だから台湾は中国に統一されたくない…第2次大戦直後に中華民国軍が台湾人に行った"非道の限り"
プレジデントオンライン / 2022年11月10日 10時15分
二・二八事件:1947年2月28日、行政長官公署を取り囲み、抗議する市民たち(写真=Media lacking author information/PD-Taiwan/Wikimedia Commons)
※本稿は、福島香織『台湾に何が起きているのか』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■敗戦で日本人が台湾を去り、中国人がやってきた
1945年8月15日、日本は無条件降伏し、第2次世界大戦が終結した。10月25日には台北公会堂(現・中山堂)で中国戦区台湾地区降伏式が行われた。中国全土を統治する中華民国は台湾をその版図に組み入れた。ここから、中華民国と台湾の歴史が重なる。
この日、日本内地から移り住んでいた日本人50万人は内地に引き揚げることになり、そして戦勝国として中華民国軍が新たな統治者として上陸してきた。残留の台湾住民600万人は、1952年4月28日の対日講和条約の発効をもって、国籍が日本から中華民国に一方的に変更され、中華民国台湾省の人間となった。
以降、大陸からやってきた中華民国人がいわゆる「外省人」とカテゴライズされ、それまで台湾で生きてきた漢人、原住民からなる「本省人」との対立「省籍矛盾」が先鋭化する時代が続く。
この引き揚げる日本人と、残る台湾人、新たにやってきた支配者への感情の悲喜こもごも、その後に起きる「二・二八事件」の悲劇については、侯孝賢監督の映画『悲情城市』(1989年)をぜひ、見てほしい。この映画は、それまで台湾でタブーとされていた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾人と日本人、そして外省人との関係を繊細に描いたことで、世界的ヒット作となった。この映画のロケ地となった九份(きゅうふん)は、映画の影響で台湾屈指の観光地となった。
■祖国の統治者を大歓迎するはずが…
1945年10月17日、戦勝国として1万2000人の中華民国軍と官僚200人が米軍戦艦から台湾を接収するために上陸した。台湾人の多くが漢人であり、中華民国は「祖国」である。日本軍を打ち破ったという祖国の統治者を、台湾人は爆竹を鳴らし、銅鑼(どら)・鉦(かね)を打って盛大に迎えた……はずだった。
だが上陸してきた国民党軍兵士たちは、薄汚れた軍服、破れた綿入れを着込み、軍靴ではなく、草履や裸足でだらしなく、鶏のかごをつけた天秤を担いでいたり、なべ窯を背負うものもいて、だらだらと私語をしながら歩き、物乞いの集団のような様相だった。日本の皇軍のような規律正しい威風堂々たる軍隊を想像していた台湾人は、祖国歓迎のムードから、一気に覚めて失望が広がった。
■「犬が去り、豚が来た」
しかも、台湾にやってきた中華民国人は自ら戦勝国人という驕りから、台湾人に対し横暴を極め、略奪、強姦などほしいままにした。
その無秩序ぶりは、米国駐台陸軍戦略情報チームが1945年10月に出したリポートに詳しい。当時の台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く、施政は極めて偏向し、台湾人を軽蔑した。また官吏の風紀は腐敗し、経済は悪化し、物価は暴騰し、失業は深刻となった。
1946年4月に米軍情報当局が、当時の町の声を収集した際、ある車夫が「日本政府は一匹の犬みたいなものであり、吠えるし噛むが、秩序を保つことはできた。中国政府は一匹の豚のようなもので、寝て食うだけで何の役にも立たない」と発言したことが記録されている。
このころから「犬が去り、豚が来た」という表現で台湾人は、日本統治時代のほうが中華民国統治よりましだという認識をもっていたことが、当時の幾多の記録からわかる。
![子豚](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/6/1200wm/img_769699e3b4261f5b6123fccade9bc21a487625.jpg)
■中国軍への憎悪が爆発した「二・二八事件」
その中華民国、国民党軍への憎悪は1947年2月28日、二・二八事件という形で爆発するのだった。この事件はその後、「外省人」による「本省人」への弾圧の象徴的事件として記憶され、本省人=台湾人のアイデンティティ形成につながる。
二・二八事件の直接のきっかけは1947年2月27日、台北市の路上でヤミ煙草を販売していた寡婦、林江邁を中華民国の官憲が摘発した際、土下座をして許しを懇願した女性を銃剣の柄で殴打し、商品、売り上げを没収した事件だった。
この事件を目撃した台湾人群衆が官憲を取り囲んだため、怯えた官憲側は民衆に威嚇発砲し、その弾に当たった台湾人通行人1人が死亡した。この事件に、日ごろから中華民国への不満を溜め込んでいた民衆の怒りが爆発し、28日に大規模な抗議デモが台湾省行政長官兼警備総司令の陳儀がいる行政長官公署を取り囲んだ。
■君が代を合唱して中国人を排除
警備の衛兵は屋上から機関銃でデモ隊を掃射し、多くの市民が死傷した。これに台湾人民衆はさらに怒り、政府の施設を襲撃し、外省人の商店を焼き討ちした。
このときデモ隊は、日本統治時代に台湾人が全員歌えるように教えられた「君が代」を合唱し、本省人と外省人を区別する手段とした。「君が代」を歌えない者を外省人として排除しつつデモ隊は行進し、ラジオ局を占拠して軍艦マーチを流し、日本語で「台湾人よ、立ち上がれ」と檄を飛ばした。
■対話に応じるふりをして民間人へ無差別攻撃
