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なぜ被害者は女性と男児に限られていたのか…7人死亡の最悪獣害「三毛別事件」で未解決なこと

プレジデントオンライン / 2022年11月11日 15時15分

北海道での「人喰い熊事件」の発生箇所を示した地図。大正8年までに開拓された「人間の生活圏」(グレー部分)に集中している(出典=『神々の復讐』)

熊はなぜ人間を襲うようになるのか。ノンフィクション作家の中山茂大さんは「日本最悪の獣害事件・三毛別事件の加害熊は、事件の前に『人間の味』を覚えた可能性がある。まず男児の味を知り、次に女性の味を覚えるといった風に、食の嗜好を変化させたのではないか」という――。(第1回)

※本稿は、中山茂大『神々の復讐』(講談社)の一部を再編集したものです。

■三毛別事件の加害熊に「前科」はあったのか?

日本におけるヒグマ獣害事件の中で、もっとも有名かつ凄惨(せいさん)な事件が、大正4年12月に発生した「三毛別(さんけべつ)事件」である。

7人(一説では8人)もの犠牲者を出し、かつ被害者の1人が妊婦であったことなどから、ショッキングな証言が数多く語られた、日本史上最悪の獣害事件である。

その経緯は吉村昭の小説『羆嵐』(新潮社)ほか、ネット上でも多数公開されているので、ここでは取り上げない。

だが、今でこそ広く人口に膾炙(かいしゃ)した同事件も、年月を経るうちに徐々に風化していった。

この事件について、まとまった物語として発表されたもっとも古い記録は、筆者が調べた限りでは、昭和4年発行の林業誌『御料林』1月号の上牧翠山による随筆「熊風」である。

事件から14年を経てまとめられた貴重な記録だが、残念ながら、その内容には事実誤認がいくつかあった。

次に、昭和22年刊行の『熊に斃(たお)れた人々』(犬飼哲夫、鶴文庫)に詳細な記述がある。

こちらも事件の経緯をつまびらかに追っているが、発生年を大正14年としていたり、襲われた児童の家族関係などに、若干の不正確が見られた。

そこで現地調査を重ね、生き残った村人や関わりのある人物から丹念に取材して、事件の全容を初めて正確に再現したのが、木村盛武による『慟哭の谷』(共同文化社、平成6年)である。

この木村の仕事により、三毛別事件の顛末(てんまつ)は、ほぼ完全に明らかになったと言えるだろう。

しかしそれでも大きな疑問が残されている。

それは、「加害熊に、前科はあったのか? なかったのか?」という疑問だ。

■食害は「女性と男児」に限られていた

前出『慟哭の谷』中に、次のようなくだりがある。

「雨竜(うりゅう)郡から来たアイヌの夫婦は、『このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ』と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、『旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆(きゃはん)が見つかる』と言った。山本兵吉は、『このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、3人のマタギに追われていた奴に違いない』と述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆が出て来た」(前掲『慟哭の谷』より要約)

いずれの証言でも「女が喰(く)われた」ことが共通している。

三毛別事件で食害されたのは「女性と男児」に限られていたのだ。

■三毛別事件の2カ月前に起きた「別の獣害事件」

「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」という証言は、次の事件を指していると思われる。

「雨竜郡深川村大鳳(中略)谷崎シャウ(42)は、25日午後3時、家族3人にて自宅をさる約100間の畑地に作業中、(中略)1頭の熊が駆け来るを認め、一同避難せんとするや、突然後方の藪の中より現れ、シャウに飛びかかり後頭部を掻(か)き、その胸に咬みつき肉をえぐりたるに、他の両人はこれに抵抗、実子武夫(18)は右手を咬まれ、なお両足に軽傷を負った。熊はそのまま逃走、シャウは絶命した」(『小樽新聞』大正4年10月1日)

この事件は、三毛別事件の2カ月以上前に発生している。また、雨竜から苫前までは40キロ程度だ。

この熊が事件を起こした後、地元猟師に追撃され、天塩山中を北へ逃れ、三毛別事件を起こした可能性は十分にある。

牙をむくヒグマ
写真=iStock.com/Byrdyak
三毛別事件の加害熊に前科はあったのか?(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Byrdyak

■山中に餓死した男を喰らい、肉食化した?

