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北条氏が鎌倉を牛耳るための創作だった…鎌倉時代の歴史書が「源頼朝と義経の兄弟ケンカ」を描くワケ

プレジデントオンライン / 2022年11月3日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、源頼朝と義経の兄弟げんかが記されている。義経は兄の怒りを解こうと手紙を書くが、無神経な内容がかえって火に油を注ぐことになる。この「腰越状」のエピソードによって、「戦争の天才でも、政治的センスはゼロ」という義経像が世間に広まった。歴史学者の呉座勇一さんは「腰越状は後世に作られたまったくの創作」という。呉座さんの著書『武士とは何か』(新潮選書)から、その5つの理由を紹介する――。

■なぜ源頼朝と義経は対立するようになったのか

元暦2年(1185)4月25日、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼした源義経は、京都に凱旋(がいせん)した。義経は得意の絶頂にあったことだろう。だが、この日を境に彼の運命は暗転する。

5月7日、義経は平家の総帥である平宗盛らの捕虜を従えて、鎌倉に向けて出発した(『玉葉』)。だが5月15日、義経が使者を派遣して翌日に鎌倉入りすると頼朝に伝えたところ、頼朝は義経に対して鎌倉入りを禁じて待機を命じた。頼朝は、自身の許可をとらず勝手な行動を繰り返す義経に深い憤りを覚えていたのである(『吾妻鏡』)。

足止めを食った義経は、梶原景時らの讒言(ざんげん)によって頼朝が誤解していると考え、頼朝側近の大江広元に弁明書を送り、頼朝への取りなしを求めた。これがいわゆる「腰越状」である。文面に若干の異同があるが、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本・『義経記』などに同状は収録されている。

■戦争の天才、政治センスは皆無…義経像が生まれた原因

腰越状の真偽に関しては、古くから議論がある。真書説に立った場合、平家追討の大功を誇り、反省の念を示さない文書を送るのは火に油を注ぐ行為であり、いかにも無神経である。ここから、戦争の天才ではあるが、政治的センスに欠ける義経像が生み出されていった。

ただ近年、真書説は劣勢で、史実性を積極的に評価する研究者は少ない。

とはいえ、全否定されているわけではない。歴史学者の五味文彦氏は「いささか美文調ながら、義経の心情をよく伝えたものとなっている」と述べている(『源義経』岩波新書、2004年)。後世の脚色を認めつつ、一定の歴史的事実を反映しているという理解と推察される。

しかし、腰越状は全くの創作と見た方が妥当であると思う。

第一に、義経の生い立ちに関する記述の不審が挙げられる。腰越状で義経は自身の苦難の前半生を語っている。曰く、生まれてすぐに父の義朝が平治の乱で敗死したため、母の懐に抱かれて大和国宇陀郡龍門牧に逃れてからというものの、一時も心が安まることがなかった、京都での生活も困難になり、諸国を放浪して身を隠して、何とか生活してきた、と。

この記述が疑わしいのは、義経が挙兵に至るまでの経歴について具体性を欠いている点にある。

■民衆の同情が生んだ「流浪の勇者」イメージ

良く知られているように、義経は継父一条長成(ながなり)のはからいで、将来僧侶になるために鞍馬山に登ったが、成人すると鞍馬を抜け出して自ら元服し、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼った(『吾妻鏡』治承4年10月21日条など)。

腰越状は幼少期の鞍馬での生活、青年期の奥州での生活に全く触れておらず、ただただ義経の困窮を強調している。

義朝の死後、義経の母である常盤(ときわ)は一条長成と再婚している。義経(牛若)は継父長成の経済的支援を受けて鞍馬寺で仏道修行に励んでいたのであり、生活苦に陥っていたとは考えられない。

また長成の従兄弟である忠隆の子、藤原基成は、藤原秀衡の舅だった。義経はこの縁を利用して秀衡の庇護を受けたと思われる。義経は秀衡に歓待されたはずで、辛酸をなめていたとは思えない。

もちろん義経が頼朝の同情を買うために、自身の前半生をことさら悲劇的に述べた可能性はある。だが先述の通り、義経は「苦しかった、つらかった」と語るのみで、具体的なエピソードに言及していないので、説得力に欠ける。この点でも真書説には従えない。

腰越状が描く「貧しさの中でたくましく育った野生児」「流浪の勇者」といったイメージは、民衆の同情と共感によって生み出された義経伝説の一環であり、彼の実像からは乖離(かいり)しているとみなすべきである。

