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なぜ抗うつ剤の使用者が増えているのか…現代人がほんのわずかな不快にも耐えられない根本原因

プレジデントオンライン / 2022年11月4日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PATCHARIN SIMALHEK

なぜ世界中で抗うつ剤の使用者が増えているのか。精神科医のアンナ・レンブケさんは「現代人は過度に痛みや危険から遠ざけられて育てられてきた。その結果、何の不自由もなく過ごしてきた人たちは、ふとしたきっかけで簡単に精神を病んでしまう」という――。

※本稿は、アンナ・レンブケ『ドーパミン中毒』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■「個人の幸福追求」がもてはやされている現代

2016年、私はスタンフォード大学学生精神保健センターの医師と職員に向かって、薬物・アルコール問題について講演を行った。私がその大学に勤めるようになってから数カ月後のことだった。少し早く着いてしまい、世話役の人をロビーで待っている間、壁に目が止まった。「ご自由にどうぞ」と小冊子が置いてある壁だった。

小冊子は全部で4種類あった。そのどれも、タイトルに「幸せ」という言葉が入っていた──「幸せの習慣」「幸せをもたらす眠り方」「手の届くところにある幸せ」「今より幸せなあなたを目指す7日間」。パンフレットを開ければ、それぞれに幸せを得るための指示が書いてある。「あなたが幸せになれることを50個挙げなさい」「自分を鏡で眺めて、自分について好きなところを日記に記しなさい」「ポジティブな感情の流れを作りなさい」

おそらく、一番情報があるのはこれだろう。「幸せになるためにどんなことがやれるか、それをやる最適なタイミングとその多様性を知ること。いつやればいいか、どれくらいの頻度がいいか知ること。人に対して親切な行為をすると幸せになるというなら、自分に一番効果があるのは、ある日にたくさん善行をすることなのか、毎日必ず1回することなのか。どちらがいいか、自分で実験してみること」

これらの小冊子は、個人的な幸福追求がいかに現代においてもてはやされているかを示している。「良い人生」には他の定義などないかのようだ。他者に向ける親切な行為すら、個人の幸せを追求する一つの戦略として位置付けられている。利他性はもはやそれ自体が良いことなのではなく、「自分の幸福」のための手段になってしまった。

20世紀中頃、心理学者であり哲学者であったフィリップ・リエフは、このような傾向を著書『治療的なものの勝利──フロイト以降の信仰の利用』の中で予見している──「宗教的な人は救われるために生まれたが、心理学的な人は喜びを感じるために生まれる」と。

■ニューエイジに宿る“内なる神”

幸せを追求するように勧めるメッセージが飛び交っているのは、心理学の領域だけにとどまらない。現代の宗教もまた、自己意識、自己表現、自己実現を最高の善と定める方向で広がっている。

作家であり宗教学者であるロス・ドウザッドが著書『悪の宗教』で私たちニューエイジの“内なる神”を大事にする神学について次のように述べている。「たちまち国境をなくすかのようで、心地よく、エキゾチックな快楽を全て約束してくれる……全く苦痛のない……神秘的な汎神論。

ここでは“神”は人ではなく、経験であり、どの経験にも宿るべきとされている……“内なる神”の文献には道徳的な訓戒が驚くほどない。ここでは、共感や親切が頻繁に叫ばれるが、実際難局にいる人たちへの手引きとなることはほとんどない。ここにある手引きといえば、『気持ち良いと感じるなら、やりなさい』ということに尽きてしまうことが多い」

私の患者のケビンは19歳の時、2018年に両親に連れてこられた。両親が心配していたのは次のようなことだった。「学校に行かず、仕事も続かない。家庭のルールにも一切従わない」

彼の両親は私たち皆と同じように不完全であるが、彼を助けようと一生懸命だった。虐待もネグレクトもなかった。問題なのは、彼に対して制約を設けることができないということだった。彼に何か要求することを、「ストレスをかけてしまうのではないか」「トラウマを負わせるのではないか」と心配していた。

■子供を「心理的に壊れやすいもの」と扱うようになった

子供を「心理的に壊れやすいもの」として見るようになったのは本当に最近のことだ。古代では子供は小型の大人と見做され、生まれた時から完成しているものと考えられていた。西洋文明の大部分では、子供は生まれつき邪悪なものと見做されていた。

昔は親やその他子供の世話をする人々の仕事は、この世の中で生きていけるように子供たちを社会化することであり、そのため極端な規律を設けていた。行儀を身につけさせるためだったら体罰や恐怖を与えることも問題なく許されていた。今となっては絶対に許されないが。

今日私が見ている親たちは、子供の感情に傷をつけるかもしれないことをやったり言ったりすることを恐れている。傷つけたら子供が後々、感情的に困難を抱え、精神的な病を患うことになると思っているのだ。

■何も特別なことをしなくても「今週のスター」賞をもらえる

このような考え方はフロイトに源流がある。フロイトは幼少期の経験が長い間忘れられ、意識されていなかったとしても、心理的ダメージを与え続けることがあると主張して、精神分析に対して画期的な貢献をした。不幸なのは、この「幼少期のトラウマが大人の精神病理学に影響しているかもしれない」というフロイトの洞察が、「困難な経験は全て、心理療法で使われている長椅子に座るための準備になる」という確信へと、いつの間にか変換されてしまったことだ。