また同事件に関して『雨竜町史』に興味深い回顧録を見つけた。

「大正3年(筆者註:4年の間違い)、孫を背負って、きのこ取りにいった母が熊を発見した。さっそくその知らせで、田中善八ら数人のハンターが、ま新しいふんをたよりに捜すうち、突如現われた。発砲したがあわてていたので命中しない。私の父は、まさかりを持ちだしてウロウロするばかり。熊は雨竜川を渡って、大鳳で婆さんを殺し、かばった息子に重傷を負わした。(長尾小弥太)」(『雨竜町史』昭和44年)

現場は雨竜町南部の戸田農場付近と思われる。とすれば三毛別事件の加害熊は、増毛方面から北上してきた可能性がある。

そこで増毛方面で、それらしい事件がなかったか調べてみると、次の事件を見つけた。

「雨竜郡深川村妹背牛、五井祐吉方の小作人阿部吉五郎(49)は去月1日雨竜村の人跡未踏なる山奥へ人の噂を耳にして金銅鉄などの埋まれし宝庫探検の目的とかにて鋸ロッブ鉈類を携え、家を出で、同夜は雨竜村字国領の知人重田友二郎方に一泊、翌朝単独探検の危険を止むる友二郎の忠告をもきかず山深く入り込みしが爾来帰宅せず、(中略)あるいはなれぬ未開の山林の雪路に迷い熊穴に陥り餓死せしにあらざるかとの噂なり(雨竜通信)」(『北海タイムス』大正3年6月10日)

山中に餓死した男を喰らい、肉食化した加害熊が、人肉を求めて山を下り、雨竜で谷崎シャウを襲ったという可能性も考えられる。

肉を食べるクマ
写真=iStock.com/Ekalunda
肉食化した加害熊が、人肉を求めて山を下りた…(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Ekalunda

■三毛別事件の前年に小学生が喰い殺されていた

実はもうひとつ凄惨な事件が起きていた。隣の北竜村で大正3年9月に発生した事件である。

「19日、雨竜郡北竜村字ボウ野沼田小学校生徒、明地勇(13)および山村米蔵(13)の2人、午前7時半頃、登校の途中、突然、熊笹(くまざさ)の中より1頭の巨熊が現れ、悲鳴をあげる勇を一撃のもとに打ち倒し、爪にひっかけたまま十間ばかりも引きずって勇の臓腑(ぞうふ)を引き出してこれを喰い、再び熊笹の中に姿を没した(後略)」(『小樽新聞』大正3年9月21日より要約)

登校中の小学生が喰い殺されるという衝撃的な事件は、地元民の記憶に焼きついたらしく、同じ事件の記述はほかの回顧録にも散見される。

「一同が近づいてみると衣服はズタズタに引き裂かれ、内臓は余すところなく食われてしまい、見るも無残な姿に変わり果てていた。明地君の父親は涙をボロボロ流しながら、自分の着ていた印半纏を脱いでその上にかけ、部落民の用意した担架に乗せて笹藪(ささやぶ)をかき分け家に向かったのである」(『沼田町史』)

■加害熊の断定は難しい

事件同日の午後3時頃、50貫以上もある大熊が仕止められた。

新聞も3歳の加害熊が銃殺されたと報じている。

しかし、このヒグマは加害熊ではなかったようである。

というのも、7カ月後の新聞に、「児童を喰殺した熊か」の見出しで、加害熊らしき別の熊が目撃されたという記事が掲載されているからだ。

「大正4年5月、雨竜郡北竜村の恵比島沢へ砂金鉱区調査に向かった4名が、巨熊1頭が仔熊2頭を引き連れているのに出会し、手負いのまま逃がしたが、仔熊は生け捕った。この親熊が、『昨年10月(筆者註:9月の間違い)同地付近にて小学生を喰い殺し、かつ数年来その地方を荒らしたる熊なるべく(後略)」(『小樽新聞』大正4年5月5日より要約)

ヒグマによる殺傷事件が起きると、必ず熊狩りが行われたが、それによって殺されたヒグマが加害熊であったかどうかは疑わしいケースもあった。とりあえず一頭討ち取ることで、住民を安心させる意味もあったともいわれる。

道東のある猟友会のベテラン猟師によれば、「熊の胃袋や糞から被害者の一部や衣服の切れ端などが見つからない限り、断定は難しいのではないか」という。

森の中のクマ
写真=iStock.com/DrDjJanek
加害熊の断定は難しい(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/DrDjJanek

■すでに「人間の味」を知っていた

このとき手負いで逃がした母熊が、明地少年を喰い殺し、谷崎シャウを襲った加害熊だったのだろうか(その場合、三毛別事件を引き起こしたヒグマはオスのため、それとは別個体ということになる)。

