心的外傷すら残す可能性があることも再確認したのだ。

食べ物については、テレビや雑誌をはじめとしたさまざまなメディアでおいしい店の案内とかレシピの紹介などが数多く登場する。また、食関連情報をまとめたウェブサイト、SNSを見れば、ユーザーたちがああだこうだと書き込んだ感想であったり、ウンチクやTIPSであったりに触れることも容易だ。

しかし、どんなにウマいものを食べようが、その先に待っているのが気持ちよく排泄できないような苦しい状態だとしたら、そちらのほうが圧倒的に人生において大きな影響を与える。ミシュラン3つ星の絶品寿司を食べた帰り道、猛烈な便意を催し、我慢しきれなくなって公共の場でもらしてしまったらどうなるか……。考えるだけで恐ろしい。

なぜ「体内に入れる」ことについてはここまで情報が氾濫しているのに、「体内から出す」ことについては徹底的にタブー視され、この上ない恥のように忌避されてしまうのだろう。どうして日本人は「排泄」について表立って話題にすることを避けたがるのか。

■高速バスのなかで大便をしたくなったら

先述したA氏は、約1時間40分を要する唐津→福岡空港のバスに乗った後、30分ほど経ったとこで急に便意を催したという。唐津各所にあるバス停を経由し、高速道路に乗った後のことだ。次のバス停「天神日銀前」までは約40分。仮に10分ほど前に便意を催していれば、運転手に頼み、途中のコンビニに寄ってもらって排泄をすることが可能だった。だが、残念ながら高速道路に入ってしまった後だから、停まることはできない。切迫した状況下で、次のようなやり取りになった。A氏は気を紛らわすため、とにかく私にメッセージを書き続けたのである。

【A】トイレ、行きたくなってしまいました……

【私】えっ、どっちですか?

【A】

【私】我慢できますか?

【A】うぅ……頑張ります

【私】福岡空港まで行くのは諦めて、天神日銀前で降りて近くのコンビニに入りましょう

【A】それでは飛行機に間に合わないから我慢します

こういったやり取りがあった後、恐らく福岡空港の便所個室で用を足しながら書いたと思われるメッセージが届いた。「なんとか我慢できました。本当にホッとした」との文面を見て、私も心から安堵した。A氏は苦悶の1時間10分を過ごしたに違いない。万が一漏らしていたら、飛行機に乗るどころではなかっただろう。

■「突然の便意」は誰にでも襲いかかる

私も唐津で暮らすようになってから、この高速バスには何度も乗ってきたが、これまでに2回「すいません! トイレに行かせてください!」と乗客が運転手にお願いする姿を見たことがある。運転手も慣れているのだろう。車内アナウンスを介して「あとどれくらい我慢できますか?」と尋ね、客は「もう少しです!」と運転席に向かって叫び返す。そうして「あと数分でガソリンスタンドがありますので、そこへ行きます」や「コンビニにいったん寄ります」などと冷静に対応してくれる。

かくして、この2人は無事便所へ行くことができたのだが、バスを降りてトイレに向かう際も、用を済ませて戻ってくる際も、まるで脱兎のごとく、猛スピードで駆け足移動していた。できるだけ早くバスに戻らなければ、と申し訳なく思っていたのだろう。バスに戻って車内通路を歩くときには、何度も頭を下げ、乗客に遅延のお詫びをしていた。

だが、他の乗客はこうして申し訳なさそうに便所を利用する者に対して、案外優しい気持ちを抱いてしまうものである。「自分もいつ、同じ状況に陥るかわからない」「突然の便意を我慢するのはツラいよな」「こういうことはお互いさま」と察することができるからだ。

なかには「チッ、到着が遅れるじゃないか」「乗る前にトイレくらい済ませておけよ」「自己管理がなってない」と憤る向きもあるだろうが、それをグッとのみ込んで「気にしないでいいですよ」という態度で接するのが人情であり、大人の作法である。むしろ、露骨にいらだちを示したり、文句を言ったりする人物のほうを、私は軽蔑する。

■「漏らしてしまったらどうしよう」という恐怖感

首都圏をはじめとした大都市にて電車で通勤・通学をする人は「便意を催したら最寄りの駅で降りればいいだろう」と考えている。これは大きな安心感だ。対して、高速バスで通勤・通学する者にはこの安パイがない。豪華装備のリムジンバスや、深夜の高速道路を走る長距離バスなどは車内に便所を備えているものもあるが、唐津―福岡程度の距離を走る高速バスには便所がない(「かつては存在した」という話もあるが、現在、便所を備えた車体はこの路線で用いられていない)。

