昭和初期の日本人は「テロ犯」に同情した…「犬養毅首相の射殺犯」が死刑にならなかった危険すぎる空気
プレジデントオンライン / 2022年11月11日 11時15分
※本稿は、筒井清忠編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■政財界を震撼させた2つのテロ事件
1932(昭和7)年、政財界の中心人物を斃(たお)したテロ事件が相次ぎ発生した。血盟団事件と五・一五事件である。
![犬養毅](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/1200wm/img_9849eeed3fa05a0291a332862402aaa1173610.jpg)
この年の2月9日、衆議院議員総選挙の応援演説に駒本小学校へ入ろうとした井上準之助(前大蔵大臣)が、小沼正に背後から狙撃されて絶命した。続いて3月5日、三井銀行本店前で団琢磨(三井合名会社理事長)が、菱沼五郎に射殺された。
小沼と菱沼はともに茨城出身の青年で、元大陸浪人の日蓮宗僧侶・井上日召(井上昭)の指導を受けて暗殺に及んだ。日召と彼に率いられた一派は、主任検事木内曽益によって「血盟団」と名付けられ、一連のテロは血盟団事件と呼ばれた。
さらに5月15日、国家改造を目的とする海軍将校・陸軍士官候補生18名が、首相官邸・内大臣官邸・警視庁などを襲撃し、犬養毅(首相)を射殺した。いわゆる五・一五事件である。このとき農本主義を唱える橘孝三郎(水戸愛郷塾長)の指示で、愛郷塾生20名が東京府・埼玉県の変電所施設を襲った。また国家改造運動の指導者の一人、西田税も銃撃されている。
■1年後の起訴に大きな反響はなかった
1933年5月、五・一五事件に関する概要が、陸軍・海軍・司法の3省合同で発表され、同月のうちに陸軍・海軍の軍法会議および東京地裁において、被告人の起訴処分が決定した。同事件については、海軍青年将校と、陸軍士官候補生、および民間人はそれぞれ別の法廷で裁かれることになった。
この前後に、各右派団体は「五・一五事件記念運動」と題して、ビラの撒布や神社参拝などの活動を行ったが、すでに事件から1年が過ぎたこともあり、「一般民衆の関心」は「やや薄らぎ」、大きな反響はなかったという。
ただし事件の公表に伴い、世論の一部には変化の兆しも現れた。それは全国各地の軍人や在郷軍人などの反応から始まった。事件概要の公表にあたって、荒木貞夫陸相・大角岑生海相は談話を発表し、それぞれに被告である軍人たちを「純真なる青年」と称え、彼らの心事に「涙なきをえない」などと同情する姿勢を明らかにした。
■被告たちの動機に同情が集まり始める
先の3省合同による事件概要にも、被告たちの動機として「近時我が国の情勢」が「あらゆる方面に行詰りを生じ」ており、その「根元は政党、財閥及び特権階級互に結託し、只私利私欲にのみ没頭し国防を軽視」したこと、などと被告の主張が要約掲載された。
こうした軍当局者の姿勢を受けて、軍人や在郷軍人の間には、直接行動は批判されるべきだが「犯行の動機及其純情」には同情せざるをえず、「為政者、財閥等」は「一大猛省を要す」といった反響が上がりはじめた。
軍を中心に始まった被告への同情論に、世論が強く反応するのは、事件の公判が開始された後のことであった。同年6月に血盟団事件、7月には陸軍・海軍の公判が始まり、被告らの主張が新聞メディアを中心に発信されたのである。
■検察官も認めた「純真無垢なる殉国的精神」
陸軍・海軍の被告らは、特別に新調した軍服に身を包み、軍法会議に臨んだ。ここで注目したいのは、陸軍軍法会議である。ある新聞記者の傍聴記を以下に引こう。
陸軍側の軍法会議は一篇の脚本を読んで行くやうに、一回の危機も孕(はら)まず、一片の暗影も止めず、呆気ないほどスラスラと進行した。(中略)同じ事件の一翼ではあつても、海軍側が主役であり、陸軍側は従犯であつた関係もあるが、もつと重要なことは、七月十九日の歴史的な大論告に於(お)いて、陸軍の匂坂(春平)検察官は、「被告等は当初より死を覚悟して居り、憂国の赤誠(せきせい)に燃えて一片の私心なく、その純真無垢なる殉国的精神より出(い)でたることはこれを認める。」とハツキリ断定したことである。
若(も)しもこの情状論の一節が欠けてゐたとしたら、陸軍の軍法会議もあれほどスラスラとは済まなかつたであらう。陸軍の検察官は極めて率直に、事件発生の本質に対して、鮮かにも「認」の太鼓判を捺(お)したのである。
[三室葉介(読売新聞記者)「陸軍軍法会議を聴く」]
