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「少年A」事件記録も迷わずにポイ…記録保存の概念が根本的にずれている日本の残念すぎる現状

プレジデントオンライン / 2022年11月9日 17時15分

殺害された小学校6年生の土師淳君の頭部が置かれていた神戸市立友が丘中学校の校門(兵庫県神戸市須磨区)(写真=山井書店/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

神戸連続児童殺傷事件(1997年)など重要な少年事件の裁判記録が廃棄されていたことが神戸新聞の報道で明らかになった。報道を受け、最高裁判所は保存期間が終了した裁判記録を当分の間、廃棄しないよう全国の裁判所に通知した。なぜこのようなことが起こったのか。『記者がひもとく「少年」事件史』(岩波新書)の著者、毎日新聞の川名壮志記者は「時間が経てばゴミとして処分するという考え方は、裁判所の常識だ。特例で保存されるケースもあるが、その判断基準は世間の感覚と大きくずれている」という――。

■裁判の記録って、捨ててもいいの?

1997年、14歳の中学生だった「少年A」。酒鬼薔薇聖斗という名で知られる少年が起こした神戸連続児童殺傷事件の記録を、裁判所が捨てていた。

このニュースを目にして、多くの人はこう思ったはずだ。

「えっ、裁判の記録って、捨ててもいいの?」

――答えは、イエス。

ある一定の期間がすぎれば、裁判記録も「ゴミ」なのだ。意外なことかもしれないが、裁判所は、世間でブームになるよりもずっと前から、はやりの「断捨離」をしていたのだ。

裁判所は、つい数年前まで、ほとんどの記録を捨てていた。時間がたてばゴミとして処分。その考え方が「原則」だった。残しておくことの方が「例外」。

そう、あまり知られていないが、じつは保存しておくケースの方が「特例中の特例」だったのだ。たとえ裁判の記録が公文書であっても、裁判所は長らくそうした運用をつづけてきたし、捨てることは、少なくとも違法とはされなかった。

たしかに、捨てていかないことには裁判の記録は増える一方でもある。書庫もパンクするだろうし、日々ふくれあがる紙の資料をすべて残しておくことはできない。それが、裁判所の論理だ。

■裁判所では「捨てる」がデフォルト

そうは言っても、である。

酒鬼薔薇事件ほどの重大な裁判記録まで捨ててしまうのは、いかがなものか。

ごく一般の生活者の肌感覚からいって、「捨てないだろ、普通」と思った人が多いのではないだろうか。

今回の「少年A」の「記録廃棄」問題が明るみに出たあと、ほかの重大な少年事件の記録も、ほとんど捨てられていたことがわかった。これを受けて、最高裁が廃棄問題を検証するという事態にまで発展している。

少年事件を20年ほど取材している新聞記者の私は、最初、この展開にびっくりした。世間の非難にもおどろいたし、最高裁の迅速な対応にもびっくりした。

なぜか。裁判所はそもそも記録を捨てることがデフォルトだからだ。捨てたことを世間から非難される筋合いはない。裁判所がそう思っていても、おかしくはないのだ。

ただ、おどろいた理由は、それだけではない。

少年事件には、オトナの事件とは違うルールがはたらいているからだ。たとえ記録を保存していたとしても、それは日の目を浴びることを前提にしていないじゃないか! 処分しようが保存していようが、どっちにしたって見ることができないじゃないか! 

つねづね私は、そう思っていたから、この件について最高裁が動いたということにおどろいたのだ。

■社会的には元々「存在しない」資料

ちょっとややこしいかもしれないが、つまり、こういうことだ。

オトナの刑事裁判や民事裁判とちがって、少年審判は、憲法が保障する「裁判の公開」の例外的なところに位置づけされている。

ざっくり言おう。オトナの裁判は公開。少年審判は、非公開。少年法によって、そのように定められているのだから仕方がないのだが、廷内にはマスコミも入れないし、一般の人も入れない。そして少年事件の記録そのものも、秘密のベールの中に包まれていて、社会には公表されない記録なのである(※)