太宰府駅前に停車する太宰府ライナーバス「旅人」
写真=iStock.com/Nirad
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nirad

だから「緊張すると途端に便意が湧く」や「寒くなるとお腹が緩くなる」といった体質を持ち、さらに「トイレに行きたいのですぐに停めてください!」とハッキリ意志表示する勇気がなかなか発揮できない人にとって、そうしたバスに乗っている1時間+αの時間はある意味、恐怖のひと時となる。

唐津―福岡間の移動ということでは、別の公共交通機関としてJR筑肥線が存在する。こちらは車内に便所があるから、突然の便意や尿意が恐ろしい人は電車を利用する。だが、極端な渋滞にでもハマらないかぎりバスのほうが早く到着するし、運賃も安い。また、朝の通勤・通学時間帯は頻繁に便(ビンだ。ベンではない)があるから、使い勝手もよい。だからできれば、バスで移動したい。

とはいえ、不運にもバスの車内で漏らしてしまったらもう、絶望的である。通路の補助席も利用するような満席だった場合、バス全体に悪臭が漂うなか、誰も座席を移動したりできないまま、ひたすら耐え続けるしかない。

乗客は臭いに辟易とし、漏らしてしまった当人は、パンツのなかで大便がずっと尻に押し付けられている不快感に耐えることになる。そして「あぁ、どうしてバスに乗る前、念のためトイレに行っておかなかったのだろう」「電車を選択しておけばよかった」などと後悔の念に苛まれるのだ。合わせて、申し訳なさや恥ずかしさ、屈辱感などさまざまなネガティブ感情も募らせていく。ようやくバスが停車しても、苦労は続く。

運転手に謝罪をして多目的トイレを目指し、まずは尻を洗う。続いてズボンないしはスカートを石鹸でサッと洗い、パンツは捨てることになるだろう。目的地に到着していなくても、バスはそこで降りることになると思われる。そこからユニクロなど簡単に服が買える店を大急ぎで探し、ノーパンのまま下着とズボン・スカートを購入。再び公衆便所なりに入って着替えを終え、なんとか人心地つけるわけだが、心に負ったダメージはそう簡単には払拭できない。加えて、その後もバスに乗らなければならない場合には「あ、この前、車内で漏らした人だ」と思われやしないだろうかと他の乗客の視線が怖くなり、終始うつむくことになるだろう。

■うっかり「お漏らし」した人がいても「どんまい!」と返したい

たった一回の「お漏らし」であっても、人生に多大な悪影響を与え、しばらくは復活できようなダメージを与えてしまうのだ。これが仮に国会議員の答弁中や、総理大臣の所信表明演説中、企業の記者発表の場における社長スピーチなどの最中、マラソンなどオリンピック競技の途中だったら、間違いなく大ニュースとなる。ネットではその日最大級の話題となり、一生「お漏らし議員」「脱糞総理」「大便社長」「大便ランナー」などと呼ばれ続けることになるかもしれない。かの徳川家康は、三方ヶ原の合戦で武田信玄に完敗した際、脱糞しながら逃走したといわれているが、それがいまでも語り草になっているほどなのだから。

しかしながら、「漏らす」という状況は、それほどまでに重大なことなのだろうか。もちろん、漏らさずに済むなら、それに越したことはない。ただ、体調のことなので、どんなに気を張っていても急に便意を催してしまうことはあるだろう。そこで運悪くトイレに間に合わず、漏らしてしまったとしても、やむを得ないことではないか。当人は「失礼しました!」、周囲の人間は「どんまい!」「気にしないで!」と穏便に済ませばよいだろうに。

排泄行為をしない人間など、この世にひとりもいない。みんな小便、大便を身体から排出する。自らすすんで漏らしている人などまず存在しないのだから、うっかり漏らしてしまった人を責めたり、揶揄(やゆ)したり、いつまでも面白がって話を蒸し返したりするのは悪趣味だと、私は思う。ましてや、人生を大きく毀損(きそん)するほど追い詰めるなんて所業は、筋が悪いとしか言いようがない。便を漏らしてしまう程度のことで精神が不安定になったり、人間関係が壊れたり、社会的な立場が揺らいだりするとしたら、これほど理不尽な社会はないだろう。

床に散乱するトイレットペーパーの芯
写真=iStock.com/Borisenkov Andrei
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Borisenkov Andrei