■頼朝の許可を得ていた検非違使任官

第二に、腰越状で義経は、自分が「五位尉(ごいのじょう)」になることは源氏全体にとって名誉であると思った、と弁明しているが、これも不審である。

『吾妻鏡』元暦元年(1184)8月17日条によれば、義経は頼朝の許可を得ずに検非違使(けびいし)左衛門少尉に就任し、頼朝の怒りを買ったという。上の弁明は、この検非違使自由任官問題に対応したものである。

「大日本六十余将」より『蝦夷 九郎判官義經』、大判錦絵
「大日本六十余将」より『蝦夷 九郎判官義經』、大判錦絵(写真=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

けれども最近では、義経が無断で検非違使に任官したという話は『吾妻鏡』の潤色である可能性が指摘されている。

義経は翌9月には従五位下に昇叙している。検非違使左衛門少尉は六位相当の官職なので、五位に昇った時点で本来なら辞職しなければならない。だが、義経は検非違使左衛門少尉に留任した。つまり「五位尉(大夫尉(たいふのじょう))」になった。

これを「叙留(じょりゅう)」と言い、当時は名誉なこととされた。さらに義経は10月11日には内裏と院御所への昇殿を許された(『吾妻鏡』元暦元年10月24日条、「大夫尉義経畏申記」)。

いくら義経が空気の読めない人物だとしても、8月に頼朝の叱責を受けた直後にさらなる昇進を受諾するなど考えにくい。加えて歴史学者の菱沼一憲氏が明らかにしたように、翌年の元旦に義経が内裏・院御所に出仕する際には大江広元の家臣が作法などについて義経に協力している(『源義経の合戦と戦略』角川選書、2005年)。

よって、義経の検非違使任官や五位尉昇叙は、現実には頼朝の許可を得ていたと結論づけるのが穏当であろう。検非違使任官について弁解している点で、腰越状の信憑性には疑問符をつけざるを得ない。

■『吾妻鏡』に残る偽作の痕跡

第三に、腰越状作成に至る経緯が諸史料によって異なる点である。『平家物語』諸本の中で最も古い状態を残すとされる延慶本『平家物語』では、義経は頼朝と対面しており(ただし頼朝の態度は冷淡だったと記す)、腰越状も引用していない。

長門本『平家物語』では、鎌倉で頼朝と対面したものの、冷遇されたことに失望した義経が腰越(現在の神奈川県鎌倉市腰越)で腰越状を執筆している。大島本・南都本・覚一本・中院本では、対面を許されなかった義経が腰越状を書いたとしている(『延慶本平家物語全注釈』巻11、汲古書院、2018年)。

呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)
呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)

こうした相違は、鎌倉前期に成立したとされる『平家物語』の原形(原『平家物語』)には腰越状は存在せず、腰越状の逸話が後世に付加された蓋然(がいぜん)性を示している。

第四に、『吾妻鏡』の叙述の矛盾である。『吾妻鏡』元暦2年5月15日条を見る限り、義経は酒匂宿(さかわしゅく)(現在の神奈川県小田原市酒匂)で待たされている。そして同年6月9日条には頼朝との対面がかなわぬまま、逗留していた酒匂宿から京都に戻っていったと記されているので、鎌倉入りを許されなかった義経はずっと酒匂に滞在していたはずである。

ところが『吾妻鏡』同年5月24日条は、腰越で無聊(ぶりょう)をかこち、腰越状をしたためる義経を描写している。国文学者の佐伯真一氏が推測するように、義経による宗盛護送の記事に、後から腰越状逸話を挿入したため、不自然な叙述になってしまったのだろう(『幸若舞曲研究 五』 三弥井書店、1987年)。

■源氏の滅亡を必然として説明するため

歴史学者の元木泰雄氏らが論じているように、北条氏が覇権を確立した時代に幕府周辺で成立した歴史書である『吾妻鏡』は、源氏将軍家の断絶、北条氏による簒奪(さんだつ)を正当化する側面を持つ(『源義経』吉川弘文館、2007年)。

『吾妻鏡』が検非違使自由任官問題を捏造(ねつぞう)し、腰越状逸話を採用したのは、冷酷な頼朝と傲慢な義経の対立を誇張し、源氏の滅亡を必然として説明するためだったと考えられる。

以上の考察により、腰越状は後世の偽作と捉えるべきである。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
信州大学特任助教
1980年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。『応仁の乱』(中公新書)が50万部に迫るベストセラーに。『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『武士とは何か』(新潮選書)など著書多数。

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(信州大学特任助教 呉座 勇一)

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