私たちはいつから「人間」になったのか…ノーベル賞に輝いた「古代DNA研究」のインパクトを解説する
プレジデントオンライン / 2022年11月1日 15時15分
※本稿は、篠田謙一『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■DNAを高速解読する「次世代シークエンサ」
スペイン語のBonanza(ボナンザ)という単語は、「豊富な鉱脈」や「繁栄」を意味する言葉です。英語では「思いがけない幸運」、「大当たり」という意味も持っています。一見なじみのないこの言葉ですが、ここ数年、古代DNA研究の活況を表す言葉として盛んに使われるようになっていることをご存じでしょうか。
その背景には、次世代シークエンサの実用化が大いに関係しています。詳しい説明は書籍の本文に譲りますが、次世代シークエンサの技術を使うと、サンプルに含まれるすべてのDNAを高速で解読することができるのです。
今世紀の初めごろまで、技術的な制約から古人骨はミトコンドリアDNA(細胞内に数多く存在します)しか分析できませんでした。しかし2006年に次世代シークエンサが実用化すると、大量の情報を持つ核のDNAの解析が可能になります。
その後、2010年にネアンデルタール人の持つすべてのDNAの解読に初めて成功するなど、古代DNA解析にもとづいた人類集団の成り立ちに関する研究が非常に活発になり、現在では世界各地の一流科学誌に毎週のように論文が掲載されています。古代DNA研究はまさに「ボナンザ」の時代を迎えているのです。
■進化人類学のノーベル賞受賞は画期的
それを象徴する出来事が、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所教授で、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の客員教授でもあるスバンテ・ペーボ博士の2022年ノーベル生理学・医学賞の受賞です。
彼は、古人骨に残るわずかなDNAの抽出と解析の技術を確立するなど、ネアンデルタール人と私たちの系統関係を解明する上で決定的な役割を果たした人物なのです。
ノーベル生理学・医学賞は、医学の応用の分野で画期的な業績を挙げた人物に与えられる例が多く、進化人類学のような基礎的な研究への授賞は大変珍しいといえるでしょう。ペーボ博士の研究がノーベル生理学・医学賞の対象となったことは、古代DNA研究が重要な学問分野として国際的に認められたということを示しています。
■想像よりも複雑だった人類の進化過程
『人類の起源』では、そんな古代DNA研究の最新成果をもとに人類の起源をたどっています。なお、ここでいう「古代」とはancientの和訳程度の意味で、扱うのは数十万〜数百年前を生きた人びとです。
これまで約20万年前にアフリカで生まれたとされてきた私たち現生人類(ホモ・サピエンス)ですが、もっとも近縁な人類であるネアンデルタール人のDNAを解析した結果、彼らの祖先と分かれたのは実は60万年ほど前だということが明らかになっています。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとのDNAの比較によって、両者が分岐のあとにも交雑を繰り返していたことも判明しました。それだけでなく、他の絶滅人類と交雑していたこともわかっています。ホモ・サピエンスの進化の道のりは、従来想像されていたよりもはるかに複雑なものだったのです。
進化を遂げた私たちの祖先は、アフリカを旅立ったあと世界各地にどのように広がり、定着していったのでしょうか。古代の人びとがどのように移動し、文化の形成に関わっていったのかについてはこれまで知る術(すべ)がなく、ほとんど顧みられることはありませんでした。
■人類はどのように世界に広がったのか
しかし、現代人のDNAデータの解析、そして古人骨に残るDNAとの比較研究によって、その実態がすこしずつ判明しつつあります。その旅程は、中東からヨーロッパや南アジアに向かい、東南アジアやオセアニアに広がり、次いで東アジア、南北アメリカ大陸にまでおよぶ壮大なものでした。
本書ではその道筋にしたがって、近年明らかになった成立の歴史を説明していきます。各章では、世界各地に拡散した人びとがどのように現代の地域集団を形成していったのか、時代を追ってそのシナリオを眺めてみたいと思います。本文中で取り上げるように、古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは、これまでの常識を覆すような集団の大きな遺伝的変化があったことが明らかになっています。