筆者註※2000年まで、被害者や遺族でさえも、記録を閲覧できなかった。

裁判所にとって、少年の記録はいわば「内部資料」だ。乱暴にいえば、記録を捨てようと、捨てまいと、社会的には元々「存在しない」にひとしい資料なのである。

外に公表する必要のない資料であれば、一定の期間(少年の場合は26歳になるまで)が過ぎれば、裁判所は、それを事務処理的に捨てていく。しかし、たとえ記録が保存されたとしても、それが未来永劫(えいごう)、公開されないのであれば、捨てられるのと大差ないだろう――と、かつての私は思っていた。

私は少年事件に縁が深い。2004年に長崎県の佐世保市で、上司の娘がクラスメートに殺害されて以来、このテーマに取り組んできた(佐世保小6同級生殺害事件)。しかし、少年事件が起こるたびに、情報のほとんどが非公開であることに、はがゆい思いをしてきた記者だ。

それでも、この20年間、少年事件の取材を続けてきた今、考えが変わってきた。少年事件の記録を残しておくことには、大きな意味があると感じている。少年事件、とりわけ重大な少年事件の記録を保存する意味は、少なくとも4つある。

■記録を保存するべき4つの理由

まず1つは、少年事件に対する、裁判所と世間との大きなギャップだ。

私をふくめた世間一般の人は、少年事件に対して高い関心を持っている。その関心の温度は、裁判所が思っているよりも、ずっと高い。皮肉かもしれないが、少年審判が非公開だからこそ人々の関心が集まる、ともいえる。

それがはっきりわかるケースが、言わずと知れた神戸の連続児童殺傷事件だろう。

「少年A」は、少年審判で、男児と女児を殺害したことをあっさりと認めていた。つまり審判では、事実認定に争いがなかった。そして少年Aはこのとき14歳で、法律的にも、刑事裁判へと逆送できなかった(当時)。そのため少年院に入れることしか、選択肢がなかった。

そう、この事件はセンセーショナルではあったが、裁判所からみれば、争点はきわめて少なく、処遇も少年院一択のみ。裁判所的には、けっして「難しい」事件ではなかったのだ。

だが、その一方で、世間やマスコミの関心は、前例がないほどに熱を帯びていた。小学生5人を殺傷した「犯人」が、14歳の中学生だったという衝撃。それがどれほどのものだったかは、当時の新聞紙面を開くと、ありありと伝わってくる。

全国紙の各紙は、「少年A逮捕」のニュースを、朝刊の一面を丸々つかって報じているのだ。本来なら、新聞がもっとも重視する一面には、政治や経済などの複数の記事がかならず盛り込まれることになっている。紙面を偏らせないためだ。

それが、少年A逮捕で「一面ジャック」。異例も異例である。

■ニュースバリューは安倍元首相殺害事件並み

これがどれほど破格の扱いか。

たとえば、あれだけ話題になったリクルート事件の江副浩正の逮捕や、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人の宮崎勤の逮捕。これらも、大きく扱われはしたものの、一面がそのニュースのみで埋まるということはなかった。

少年Aの事件は、新聞界のルールを打ち破ったのだ。

神戸新聞社に送られた神戸の小学生男児殺害事件の犯行声明文と挑戦状(兵庫・神戸市)
写真=時事通信フォト
神戸新聞社に送られた神戸の小学生男児殺害事件の犯行声明文と挑戦状(兵庫・神戸市) - 写真=時事通信フォト

少年Aの事件のあと、朝刊一面を全部まるごと埋め尽くすほどの忌まわしい殺人事件は、ながらく起きていない。今年7月の安倍晋三・元首相の殺害事件が、ひさびさの一面ジャックだったぐらいだ。

つまり、少年Aの逮捕は、一国の元宰相の殺害犯並みに、ニュース価値が置かれたのだ。そしてこの事件は、少年Aが逮捕されたあとも、続報が途切れることなくつづくという、異例の展開となった。

かくして少年Aの事件は、令和の時代の今も、色あせることなく人々の記憶に深く刻まれている。あらゆる事件は、時がたつにつれ風化して色あせていくのが世の常だが、少年Aについてはそうならなかった。時代を経ても忘れられることなく、何度となく引きあいに出され、むしろ少年事件の代名詞として定着していった。

