なぜ若者は「よろしかったでしょうか」と聞いてくるのか…現代社会に「過剰な敬語」があふれる根本原因
プレジデントオンライン / 2022年11月3日 14時0分
※本稿は、橘玲『バカと無知』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■こころの痛みも身体の痛みも脳は同じ痛みと判断する
真っ暗な部屋のなかで赤、青、黄色のランプがときどき光る。あなたの前に3つのボタンがあり、赤は右、青は左、黄色は真ん中を押す。脳の気持ちになってみるなら(なりたくないだろうが)、1日24時間、こんな退屈なことばかり繰り返している。
この作業では、なぜ赤のランプが光ったのかを考える必要はない。家族の死のような悲劇に見舞われたのかもしれないし、たんに水が冷たかっただけかもしれないが、理由の如何にかかわらず自動的に右のボタンを押すだけだ。
心理学者は、こころと身体がつながっていることにずいぶん前から気づいていた。
親から叱られて泣きさけぶ子どもは、転んで怪我をして泣く子どもと(脳のレベルでは)同じ経験をしているのではないか。この疑問は1970年代に、生後まもないサルに強力な鎮痛作用のあるモルヒネを投与する実験で確かめられた。痛みを感じなくなった子ザルは、母ザルから引き離されても泣かなくなったのだ。
痛みは生存にとってきわめて重要な情報なので、さまざまなルートで脳に伝えられる。
皮膚や軟部組織にはいたるところに痛みのセンサーとなる侵害受容器があり、圧力や温度などが一定のレベルを超えると脳に信号を送って、それが痛みとして知覚される。だがそれ以外にも、視覚(強烈な光)や聴覚(爆音)など他の感覚器官も痛みの信号を送っている。だとしたら、社会的な危機(子ザルにとっては母親から引き離されることは重大な生存への脅威だ)で脳に痛みの信号を送るのは理にかなっている。
■最新の実験結果でわかったこと
このことは2003年に、サイバーボールというコンピュータゲームを使った実験で、脳科学のレベルで確かめられた。
脳画像撮影装置に入った被験者は、他の2人とディスプレイ上で仮想のキャッチボールをする。だがしばらくすると、2人は被験者を除け者にして自分たちだけでボールを回すようになる。
じつはこれはコンピュータのプログラムなのだが、被験者は理由もなく仲間外れにされたように感じる。このときの脳の様子を観察すると、身体的な痛みと関係している部位(背側前帯状皮質と前島)の活動が高まっていた。
次いで研究者は、被験者に面接を受けさせ、評価者のさまざまなコメントを伝えた。このとき「つまらない」など批判的なコメントを聞いた被験者の脳は、やはり身体的な痛みを感じる部位の活動が高まった。
仲間外れにされたり、他者から批判されることと、殴られたり蹴られたりすることを、脳はうまく区別できないらしい。いずれの場合も、脳内では同じ赤のランプが光るのだ。
■脳内にある赤と青のランプの正体
ひとは、共同体のなかでの評価を自尊心によって計測するよう進化してきた。高い評価を得る(青のランプが光る)と自尊心メーターの針が上がり、高揚感と強い幸福感をおぼえる。逆に低い評価をされる(赤のランプが光る)と、不安や絶望に打ちのめされる。
わたしたちはつねに、(無意識のうちに)できるだけ多くの青いランプを集め、赤いランプを徹底的に避けようとしている。
痛みの特徴は、他の感覚とは異なって、即座の対処が必要なことだ。火災報知機が鳴っているときに、のんびりテレビを見ていては焼け死んでしまう。赤いランプが光ったら、なんらかの攻撃を受けているのだから、放置してすますことはできない。
■いじめ問題の本質
こうした状況は「闘争か逃走か」で知られるが、近年は「Flight(逃走)、Fight(闘争)、Freeze(すくみ)」の「3F」と呼ばれるようになった。