■排便は小説のモチーフにもなっている

筒井康隆の作品に「腸はどこへいった」という話がある。主人公の男子高校生はあるとき、自身が3カ月も排泄をしていないことに気付く。そこで、以前腸捻転の手術を自分に施してくれた親戚の医師のところへ行き、相談をする。医師は「大便をしないで済むのは便利だから、このままでいいのでは」と助言するも、主人公は「排泄がしたい!」と主張する。

医師が診断したところ、主人公の腸は「クラインの壺」と呼ばれる表も裏も境界線もない不思議な形になっており、そのため異空間に大便が行ってしまったのだという。そこでクラインの壺状態から腸を通常の位置に戻してもらい、家に帰ったところ……なんと主人公の家は大量の大便に覆われていた、という物語だ。なかなかすさまじいインパクトを持つストーリーである。

想像するに、筒井氏は排泄の重要性、そして日常性を重々承知しているからこそ、このような奇想天外なストーリーを思いついたのだろう。もしかしたら「便を漏らさないで済む身体を手に入れたらどうなるか……」といったことを考えたのかもしれない。いずれにせよ、排便がモチーフになっているこの作品の背景にあるのは、人生は思いのほか排便事情に左右されてしまう、という現実である。誰にとっても身近な事柄でありながら、とかくクチにすることがはばかられる話題。だからこそ、小説のモチーフになってもインパクトがあるし、誰もが面白く読んでしまうのだ。

■男子小中学生はなぜ、学校でトイレに行けないのか

先日、私が暮らすマンションのエレベーターに乗った際、猛烈な悪臭を感じた。水分がかなり混じった大便が落ちていたのだ。あくまで推測だが、小学生の男の子が排便を我慢していて、「家まであと少し……」というところでついに限界を迎え、漏らしてしまったのではなかろうか。エレベーターの床に残っていたのは、ズボンの裾から少し流れ出てしまった便かもしれない。家に着いて汚れを洗い流した後、「あの大便は処理しなくてはなるまい……」と考えたのかもしれないが、結局、恥ずかしさが勝って放置したのではなかろうか。

くだんの便が小学生男子に由来したモノかどうかは想像の範疇を出ないが、小中学生の男の子にとって、自宅外での排便はできるかぎり回避したい、恥ずべき行為といえる。単純に大便を出していたことがバレてしまうのが恥ずかしいし、トイレで音を響かせたりすると笑いものになってしまう可能性が高いからだ。

ときには「おーい、誰だよ、入ってるのは?」などと個室ドアの外から声をかけたり、「誰かいるぞ!」と壁をよじ登って、なかを確認したりしようとする輩もいる。タチの悪い連中になると、ゲラゲラ笑いながらホースで水をかけたり、ドア下の隙間からモップの柄をガシガシと差し込んできたりすることもある。誰が個室に入っていたのかバレようものなら、その後(なんなら卒業するまで)「大便マン」などと不名誉なあだ名で呼ばれる可能性もある。校内のトイレで大便を排出する行為はすなわち、同世代のコミュニティーにおける自身の序列や周囲からの扱いにも深く関わってくる、極めて重要度の高い課題なのだ。

男子用トイレ
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

■排泄は優れた生体メカニズムであり、尊い行為

少なくとも、私が小学生の頃(1980年~1985年)はそんな風潮があった。だから仲のよい、何でも打ち明けられる友人とは「女はいいよな……」「なんで?」「だってさ、学校で大便していてもバレないじゃん」「そうだね」「オレは女に生まれたかったよ」なんて会話を真剣に繰り広げていたものだ。実に不毛であり、なにより不健康である。しかし、こうした「学校コミュニティー内での大便排泄は忌避すべき行為」という感性は、現在の小学校、中学校でも多かれ少なかれ続いていると聞く。出したいモノを自由に出せない苦労を思うと、同情を禁じ得ない。

ちなみに、前出のエレベーター脱糞事件については、程なく管理会社に連絡が行ったらしい。発生の翌日、マンションエントランス前で同社社員の女性が困惑した表情で、上司と対応を相談していた。そして数時間後には大便がこそぎ取られ、エレベーターの奥には芳香剤が設置された。しばらくは、なんともいえぬブレンドの悪臭がエレベーター内に残り続けた。

