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20年前に命を助けたばかりに…平清盛が死の間際まで「源頼朝を殺せ」と後悔したという逸話は史実なのか

プレジデントオンライン / 2022年11月4日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mirko Kuzmanovic

『平家物語』には、平清盛が死に際に「頼朝の首を我が墓の上に備えよ」と遺言したと記されている。この遺言は史実なのか、それとも創作なのか。歴史学者・呉座勇一さんの著書『武士とは何か』(新潮選書)からお届けする――。

■源頼朝の斬首を取りやめた平清盛の誤算

平清盛は平治の乱で源義朝(よしとも)を破った。義朝の嫡男である頼朝は、若年とはいえ戦闘に参加しており、斬首の運命が待っていた。

ところが清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)が頼朝の助命を清盛に嘆願した。軍記物『平治物語』によると、頼朝が夭折した池禅尼の息子家盛に生き写しだったからだというが、古代学者の角田文衞(つのだぶんえい)が、より政治的な事情があったことを明らかにしている(『王朝の明暗』東京堂出版、1977年)。

頼朝の母の実家である熱田大宮司家は上西門院統子(じょうさいもんとうし)(後白河上皇の姉)に奉仕しており、頼朝も上西門院に仕えていた。池禅尼もまた上西門院と深い関係を有していた。頼朝の母方の縁者が上西門院を通じて池禅尼に働きかけたというのが角田の推定であり、これが今では通説となっている。

ともあれ清盛は頼朝の命を助け、伊豆への流罪に減刑した。これが将来の禍根となるとは、勝利の美酒に酔う清盛には思いもよらなかっただろう。

■最高権力者・清盛のあっけない最期

それだけに、20年後に頼朝が反平家の兵を挙げたことは、清盛にとって衝撃だったはずだ。もっとも、清盛は当初、頼朝の反乱を軽視しており、福原遷都に力を注いでいた。

しかし治承4年(1180)10月、富士川合戦で平家軍が反乱軍に惨敗し(なお水鳥の羽音に驚いて逃げたという話は単なる噂と思われる)、情勢は一変する。清盛は福原遷都を中止して平安京に戻り、反乱軍の鎮圧に専心する。そのかいあって平家軍は盛り返すが、翌治承5年2月27日、清盛は突如熱病に倒れた。

軍記物である延慶本『平家物語』によれば、閏2月2日、死期を悟った清盛は一門に対し「自分に対する仏事供養は無用である。頼朝の首を我が墓の上に供えよ」と遺言したという。清盛は同月4日に死去した。享年64。武士として初めて日本の最高権力者に登りつめた男のあっけない最期であった。

■恩を仇で返した頼朝への恨み

言うまでもなく『平家物語』は物語であり、創作や脚色が多々見られる。上の清盛遺言の場面もあまりに劇的で、作り話めいている。

けれども九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』養和元年(1181)8月1日条には、「我が子孫、一人生き残る者と雖(いえど)も、骸(むくろ)を頼朝の前に曝すべし(平家一門は最後の一兵となるまで頼朝と戦い続けよ)」と清盛が遺言したという記述が見える。このため、助命の恩を仇(あだ)で返した頼朝に対して清盛が深い恨みを残して亡くなったことは歴史的事実と考えられてきた。

2019年に『源頼朝』(中公新書)を著した中世史研究者の元木泰雄氏も、「(清盛は)二十年余り前、池禅尼の嘆願で頼朝を助命した自身の判断の甘さを悔やんだことであろう。頼朝に対する遺恨と憤怒は、想像を絶するものがあった」と説いている。

「大日本六十余将」より『安藝 平相国清盛』、大判錦絵(歌川 芳虎・作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「大日本六十余将」より『安藝 平相国清盛』、大判錦絵(歌川 芳虎・作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■遺言は創作されたエピソード?