3月に入り、この台湾人蜂起は全台湾各主要都市に広がった。この時、外省人(中国人)をリンチし、死者も多数出ている。台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでいき、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の直接占領を求める動きもあったが、飛行機が飛ばずに果たせなかったという。
高雄では3日夜、数千人が警察局を包囲し、外省人に対する略奪、リンチも広がった。これに対し高雄要塞司令の彭孟緝(ほうもうしゅう)は、いち早くデモ隊の武力鎮圧を開始した。だがこれはデモの鎮圧というよりも、民間人への無差別攻撃であった。
国民党政府は当初、あたかも本省人側との対話に応じる姿勢を見せていた。3月2日に「二・二八事件処理委員会」を設立し、事態の解決に努めるそぶりを見せた。高雄市でも3日に「二・二八事件処理委員会」を発足させ、市政府講堂で会議を開き、要塞のある寿山上の彭孟緝の下に代表者を派遣し、軍の市民への射撃や委員会への脅迫を停止し、委員会が改革案を提出するまでの間、軍を営内から出さないよう求めた。市長の黄仲図、市参議会議長の彭清靠や、林界、涂光明、曽鳳鳴ら高雄市の行政官や官僚らが代表の任に当たった。
■弾圧のターゲットは日本統治時代のエリート層
だが、彭孟緝はやってきた彭清靠、林界、涂光明、曽鳳鳴の4人を縛り上げ、彭清靠一人を人質にとり、他の3人を射殺、黄仲図だけを連絡者として下山させた。その後、彭孟緝は軍によって市政府講堂で会議中の委員会を包囲し、寸鉄帯びない参会者や市民を機関銃で掃射した。
このとき議員を含む数十人が死亡し数百人が負傷。さらに市街戦が展開され、阿鼻叫喚の虐殺が繰り広げられた。犠牲者は1000人近くに上ったという。彭孟緝が後に白色テロの実行者として「高雄屠夫」(高雄の虐殺者)の異名をとるようになる、その最初の殺戮事件「高雄大虐殺」である。
陳儀は話し合いに応じるふうを見せながら、その実、南京の蔣介石に援軍の派遣を求めて、時間稼ぎをしていた。8日午後、大陸から援軍が到着し、国民党政府による大弾圧が始まった。高雄大虐殺は序章にすぎなかったのである。1947年3月9日に戒厳令が発布された。軍のターゲットは日本統治時代に高等教育を受けたエリート層、知識人たちだった。
■1987年まで敷かれた戒厳令
裁判官、医師、役人らが次々と投獄され、拷問を受け、多くが殺害された。基隆では街頭に検問所を設け、北京語がうまく話せない市民を全員逮捕し、針金で掌を貫いてつなぎ、粽のように束にして、そのまま基隆港に投げ込んだという。旧日本兵や学生たちが抵抗運動を起こすも、あえなく制圧された。この事件によって多くの台湾人エリート、市民が殺害、処刑され、その財産や研究成果を接収された。その犠牲者の数は今もって不明だが、一般に2万8000人と推計されている。
この時の戒厳令は1947年5月にいったん解除されるが、2年後、国共内戦に敗れた蔣介石政府が1949年5月19日にあらためて戒厳令を発布し、それは1987年に解除されるまでの長きの間、台湾を中華民国政権の恐怖支配のもとに置いた。この38年間は白色テロ時代と呼ばれている。
■血腥い歴史の上に成り立つ台湾の民主主義
二・二八事件の真実は、1987年の戒厳令が解除されるまでタブー視された。戒厳令解除後はその真相解明と犠牲者の名誉回復の動きが始まり、1989年に記念碑が建てられ、1995年には李登輝総統が公式謝罪を行い、遺族への補償問題に取り組んだ。
![福島香織『台湾に何が起きているのか』(PHP新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/e/1200wm/img_4e88967d7b87010372a4419f93f3db3e156747.jpg)
1996年、当時の台北市長の陳水扁(のちに総統)が、台北新公園の名称を二・二八平和記念公園に改め、その中に当時、台湾人デモ隊が占拠したラジオ局・台湾放送局の建物を改築した台北二・二八記念館が1997年2月28日の事件50周年目に開館された。さらに陳水扁政権時代の2006年には旧台湾教育会館(のちの米国文化センター)を二・二八国家記念館に改築することを決定。2011年2月28日に正式に開館された。
台北に行けば、このどちらかの記念館に私は必ず足を運ぶ。歴史にIFはないが、もし初代台湾行政長官が陳儀のような無能で卑劣な人物でなければ、その後の台湾の運命も、ひょっとすると世界の枠組みも、大きく変わっていたかもしれない。
だが、この血腥(ちなまぐさ)く悲惨な歴史を乗り越えてきたからこそ、台湾が自力で成熟した民主主義国家を作り上げてこられた、ともいえる。台湾が中華民国でなく、台湾であり続ける原点となった事件といえる。
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フリージャーナリスト
1967年、奈良市生まれ。大阪大学文学部卒業後、産経新聞社に入社。上海・復旦大学に業務留学後、香港支局長、中国総局(北京)駐在記者、政治部記者などを経て2009年に退社。ラジオ、テレビでのコメンテーターも務める。著書に『ウイグル・香港を殺すもの』(ワニブックスPLUS新書)、『習近平最後の戦い』(徳間書店)、『ウイグル人に何が起きているのか』(PHP新書)など多数がある。
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(フリージャーナリスト 福島 香織)
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