■世間と裁判所との埋めがたいギャップ

こうした経緯をふまえると、少なくとも世間やマスコミが、この事件を、きわめて重要な事件として捉えていたのは、あたりまえのことだろう。たとえ記録が見られなくても、その裁判記録は“当然”、保存されるべき、と考えるのは自然の流れでもある。

このたび記録がゴミとして捨てられていたことがわかって、非難の声が上がったのも、むりもない。

要するに、裁判所は少年事件のニュースバリューを見あやまったのだ。資料価値の見積もりが、世の中とズレていたということだ。

しかし、そもそも裁判所が、こうした世間とのギャップを埋めるのは難しい。裁判所に世間のジョーシキ感覚がそなわっていたら、そもそもこんな騒ぎになっていないのだから。

であるならば、いっそこの際、仕組みから解決したほうが早道ではないだろうか。つまり、この世間との感覚のズレ、ギャップを埋めることを裁判所に求めるよりも、保存することを「原則」、捨てることを「例外」とした方がずっと有効だろう(※)

筆者註※最高裁は2020年に民事裁判の記録を永久に保存するルールを作ったが、もちろん、すべての記録をとっておくわけではない。保存の対象となる記録は、ごく一部にすぎない(刑事裁判の記録を保存する法務省も、保存の基準を作ったのは2019年のことだ)。

■少年審判は「ブラックボックス」

少年事件の記録を保存するべき、2つ目の理由。

それは、少年審判をはじめとする少年司法が、まっとうな手続きで進められているかどうか、私たちには確認のしようがないブラックボックスだからだ。

たとえば、少年審判。少年法は、審判について「懇切を旨として、和やかに行う」としている。少年審判は、少年を裁くのではなく、更生させる場所だからだ。悪いことをした少年に対して罰を与えるのではなく、まっとうな人間へと立ち直ってもらおうという話である。

なるほど、理想はとても美しい。

しかし、この理想がアダになったケースもある。

・草加事件(1985年、中学3年の女子生徒が殺害された事件)
・山形マット死事件(1993年、中学1年の男子生徒が窒息死させられた事件)

――などが、それにあてはまる。

草加事件では、「刑事」の裁判で、逮捕された少年たちの「有罪」が確定した。ところが、被害者の遺族が賠償を求めた「民事」の裁判では、なんと少年たちは「犯人とはいえない」とする結論になった。クロなのかシロなのか、司法が迷走したのだ。

山形マット死事件では、少年審判で「無罪」とされた少年についても、民事裁判では「有罪」となった。こちらは判断が、シロからクロにひっくり返ったパターンだ。どちらの事件でも、混乱の背景にあったのは、少年審判での事実認定が不十分だったことだ。「和やか」が「アバウト」になったら、当事者たちはたまらない。

少年事件の記録は、ほとんど非公開。だから、裁判官や調査官がきちんと審理をしているのか、私たち外野からは確認のしようがないのだ。「記録を公表しないことが、ヘタをすると裁判所の“隠れみの”になっているんじゃないの?」そんな邪推だって、はたらいてしまう。

少年を立ち直らせることを目的としているはずの少年法制。もし、その手続きにミスや問題が生じていたら……。ここで、事件の記録が捨てられていたら、もはや検証のしようがない。闇に伏されてしまうことになりかねないのだ(※)

筆者註※ちなみに山形マット死事件の記録は残されている。その意味は大きいだろう。

■再犯というパンドラの匣

そして、3つ目の理由は、少年事件でずっとフタをされているテーマ。再犯の問題だ。

少年事件の報道が著しく減っていた時代に、新聞各紙が一面で大きく報じたオトナの事件がある。1979年の三菱銀行人質事件だ。

大阪市内の銀行で、猟銃を持った男(30)が、行員や客を人質に立てこもり、計4人を殺害。立てこもりから42時間後、男は警官に射殺された。

この男には、前歴があった。15歳の時に主婦(21)を殺害し、少年院に収容されていた。その後、わずか1年半で仮退院。そしてその十数年後、また殺人事件を起こしたのだ。