ところが最近、中世史研究者の川合康氏がこの通説を批判した。

『玉葉』に見える清盛の遺言は、清盛嫡男の宗盛が、頼朝との和平を打診する後白河法皇に対し、これを拒絶する主張の中に登場する。つまり「父清盛の遺言があるので、頼朝と和睦することはできません」という理屈である。

このため川合氏は「実際に清盛が臨終の際にこのように述べたのかどうかはわからない」と述べ、宗盛が和平拒否を正当化するために遺言を改変した可能性を示唆する。

また川合氏は、富士川合戦の勝者は実は頼朝ではなく武田信義ら甲斐源氏であったことを指摘し、東国に複数の反乱諸勢力が存在したことに注意を喚起する。そして「そのような状況にあって、清盛が臨終に際して、頼朝との対決だけを一門に言いのこすことなどありうるであろうか。『平家物語』における清盛の遺言は、やはり頼朝が内乱の最終的勝利者となったことを前提に、創作されたものとして理解すべきであると思われる」と推測している。

さらに川合氏は、鎌倉幕府の準公式歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』治承5年閏2月4日条に清盛が子孫に東国奪回の遺命を残したという記述があることに注目し、東国奪還命令が「のちに頼朝との対決を命じるいかにも清盛らしい遺言に脚色されていった」と結論づけている(『源頼朝』ミネルヴァ書房、2021年)。

■京都から見た源氏勢力

しかし私は、川合氏の新説に疑問を持つ。実態はともあれ、京都の貴族社会では、頼朝が反乱勢力の中心と認識されていたからである。

治承4年8月から9月にかけて、源頼朝、木曾義仲、武田信義ら東国の源氏が次々と挙兵した(『玉葉』『山槐記(さんかいき)』『吾妻鏡』)。だが追討宣旨(せんじ)で真っ先に討伐対象として名指しされたのは頼朝であった。

当時清盛に牛耳られていた朝廷は、9月5日の宣旨で「伊豆国流人源頼朝」の反乱を非難し、平維盛・平忠度(ただのり)・平知度(とものり)に頼朝の討伐を命じたのである(『玉葉』治承4年9月11日条)。

頼朝のみが名指しされたのは、木曾義仲や武田信義と異なり、頼朝が伊豆に流される前は京都で生活しており、官職を得て朝廷で活動していたからだろう。この知名度の差は後々まで活きる。

■頼朝討伐を最優先した平宗盛

前述の富士川合戦に勝利したことで、武田信義の名は一躍高まった。このため11月7日の追討宣旨には頼朝だけでなく、「甲斐国住人源信義」の名も見える(『吉記(きっき)』治承4年11月8日条)。けれども、同宣旨においても、頼朝の挙兵に信義が呼応したという理解が示されており、頼朝が反乱勢力の中心であるという朝廷・清盛の認識に変化はない。

清盛が死去すると、清盛の病気によって中止になった東国遠征計画を宗盛は復活させようとする。拙著『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021年)でも指摘したように、この際に宗盛が討伐対象として重視したのも頼朝であった(『玉葉』治承5年閏2月7日条)。清盛病死の直後というタイミングを考慮すると、頼朝討伐を最優先するという宗盛の方針は、清盛の遺命によると考えるのが自然だろう。

同年3月、平家軍は美濃・尾張国境に出陣し、墨俣川(すのまたがわ)合戦で源行家(頼朝の叔父)を破った。だが養和の大飢饉(ききん)による食糧不足が祟って、それ以上の進軍は断念し、頼朝討伐・東国奪回は先送りとなった。

■戦功をあげたのは、頼朝以外の源氏だったが…

寿永2年(1183)7月25日、木曾義仲の攻勢に窮した平家は京都から撤退した(平家都落ち)。義仲は源行家らと共に同月28日に入京し、同30日には朝廷で平家追討の論功行賞が議論された。後白河法皇は「今度の義兵、造意、頼朝にあり」と述べている(『玉葉』寿永2年7月30日条)。やはり頼朝が平家への反乱を主導したという認識が示されている。

呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)
呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)

この理解に基づき、朝廷では勲一等は頼朝、二等は義仲、三等は行家という決定を下した(ただし後にこの決定は義仲によって覆された)。直接の戦功をあげていない頼朝が最も高い評価を受けたのである。

以上のように、頼朝は京都では一貫して反平家勢力の中心、諸国源氏の頂点とみなされていた。木曾義仲や武田信義は独自の判断で挙兵しており、頼朝の傘下にも入っていないので、この認識は誤りである。だが、少なくとも朝廷・平家の目にはそう映っていたのである。

東国の反乱を鎮圧するには、反乱勢力の中心である頼朝の打倒が不可欠だ、と清盛は考えていたに違いない。したがって、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と清盛が述べたとしても、さほど不可解ではないのである。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
信州大学特任助教
1980年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。『応仁の乱』(中公新書)が50万部に迫るベストセラーに。『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『武士とは何か』(新潮選書)など著書多数。

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(信州大学特任助教 呉座 勇一)

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