精神的に有害な経験から、子供たちを隔離しようという大人の努力は家の中でなされているだけでなく、学校の中でも広まっている。小学生くらいになると、どんな子も「今週のスター」賞などをもらっている──特別なことを達成したわけではなく、ただの名前順で。そしてどの子も、いじめがないかどうか目を配るように教えられる。積極的に立ち上がる人になるようにというより、傍観者にならないように。大学生くらいになってようやく、教員と学生が嫌な出来事があったきっかけや安全な空間はどこにあるかなどについて話し始める。

勝者ゴールデンカップと紙吹雪は白い背景に隔離
写真=iStock.com/sankai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sankai

子育てや教育が発達心理学や共感能力を重視してなされていることは良い進化であると言えよう。確かに私たちは、その人が何を達成したかに関係なく、全ての人を認めるべきだ。そして、校庭やその他ありとあらゆる場所での身体的、感情的いじめを止めるべきだ。また考え、学び、議論する、安全な場所を作るべきである。

■過保護は逆に子供たちをひどく怖がらせていないか

しかし子供時代を過度に衛生的にしてしまうこと、過度に病理化してしまうことが私は心配だ。これではたとえ傷つかないようにするためであっても、壁に緩衝材を貼った独房で、すなわち外の世界に出る準備には全くならない状態で、子供を育てているのと同じだと思うのだ。

嫌なことから守ることによって、逆に私たちは子供たちをひどく怖がらせることになってはいないだろうか? 実世界に何の変化ももたらさない偽りの称賛で、彼ら/彼女らの自尊心を高めることによって、私たちは子供たちの忍耐力を下げ、自分の権利を主張し、それでいて自分の性格的欠点については自覚しないような人にしてきてしまったのではないか? 彼ら/彼女らの欲求に全て応えてしまうことによって、私たちが快楽主義のニューエイジを作ってきてしまったのではないか?

ケビンは一度、カウンセリングのセッション中に人生哲学を披露してくれた。私はそれを聞いて正直なところゾッとしてしまった。

「僕はしたいことは何でも、したい時にします。もしもベッドにいたいならベッドにいます。ゲームをしたいと思ったらします。覚醒剤をちょっと吸いたいと思ったら、ディーラーにメッセージを送れば約束の場所に置いてくれる。セックスしたいと思ったらネットで誰か探して、その人に会ってします」

「それは、あなたをどう癒してくれるんでしょう?」と聞いてみた。

「まあ、そんなに良いことではないのかな」。一瞬、彼は恥ずかしそうに見えた。

過去30年間で、ケビンのような患者に会うことは増えていった。人生において全てのアドバンテージを持っているように見える人たち──支えてくれる家族がおり、質の高い教育を受けられ、経済的にも安定していて、健康な体を持っている──そんな人たちが不安やうつや体の痛みを訴え、弱った様子でやって来る。自分の持っている力を活かせなくなっているというだけでなく、朝ベッドから起き上がるのもやっとになっているのである。

■医療現場でも一切の痛みを取り除くことが期待されるようになった

同様に、医療現場もまた、苦痛のない世界を目指そうと躍起になり、すっかり変貌した。

1900年代より前の医者は、ある程度の痛みは健康的だと信じていた。1800年代の一流の外科医たちは手術の際、全身麻酔を用いたがらなかった。痛みが免疫系や循環器系の働きを高め、治りを早くすると信じていたからである。痛みが実際に組織の修復を早めるという証拠は私の知っている限りはないのだが、手術中にオピオイドを使うと治りが遅くなる、という証拠は出てきている。

17世紀の名医トーマス・シデナムは痛みについてこう言った。「極端に強くて危険な四肢の痛みや炎症を和らげるために、人間がしてきた努力を見てきた……確実なのは、中程度の痛みや炎症を用いることだ。それは最も賢明な目的のために自然が利用する道具である」

対照的に、現代の医者は「思いやりのあるヒーラー」の役割ではなく、全ての痛みを取り除く役割を期待されている。痛みは、どんなものであれ、とにかく危険であるとみなされる。ただ痛いというだけでなく、決して癒えることのない神経学的な傷を残し、後々まで痛みを受けるよう脳にスイッチを入れることになるから危険だというのである。

科学者の青い手袋の手は、プロセッサを保持しています
写真=iStock.com/Alernon77
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alernon77

■世界的に抗うつ剤の使用者は増えている

痛みをめぐるこのような思考のパラダイムシフトは、「気持ちが良くなる」薬の大規模処方につながっていった。今日、アメリカの成人は4人に1人以上──そしてアメリカの子供は20人に1人以上──が日常的に精神科の処方薬を飲んでいる。

パキシル、プロザック、セレクサのような抗うつ剤の使用は、アメリカを頂点に、世界中の国々で増えている。アメリカでは10人に1人以上(1000人中110人)が抗うつ剤を飲んでおり、アイスランド(1000人中106人)、オーストラリア(1000人中89人)、カナダ(1000人中86人)、デンマーク(1000人中85人)、スウェーデン(1000人中79人)、そしてポルトガル(1000人中78人)と続く。データのある25カ国中では、韓国が最も低い(1000人中13人)。