それにしても、この排泄行為を忌むべき事柄、揶揄の対象とするような日本人の感覚は、一体なんなのだろうか。しょせんは単なる自然現象である。おおっぴらに触れ回るような行為でもないことは理解するが、“恥”なんてことはあり得ない。それどころか、摂取した有機物を養分として消化吸収し、その残りカスを老廃物とともに体外に排出するという、優れた生体メカニズムなのだ。つまりは「生きる」ことそのものといえる営みであり、実に尊い行為なのである。それなのに「アイドルは大便をしない」などと珍妙な幻想を語り合ったり、モーニング娘。の石川梨華が大便をするかしないかで10年以上、匿名掲示板の「2ちゃんねる」で議論が展開されたりした。まぁ、このあたりはまだネタのひとつとして笑い飛ばせるが、「恥ずかしいから、バカにされるから大便が排泄できない」なんて感性は、まったくのナンセンスである。

■40歳を過ぎてから大便を漏らした経験

ここで告白するが、私は40歳を過ぎてから大便を漏らしたことがある。東京・代々木上原の牛丼屋で朝食を食べた後、徒歩17分ほどの事務所へ戻る途中のこと。8分を過ぎたところで突然猛烈な便意がやってきた。店に戻るには微妙過ぎる距離である。「あと9分我慢すればなんとかなる」と考えて、敢然と前に進んだ。

このときが真昼間であり、通りの飲食店などが開いているのであれば、SOSを求められただろう。だが、時間は朝の7時台。どこの店も開店しておらず、そのうえ、それなりに通勤・通学する人の目も存在する。屋外で用を足す状況にはなかった。

そしてその7分後、事務所があるマンションまで残り2分という歩道橋の上で少しちびった。続いて、第1波ともいえる量の水っぽい大便が出た。パンツにはしっかりと重みを感じた。これはもうどうしようもない。第2波もその数秒後に到来。これですべてが出きったようだ。こうなると腹をくくるしかなくなり、極力すれ違う人との距離を空け、マンションの裏口の階段から3階まで尻の穴をすぼめつつ、歩を進めた。

■公言しないだけで、お漏らし経験のある大人は多いはず

幸い誰にも会うことなく、部屋に到着。靴を履いたまま風呂場へ直行し、全裸になって身体、そして身に着けていたものを洗った。靴だけは念入りに洗浄して使用を継続することにしたが、パンツはためらわず捨てることを決定。アパレルメーカーに勤める友人がくれた希少なジーンズも捨てることに決めた。

まぁ、けっこうな災難ではあったが、もともと自分の腹が緩いことは知っていたため、対策を講じる意識はそれなりに持っていた。そのため、大人になってからのお漏らしはこの1回で済んでいるが、どんなに気をつけていても、相手は生理現象だ。便意の大波に突然襲われることはある。実際、自分だけの極秘事項として絶対に公言しないだけで、大人になってから多少、便を漏らした経験がある人は予想以上に多いのではないかと想像している。すまし顔で放屁しようとしてうっかり漏らしてしまい、慌ててトイレに駆け込んだ……なんて経験を持つ人も恥ずかしがる必要はない。大丈夫、程度差はあれど、みんなやっているに違いない。

■海外の排泄行為を目の当たりにして衝撃を受ける

排泄に関連してさらに思い出すのは、私がアメリカの高校に通っていた頃の体験だ。陸上競技の大会で訪れたとある高校のロッカーに設置された便所で、私はギョッとさせられた。なんと、ロッカーが並ぶ部屋の中央に大便器が2つ置かれていたのだ。しかもそこには別の高校の選手2人が座っており、互いに大便を排泄しながら喋っていて「身体を少しでも軽くすればタイムが向上するよな」「あぁ、大量に出そうぜ!」などと陽気に用を足しているのだ。

そして、トイレットペーパーのロールを「おい、くれ」「あいよ」と融通しあっている。アメリカの若者は、日本の若者が連れ立って小便を出しに行く程度の気安さで、大便を一緒に出しに行くのか……と奇妙な感動を覚えた。

また、パキスタンへ行ったときの光景も忘れられない。公衆トイレにある大便用の便器のまわりに、仕切りなど身を隠せるような設えが存在しなかったのだ。男たちは下腹部丸出しの状態で並んでしゃがみ、何の憂いもなく用を足していた。そして済んだ後は、桶のなかに貯められた水で尻を洗っていた。

これを書きながらいろいろ思い出してきた。インドのガンジス川で見かけた光景だ。男が腰上あたりまで川に浸かり、恍惚(こうこつ)とした表情で立ち尽くしていた。あれはきっと、大便をしていたのだろう。さらにタイでは、川の上にひどく簡素なバルコニー状の板が設置されていて、床に丸い穴が開けられていた。私が見たときは、少年がその穴のそばにしゃがんで大便をしていた。

深刻なガンジス川の汚染
写真=iStock.com/SoumenNath
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SoumenNath