2005年には、無職の男(23)が、大阪市のマンションに暮らす若い姉妹を殺害する事件があった。この男もまた、再犯だった。16歳の時に実母(50)を殺害していた。そして、男は少年院に収容されてから3年後に仮退院していた。

ここで、いま一度、考えてみたい。そもそも、少年の事件では、なぜ刑事裁判ではなく、少年審判をするのか。

くりかえすが、少年の更生を最優先にするためだ。自分のおかしたあやまちを反省し、立ち直ってもらうためだ。そうであるならば、少年がその期待に応えられなかった場合に、どうして更生できなかったのかを、検証する必要があるのではないか。

もちろん、重大事件の再犯はきわめて少ない。そして、これは単純に少年を厳罰化するべきだ、という考えともちがう。

更生を期待された少年が、なぜ再び犯罪に手を染めたのか。今のところ、裁判所は再犯の検証をしようとはしていない。それは、裁判所にとってパンドラの匣(はこ)でもある。

――もしもそのフタが、最悪なかたちで開いてしまったら……。

少年事件の記録は検証の材料になる。やはり、捨てずに残しておくべきだろう。

■記録を残しておくべき最大の理由とは 

そして、最後の4つ目の理由。それは、少年の記録が非公開であることに、大きく関わる。

そもそも、少年の記録は、どうして非公開なのか。

それは、記録を明らかにすれば、少年が「誰」なのかという個人が特定され、少年の更生を妨げるからだ。だとすれば、こんな疑問が生まれないだろうか。

少年が成長し、大人として社会復帰し、立ち直ったとしたら、もはや公開しない理由は消えてなくなるはず。それでも少年の記録を明らかにしない理由は、果たしてどこにあるのか――という疑問だ。

最高裁判所
最高裁判所(写真=7/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

今はかろうじて、被害者や遺族が記録の一部を見たり、コピーしたりすることが認められてはいる。それでも原則として、少年事件の記録は見られない。とくに、神戸連続児童殺傷事件の遺族は、少年法が改正される以前の事件だったため、まったく記録を見ることができなかった。遺族のやるせなさは、いかばかりか。

少年の更生は、たしかに大切だ。しかし一方で、国民の知る権利だって大切だ。それは、どちらか一方だけが大切ということではなく、ケース・バイ・ケースで天秤にかけられる話ではないだろうか。

■知る権利が優先されるタイミングは必ず来る

だから、と私は考える。

更生に必要な期間を過ぎれば、遺族、ひいては国民の「知る権利」が優先されるタイミングもあるのではないだろうか。審判の結果が確定してから、10年、20年、あるいは30年……。いつの段階で公表が許されると考えるかは、人によって異なるだろう。

ただ、あえて理屈だけでいえば、少なくとも少年が天寿をまっとうした後は、記録を公表したとしても、さしつかえがないはずだ。

川名壮志『記者がひもとく少年事件史』(岩波新書)
川名壮志『記者がひもとく少年事件史』(岩波新書)

しかし、将来、こうした議論があったとしても、今回のように肝心の記録がすでに捨てられていたのでは、それこそ公開もへったくれもない。そう考えると、少年事件の記録は、成人の記録以上に保存する意味が大きい、といえる。

裁判の記録は、本当は「ゴミ」ではない。少年事件を含めて公文書だ。それを安易に捨てることは、国民の知る権利を奪うことになる。特に、少年事件の記録は、非公開が原則である以上、裁判所の「断捨離」には、つよい縛りが必要だ。

「裁判の記録って、捨ててもいいの?」

その答えは、「ノー」であるべきだ。

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川名 壮志(かわな・そうじ)
毎日新聞社記者
1975(昭和50)年、長野県生れ。2001(平成13)年、早稲田大学卒業後、毎日新聞社に入社。初任地の長崎県佐世保支局で小六女児同級生殺害事件に遭遇する。被害者の父親は直属の上司である同支局長だった。後年事件の取材を重ね『謝るなら、いつでもおいで』『僕とぼく』(新潮社)などを記す。他の著書に『密着 最高裁のしごと』『記者がひもとく「少年」事件史』(岩波新書)がある。

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(毎日新聞社記者 川名 壮志)

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