さらに、私たちが「民族」という言葉で括っている世界各地の集団が、DNAから見ると、まったく性質の違う集団の集まりだというケースもあることもわかってきました。
■PCR法の発明がブレイクスルーに
世界各地に展開している人類集団は、ある地域における「これまでのヒトの移動の総和」といえます。そのため、特定の遺伝子分布の地域差は集団の成立を解明する有力な手がかりになるのです。
「古代の試料にDNAが解析可能な形で残っている」ということが示されたのは、1980年代のことです。その研究の本格的なスタートは、微量なDNAを増幅する技術であるPCR法の発明を契機としています。最近では、ウイルス検知のために使われることでも有名になりました。
古人骨に残るDNAの量はごくわずかなので、そのままでは解析することができないのですが、この方法がブレイクスルーとなって、その壁を乗り越えたのです。
PCR法は医学同様、人類学にも多大な恩恵をもたらし、古代DNA研究という新たな学問分野を生み出すことになりました。古代DNA研究のさらなる発展は、分子生物学の技術革新に牽引されて進んでいきました。
■病とヒトとの関係を解明するポテンシャル
とりわけ21世紀になって、ヒトDNAを解明するためのさまざまな方法が開発され、世界各地の人類集団のDNAの解読が進みました。DNAは私たちの体を形作る設計図であり、体内で行われているさまざまな化学反応を制御している遺伝子を記述する、いわば「文字」のようなものです。その研究が進むことで、たとえば病気や薬剤に対する抵抗性の違いが、DNAの違いに起因することも明らかになりました。
古代DNA研究は、集団成立のシナリオを明らかにするだけではなく、環境や病とヒトとの関係を解き明かすポテンシャルも持っています。
たとえば肥満の遺伝子は、古代の人類にとっては生活に適応するものでしたが、現在ではライフスタイルの変化によって疾病の要因と見なされています。DNAの変化を追うことで、ヒトが生物としてどのように環境に適応してきたのかを明らかにすることができるのです。それは社会の変化を考えるにあたって、とても重要な情報です。
最近では「ヨーロッパ人の肌の色が現在の状態に近くなったのはいつごろからなのか」など、DNAの働き自体に注目した研究も行われるようになっています。
■ダーウィンの進化論並みのインパクト
19世紀以降、生命科学の研究は、それまで宗教や人文社会科学の領域だと考えられていた分野に進出するようになりました。ダーウィンの進化論によって「神」の存在を前提とせずに生物の多様性を説明できるようになり、脳科学の進歩によって心の理解にも大きな進展がありました。そうして生命科学は、ヒトに関わる既存の学問、特に人文科学の分野に大きな影響を与えてきました。
一般にはまだそれほど認識はされていないかもしれませんが、近年の古代DNAの研究は、同じくらい大きなインパクトを考古学や歴史学、言語学の分野に与えており、さらには「人間とは何か」という巨大な問いにも新たな答えをもたらそうとしているのです。
いうまでもなく、そのほとんどは現在進行形で研究が進んでいるものです。研究のさらなる進展にしたがって、異なる結論が導き出されることもあるかもしれません。それでも、現時点で何が明らかになっており、古代DNA研究が何を目指しているのかを学ぶことで、この研究の行き着く先を見通すことができるはずです。
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国立科学博物館館長
1955年生まれ。京都大学理学部卒業。博士(医学)。佐賀医科大学助教授を経て現職。専門は分子人類学。著書に『DNAで語る 日本人起源論』『江戸の骨は語る 甦った宣教師シドッチのDNA』(岩波書店)、『新版 日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』(NHK出版)、『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中公新書)などがある。
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(国立科学博物館館長 篠田 謙一)
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