元陸軍士官候補生たちの裁かれる陸軍軍法会議では、判士(裁判員にあたる)や検察官に至るまで、裁判の関係者が被告に寄り添う態度を見せた。西村琢磨判士長(砲兵中佐)は初日の公判後、控室で被告に同情のあまり号泣したという。また匂坂検察官の態度は、上記の論告引用にも明らかである。
■被告の「慨世憂国の言葉」は広く報道された
すでにこの頃の陸軍は、五・一五事件の後に政党政治の停止を主張し、政治の「革新」を目指す態度を明確にしていた。元候補生たちは直接首相に銃撃を加えておらず、従犯のため重罪にはならないと想定もされていた。きわめて有利な法廷の場で、元候補生たちは思う存分に素志を述べることができた。
曰く、特権支配階級の腐敗。曰く、深刻な不況にあえぐ農民や労働者の窮状。それを放置する政治の無策。「これらの慨世憂国の言葉は咽喉元に向つて擬せられた匕首(あいくち)のやうな鋭さと凄みを以(もつ)てその目的物に迫り、極めて強く国民大衆の胸に触れて行つた」と、先の傍聴記は記す。
さらにこの公判の前後には、満州事変などをきっかけとして、新聞メディアも陸軍への接近を始めていた。事件の直後、陸軍の要望によって、新聞は軍の威信にかかわるような事件の詳報を禁じられていた。
地方紙のなかには、桐生悠々の「信濃毎日新聞」のように事件を批判する報道もあったが、在郷軍人の不買運動などの影響力は強く、地方紙もほどなく論調を変えていく。陸軍の「認」を得た被告の主張が、国民へ広範に伝えられる素地はすでにできていたのである。
これらのことを考えると、古賀海軍中尉が事件計画の段階で、陸軍の一部分を取り入れるために陸軍士官候補生のグループと結んだことは、結果として、世論の後援を得るうえで重大な意味があったと見ることができよう。
■海軍軍法会議では3被告に死刑求刑
他方で、海軍側の公判基調は陸軍と異なっていた。その理由は、海軍将校が計画の中心を担ったことに加えて、海軍側の被告が軍縮政策を批判したことにある。1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約をめぐる海軍部内の対立には、まだ完全な決着はついておらず、軍縮を支持する海軍軍人たちも存在していた。被告の級友や教官、あるいは軍縮条約に反対する軍人たちは被告を応援したが、それは海軍部内の統一された声では必ずしもなかった。
9月11日、海軍軍法会議の山本孝治検察官は法廷で論告を行い、3被告に死刑を求刑した。論告は被告の犯行の違法性を指摘して、直接行動を非難し、さらに「軍人勅諭」「軍人訓戒」を引いて軍人の政治関与自体を強く戒めるものであった。
そして重要なこととして、論告は検察官が独力で作る建て前となっているが、実際は大角岑生海相ら海軍中枢が関与し、相互に確認したうえで出されたことがわかっている(「岩村清一日記」など)。つまり論告は、海軍の組織としての見解でもあった。
■70万通以上の署名、血書、切断した指…
ところがこの海軍側論告が、世論の大きな批判的反響を浴びることになる。すでに被告に同情的な世論が高揚しており、論告に対する弁護側の反対弁論に同調して、被告減刑の請願運動が全国的に広がった。9月19日に出された陸軍側判決が、全員一律求刑禁錮8年に対して4年(実刑3年7カ月)と軽かったのも影響した。
9月末の段階で、すべての府県から約70万通以上の署名が届けられ、なかには教師に指導されたと見られる児童の作文や、血書および切断した指の類までが送られたケースもあった。
新聞以外のメディアも大衆の行動を促した。新潮社の大衆娯楽誌『日の出』は11月号別冊「五・一五事件の人々と獄中の手記」を発刊した。これには被告のグラビアや留守家族の報道、そして各被告の事件に至る経緯が、小説風の読み物や戯曲などのストーリー仕立てで掲載されている。当時普及が進んだレコード盤でも、三上卓作詞「青年日本の歌(昭和維新の歌)」をはじめ、「五・一五事件昭和維新行進曲」「五・一五音頭」「五・一五事件血涙の法廷」などのタイトルが、発売禁止措置を受けながら一部に流布された。
ここに減刑運動は、一部の国家主義運動団体の主催にとどまらず、「寧(むし)ろ純真なる意図の下に自然発生的に一般有志に依り開始せらるるもの」となり、様々なメディアを通して一般大衆に浸透していったのである。
■「赤穂義士」「大衆の代弁者」と称えられる
大衆は被告の主張に、どのように共感していったのか。匂坂検察官のもとに届いた、ある女工の手紙がある。
メディアで公判の報道に触れるまで、彼女は犬養老首相が銃撃で殺されたことに、内心で反感を抱いていた。ところが、ニュースでまだ若い被告らの「社会に対する立派なお考え」を聞いたことで、彼女はそれまでの「誤解」を「まことに恥ずかしく」感じた。彼女自身は凶作地出身の身の上である。昭和恐慌以来続く農村の惨状を思い、「私共世の中から捨てられた様な貧乏人達の為にどれだけ頼母(たのも)しいお働きであったか」との感慨を、被告の弁論のなかに見出した。