あるいは、三毛別事件を含め、すべての事件を引き起こした恐るべき凶悪熊が別に存在したのだろうか。

筆者としては、後者の可能性が高いと考える。

理由はいくつかあるが、ひとつは谷崎シャウが襲われた状況から、加害熊の目的が当初から「捕食」であったことが明らかであることだ。加害熊は同事件の前に、すでに「人間の味」を知っていた可能性が高いのである。

■熊は「以前に喰ったものをしつこく好む」

もうひとつは、ヒグマには「以前に喰ったものをしつこく好む」という習性があることだ。

川で魚をくわえているヒグマ
写真=iStock.com/KenCanning
以前に喰ったものをしつこく好む(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/KenCanning

思い起こしていただきたい。

三毛別事件で食害されたのは、女性と男児に限られていた。

以下、『エゾヒグマ百科』をもとに、三毛別事件および関連事件における被害者を、襲われた順に列記してみる。

・大正3年 北竜村
明地勇(13) 男児 死亡 食害

・大正4年 深川村
谷崎シャウ(42) 女性 死亡 食害
谷崎武夫(18) 男性 重傷

・大正4年 苫前村太田家
蓮見幹雄(6) 男児 死亡
阿部マユ(34) 女性 死亡 食害

・大正4年 苫前村明景家
明景梅吉(当時1) 男児 死亡(3年後)
明景ヤヨ(34) 女性 重傷
長松要吉(59) 男性 重傷
明景金蔵(3) 男児 死亡 食害
斉藤春義(3) 男児 死亡 食害
斉藤巌(6) 男児 死亡 食害
斉藤タケ(34) 女性 死亡 食害
胎児(0) 不明 死亡

一見して明らかだが、食害されたのは男児と成人女性に限られている。

一方、大人の男性は食害されていない。

■「人間の女」に異常なまでの執着

三毛別事件の第1発見者である太田家の雇い人、長松要吉は、明景家に避難して熊に襲われた。だが、加害熊は彼に一撃を加えたのみで、深追いしなかった。明らかに「排除」が目的であり、加害熊は長松要吉を食物と見なさなかったのである。

中山茂大『神々の復讐』(講談社)
中山茂大『神々の復讐』(講談社)

また、谷崎武夫は18歳で、成人と男児の中間くらいの年齢だった。

加害熊は、1年前に明地少年を襲い、男児の味を求めていた。

そこで、加害熊は、男児に比較的近い年齢の谷崎武夫を襲う目的で出現した。

しかし、谷崎武夫を襲う前に、逃げ遅れたシャウを手近な獲物として襲った。

そこで女性の味を知り、加害熊の嗜好(しこう)は、「男児」から「女性」に変化したのではないか。

そのため、これ以降、加害熊は「女性」を最優先に狙い、その次に「男児」を狙うようになったと思われる。

加害熊が「人間の女」に異常なまでの執着を持っていたことは、吉村昭の『羆嵐』でも語られている。

また、『エゾヒグマ百科』には、次のような事実が確認されたという。

「また不思議なことに、どの農家も婦人用まくらのほとんどがずたずたに破られ、特に数馬宅では妻女アサノ専用の石湯タンポ(中略)を外まで引出し、つつみ布をズタズタにかみ切り、3キログラム余りの石をかみくだいてあった。(中略)ヒグマは最初に食害したものを好んで食おうとし、これを襲撃することが多く、この事件でも婦女をはじめ、婦女が使用した身の回り品にまで被害が及んでいる」(前掲『エゾヒグマ百科』)

動物のオスは「人間の女」を好む。筆者がネコを飼った経験からもそれは明らかである。

三毛別事件において、蓮見幹雄少年は食害されなかった。加害熊は家屋をのぞき込み、幹雄少年の姿を認め、捕食目的で押し入った。

少年を一撃し、いざ喰おうとした時、物音に気づいて阿部マユが顔を出した。熊はマユの姿を認め、「人間の女の匂い」を感じ取ったので、食害の対象を変えたのである。

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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家・人力社代表
昭和44年、北海道深川市生まれ。日本文藝家協会会員。上智大学在学中、探検部に所属し世界各地を放浪。出版社勤務を経て独立。東京都奥多摩町にて、築100年の古民家をリノベして暮らす一方、千葉県大多喜町に、すべてDIYで建てたキャンプ場「しげキャン」をオープン。主な著書に『ロバと歩いた南米・アンデス紀行』(双葉社)、『ハビビな人々』(文藝春秋)、『笑って! 古民家再生』(山と溪谷社)など。北海道の釣り雑誌『North Angler’s』(つり人社)にて「ヒグマ110番」連載中。

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(ノンフィクション作家・人力社代表 中山 茂大)

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