抗うつ剤の使用は、ドイツでは、たった4年の間に46%も増えた。スペインとポルトガルでも同期間に20%増えた。中国を含め、他のアジア諸国のデータは得られていないが、抗うつ剤の使用がどの国々でも伸びていることは薬の売上を見ると推測できる。中国では、2011年、抗うつ剤の売上は26億1000万ドルに達し、前年から19.5%アップした。

興奮剤(アデロールやリタリン)の処方はアメリカでは2006年から2016年の間に、5歳以下の小さな子供を含め、2倍になった。2011年には、ADDと診断されたアメリカの子供たちの3分の2がこれらの興奮剤を処方されている。

ベンゾジアゼピン(ザナックス、クロノピン、バリウム)のような鎮静剤も依存性があり、おそらく私たちが興奮剤を大量に摂ってしまっていることの埋め合わせとして、こちらの処方も増えている。1996年から2013年の間で、アメリカではベンゾジアゼピンを処方された成人の数は810万人から1350万人となり67%増えた。

2012年には、全アメリカ人が一人一本薬瓶を持っているといえるほどオピオイドが処方され、オピオイドの過剰摂取による死者が銃や自動車の事故による死者よりも多かった。

■ほんのわずかな不快にすら耐えられない現代人

苦痛からの逃避は、見てきたような極端な例だけではない。私たちはほんのわずかな不快に耐える能力すら失いつつある。皆がいつも「今ここ」から自分の気持ちを逸らしてくれるもの、楽しませてくれるものを探し求めている。

オルダス・ハクスレーが『すばらしい新世界──再考』でこう言っている。「マス・コミュニケーション産業の発展は真でも偽でもなく非現実的なもの、本質的でないものを気にかけることによって主に起きてきた……人間の気晴らしに対する無限というべき欲求を考慮に入れてこなかった」

同じようなこととして、1980年代の古典的作品『愉しみながら死んでいく』の著者ニール・ポストマンはこう書いている。「アメリカ人はもはや互いに話をするのではなく、互いを楽しませている。アイディアを交換するのではなく、イメージを交換する。お互いの主張について議論を交わすのではなく、良いルックスや有名人やコマーシャルについて議論する」

私の患者のソフィーはスタンフォード大学の韓国からの留学生で、うつと不安があり、助けを求めてやって来た。たくさんの話をしたのだが、その中で彼女は起きている間は大体、ある種のデバイスにつながれていると言った。インスタグラム、YouTube、ポッドキャストなどを開き、お気に入りの人たちを見て/聞いて過ごしている。

■退屈な時間がないと周囲の刺激に反応し続けなくてはならない

セッション中、私は彼女に講義に向かうとき、そうしたお気に入りを流すのではなく、浮かんでくるままに自分の思考を流すのがいいのではないかとウォーキングを勧めた。

彼女は信じられない、とむしろ恐怖の表情を浮かべた。

アンナ・レンブケ『ドーパミン中毒』(新潮新書)
アンナ・レンブケ『ドーパミン中毒』(新潮新書)

「なんでそんなことをしなきゃいけないんですか?」と口をぽかんと開けたまま私を見た。

「そうですね……」私は思い切って言ってみた。「自分自身に慣れるためです。自分の感じていることを展開させるんですね。コントロールしたり逃げようとしたりしない方が良いかもしれない。デバイスを使って気を紛らわそうとしていることこそが、あなたのうつや不安を作っているかもしれないから。四六時中、自分自身を避けているのはとても疲れるんじゃないですか。自分自身を別の方法で体験したら、新しい考え方や感じ方ができるようになるかもしれない。そうすれば、自分自身や他者や世界ともっとつながっている感覚が持てるのではないかと思うんです」

彼女は一瞬考えてみて言った。「でもそれって、すっごく退屈なのでは」

「そうです。それは正しいですね」。私は言った。「退屈は、ただつまらないだけじゃないですよね。すごく怖いことでもあるかもしれない。退屈すると、人生の意味や目的という大きな問題に直面することになりますから。だけど退屈は、新しい発見や発明をする機会にもなります。新しい考えに必要なスペースを与えてくれるんです。それがないと私たちはずっと周囲の刺激に反応し続けなくてはならなくなる。自分自身が感じたことを、味わうことができなくなってしまいますよね」

次の週、ソフィーは講義に行く時、何とも接続することなく歩くという実験をした。

「最初は難しかったんですけど」と彼女は言った。「だんだん慣れてきて、むしろ好きになったかもしれないです。木なんかにもよく気づくようになっちゃいました」

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アンナ・レンブケ 精神科医
1967年、アリゾナ州生まれ。医学博士。スタンフォード大学医学部教授。イエール大学卒業後、スタンフォード大学で医学を修める。依存症医学の第一人者であり、前著『Drug Dealer, MD』が話題に。受賞歴多数。

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(精神科医 アンナ・レンブケ)

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