こうして彼女は、わずかばかりの金銭に添えて、この手紙を書き送ったのである。昭和恐慌の不況によって社会に絶望した人々は、若者が「純真な」思いで世直しを企てた事件とみなし、ある種の救いと捉えて、強い共感を抱いたものといえよう。
事件の被告らは国家改造運動の一部に根強くあったクーデターによる権力奪取を否定し、自らを「捨て石」と位置付けた。そのこともあって、世間では青年将校たちを、主君の仇討ちのために命を捨てた「赤穂義士」になぞらえて称える観方が定着した。
彼らがクーデターを放棄したのは、現実的な兵力や準備の不足による、やむをえない選択であった。だが、かえってそのことが被告らの「純真」性を強調し、世間が事件をエリート間の政治抗争ではなく、利己心を捨てた「大衆の代弁者」による蹶起(けっき)と位置付けることにつながったのではないだろうか。
■海軍将校より民間人のほうが重い刑に
海軍側の判決は、11月9日に宣告された。最大刑は禁錮15年で、死刑判決は出なかった。
そして判決文には「その罪責寔(まこと)に重大」としながらも、被告の「憂国の至情」を諒として禁錮刑を選択したとある。論告から判決までの間に海軍部内は動揺し、軍縮条約に反対する将官らは大角海相に圧力をかけた。その間、世論の高揚が間接的に影響したこともあったであろう。海軍当局は最終的に、被告の「至情」を是認したのである。
民間側および血盟団事件の裁判結果についても触れておこう。民間側公判は、9月26日に東京地方裁判所で開廷し、10月30日に論告求刑が言い渡された。橘孝三郎(愛郷塾長)と川崎長光(西田税を狙撃した血盟団残党)は無期懲役、その他の被告らも懲役7〜15年の求刑であった。翌1934年2月の判決でも、橘は無期刑、川崎は懲役12年とされたほか、ほぼ求刑通りの刑期が言い渡された。
陸海軍の軍法会議に比べて、民間側の量刑は重かったが、それは動機に対する情状酌量よりも、事件の社会的影響や予防警戒を重視したためであった。それでも量刑の決定にあたっては、判決と同月に予定されていた恩赦が考慮されたという。
■世論が「テロ犯」の擁護に転回した理由
一方で血盟団事件の公判は1933年6月28日より始まっていたが、他の公判と比べて審理は進まなかった。それは井上日召ら被告と弁護人が、裁判長や判事を「忌避(きひ)」する申し立てを執拗(しつよう)に行ったためであり、11月末には裁判長が司法官を辞任、事件の審理からも離脱した。
この間、五・一五事件の公判が全国的な運動をもたらし、「法理上の解釈のみに没頭する」のではなく、被告らの動機などの「精神」を重視すべきとする弁護側の主張に、強力な援護をもたらしていた。
![筒井清忠編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/a/1200wm/img_1a56b428c8f3132e74d85103f638d36e257397.jpg)
後任の裁判長は、被告の心事をことごとく許容して、弁護人との打ち合わせ、検証などの準備の末、翌1934年3月に公判を再開した。論告では井上日召ら4名に死刑が求刑されたが、11月22日の判決では全員が無期懲役以下の有期刑となり、やはり死刑判決は出なかった。判決について裁判長は「恩赦があったことも酌んで」死刑は言い渡さなかったと語っている。この間に、集まった減刑嘆願書は約30万通であった。
これらの事件の公判を通して高揚した国民運動は、1930年代の日本において親欧米派の自由主義的な観念を「特権階級的」と強く批判する、大衆世論の基調が確立した要因の一つになったと考えられる。その背景には、司法から独立した陸海軍の軍法会議、軍とメディアの協力関係があった。
そして被告たちが「捨て石」となって「特権階級」の批判に及んだものと理解されたことは、恐慌に苦しむ人々の共感を強く得て、世論を大きく転回させる契機を作ったのである。
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帝京大学文学部史学科教授
1976年広島県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。著者に『五・一五事件』(中公新書)、『憲政常道と政党政治』(思文閣出版)など。
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(帝京大学文学部史学科教授 小山 俊樹)
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