■潔癖モンスターのようになってしまった日本人

こうした海外の排便風景について「文化が違う」「価値観が異なる」「不衛生」「設備が立ち後れているだけ」「野蛮」などと一笑に付し、ひとごとにしてしまうのは簡単だ。だが、日本だってほんの少し前まで、似たり寄ったりの部分があった。

旧国鉄時代の鉄道車両内に設置されていたトイレは、非常にシンプルな構造だったという。いちおう個室にはなっていたが、便器に出したモノは穴からそのまま線路に落とす仕組みだったのだ。高度経済成長期に車内のトイレは徐々にタンク式に置き換わり、1980年代を迎える頃には家庭の水洗トイレと変わらない設備が主流になったようだが、公衆トイレも含め、いまよりも薄汚れたトイレは世間に数多く存在していた。

仮に1980年を起点にして考えてみると、この42年の間に日本人の潔癖さや排泄行為を「穢れ」と捉えるような感覚は、急激に過剰になったように思う。

もはや判断の軸は「公衆衛生」や「美観の保持」といった実利性、合理性の話ではなく、「汚い(と自分が信じて疑わない)モノは見たくない、知りたくない」「自分の価値観に合わないものは絶対に認めない」といった狭量な価値観に基づく感情論であるとか、「本当に汚いかどうか、社会や人体にマイナスの影響があるかどうかではなく、自分が汚いと感じるものはすべて浄化しないと気が済まない」といった神経症的な心性に移ってしまったのではなかろうか。

最初は「汚いよりは、きれいなほうがいいよな」程度の感覚だったのかもしれない。しかし現代に至っては「すべてが整っていて、完全に清潔で、無菌でないと絶対に許せない」という“潔癖モンスター”へと豹変(ひょうへん)してしまったのが、いまの日本人の紛うことなき一面とはいえないだろうか。

■学校教育で、排便に対するまっとうな認識を育む

いま、排泄行為に関して学校で教育すべきは「学校で便意を催したらすぐにトイレに行きなさい。授業中でも手を挙げて『先生トイレ!』と言いなさい」「排泄は人間にとって当たり前の行為。それをバカにしたり、邪魔をしたりするのは人としてとても恥ずかしい」ということである。いや、すでに教育しているのかもしれないが、まだまだ不十分だろう。「排泄を軽んじる者、人にあらず」くらいの強さで徹底的に諭すべきだ。

私が小学生の頃は「先生トイレ!」と言おうものなら、「私はトイレではない! 授業を聞きなさい!」「まったく……休み時間まで我慢できないの?」などと怒ったり、あきれたりする教師がざらにいた。こうした意識がいまの教育界でどれほど変わったのかはわからないが、子どもの健やかな成長と、排便に対するまっとうな認識を育むために、「排泄は穢れでも、恥ずかしいことでもない」と積極的に話題にしてほしいものだ。

そうした教育をしっかりと受けた子どもであれば、大人になったとき、バスの乗車中にためらうことなく「トイレに行きたいので、停めてください!」と大きな声で伝えたり、会議中であっても「すみません、もう我慢できません」とトイレに走ったりできるような、排便する自由を主張できる人材になるはずである。

■排便に対する意識は、コロナ騒動にも通じる

ここまで、排泄に対する日本人の意識について考えてきたわけだが、すでにお気づきの方もいることだろう。そうした日本人の価値観は、新型コロナに対する反応にも相通じている。2年9カ月にわたるコロナ騒動を経て、日本人の潔癖さはさらに強化され、もはや病的と評しても過言ではないレベルになっているのかもしれない。

他人が発する飛沫に対して過度に敏感になり、いつまでもマスクを外せない日本人。そうした日本人の行動様式や価値観を支える「病的な潔癖さ」は、排泄に対する姿勢にも確実に表れている。

この病的なマインドは、さっさと変えなくてはいけない。排泄に関する意識改革については、コロナ騒動後期に見られた「ヨソ(外国)はヨソ、ウチ(日本)はウチ」という姿勢ではなく、騒動初期の「海外を見習え!」状態になることが必要だろう。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」

・排泄行為は自然現象。「穢れ」や「恥」として忌避する姿勢はナンセンス。

・清潔志向が過度に高まってしまい、現代の日本人はもはや「潔癖モンスター」のような精神性を抱くまでになってしまった。

・排便に対する日本人の感性は、そのままコロナ騒動においても発揮されたのではないか。

・学校教育で排便の尊さ、排泄行為を揶揄したりする姿勢の愚かさを徹底機に教えるべきである。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ライター
1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

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(ライター 中川 淳一郎)

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