攻撃を受けたとき、生き物はまず逃げようとし、それが無理なら反撃する。逃げることも闘うこともできない絶体絶命のときは、体温と心拍数を下げ、胃や腸内のものを排泄し、意識を失う。なぜ「死んだふり」をするかというと、一般に捕食者は死んだ動物の肉を食べないからだ。
学校のいじめにおいては、いじめられた子どもは逃げることも闘うこともできずフリーズする。だがこれは、脳にとっては大音量で警報が鳴っている状態なので、日常化するとさまざまな深刻な精神症状が現われる。
そう考えれば、いじめ問題の本質は、学校という逃げ場のない空間に同世代の子どもたちを“監禁”するという、進化の歴史ではあり得ない「異常な文化」にあるのだろう。
■校内暴力、学級崩壊が起きるようになった原因
いったん自尊心への脅威だと見なすと、脳はただちに「攻撃モード」になるので、相手の言葉に耳を貸そうとはしない。この時点で、もはや熟議も説得も不可能になっている。
かつては、年長者(先輩)は年下(後輩)に、男は女に優越的に振る舞うのが当然とする文化規範があった。共同体の構成員全員がこの規範に従うのなら、「身分」に則った言動が自尊心を傷つけることはない(みんな同じで、しかたのないことだから)。
教育が成立するには、教師と生徒は「身分」がちがわなければならない。「学校はそういうところ」という合意が教師や生徒、親(地域社会)のあいだで成立していてはじめて、教師は生徒を叱りつけることができる。
ところが社会のリベラル化が進み、生徒が教師と対等だと思うようになると、叱責は自尊心への攻撃と見なされる。こうして教師―生徒の制度的な枠組みが壊れ、「校内暴力」や「学級崩壊」が起きることになった。
近年、生徒たちがおとなしくなったのは、教師が生徒と「友だち」として接するようになり、自尊心を傷つけなくなったからだろう。
■若者が「よろしかったでしょうか」と話すワケ
社会がリベラルになり、すべてのひとが平等の権利を保障されるのはもちろんよいことだが、人間関係がフラットになると、どんな言葉が相手を傷つけるかわからなくなる。
こうして若者たちは、「よろしかったでしょうか」のような過剰な敬語を使うようになり、会社でも上司が部下に敬語で話しかけるのが当たり前になった。
いまや、すべての会話が相手の自尊心を傷つけないよう、細心の注意を払って行なわれている。――興味深いのは、アメリカでは平社員が上司ばかりか社長まで名前で呼び捨てにするという逆の方向(カジュアル化)で形式上の平等が達成されていることだ。
■SNSという最悪のプラットフォーム
だがこれは、相手の反応が目に見え、人間関係を紛糾させると自分が不利になるとわかっている場合の話だ。ところがSNSでは、多くは匿名で意見の交換が行なわれ、テキストの向こうに人格を想像することは難しい。
古今東西の歴史をひもとけばわかるように、人間は匿名の陰に隠れるとかぎりなく残酷になる。戦場で想像を絶する残虐行為が行なわれるのは、軍隊が個人ではなく匿名の「兵士」の集団だからだ。
SNSは人類の進化には存在しない環境で、自分は安全な場所にいながら、相手を一方的に攻撃できるという、言論空間のプラットフォームとしては最悪の環境をつくり出した。そこでは、ささいなことで自尊心を傷つけられたと感じた者たちが罵詈(ばり)雑言や誹謗(ひぼう)中傷をぶつけ合っている。
ここまでは、人間の本性からの論理的帰結だ。悩ましいのは、だったらどうすればいいかの答えが、まだどこにもないことだ。
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作家
2002年、小説『マネーロンダリング』でデビュー。2005年発表の『永遠の旅行者』が山本周五郎賞の候補に。他に『お金持ちになる黄金の羽根の拾い方』『言ってはいけない』『上級国民/下級国民』などベストセラー多数。
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(作家 橘 玲)
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