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NHK大河ドラマでは描きづらい…「ラスボス」後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して本当に望んでいたこと

プレジデントオンライン / 2022年11月13日 13時15分

後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵・伝藤原信実筆]〔写真=『原色日本の美術 21 面と肖像』(小学館)収録/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

承久の乱を起こし、鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇とはどんな人物だったのか。作家の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマでは『ラスボス』として北条義時に立ちはだかる好戦的な人物のように描かれているが、実際は朝廷と幕府の良好な関係を望んでいた教養人だった」という――。

■なぜ後鳥羽上皇がラスボスとして描かれているのか

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽上皇役を歌舞伎役者の尾上松也さんが演じています。この後鳥羽上皇、同ドラマにおいては「ラスボス」(最後の壁として立ちはだかる存在のことで、ラストに登場するボスキャラクター=ラストボス」の略語)と称されています。なぜ、そう呼ばれているのでしょう。

おそらく、ドラマは、1224年6月、主人公・北条義時の死で幕を閉じると思われます。義時の人生を簡単に振り返ると、幕府の有力御家人として力を付けてきたのは鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が死去(1199年)してからです。

ライバル・比企氏を滅ぼし(1203年)、父・北条時政を政界から追放(1205年)。さらに将軍御所を炎上させた和田義盛との和田合戦(1213年)を勝ち抜いた彼が、晩年に直面した大きな試練が承久の乱(1221年)でした。

後鳥羽上皇が、幕府執権の義時を追討するために挙兵、勃発した兵乱が承久の乱なのです。以上が、上皇が「ラスボス」と称されるゆえんでしょう。

しかし、ラスボスという呼称も、北条義時側からの見方でしかありません。

■ずっと抱いていた“あるコンプレックス”

では、後鳥羽上皇はどのような人物だったのか。

上皇は、1180年7月、高倉天皇の第4皇子として生を受けました。母は、坊門信隆の娘・殖子です。義時は1163年生まれとされていますので、上皇の方が17歳も年下でした。上皇の異母兄には、平清盛の娘・建礼門院が生んだ安徳天皇がおられました。しかし、安徳天皇は、平家都落ちの際に西海に連行されてしまいます(1183年)。

都に天皇が不在という事態を解消するべく、祖父・後白河法皇の意向により、践祚(せんそ)(天皇位を受け継ぐこと)したのが、後鳥羽だったのです。

治承・寿永の内乱(源平合戦)という世の動乱がなければ、後鳥羽が後にこれほどまでも歴史の表舞台に登場するといったことは、もしかしたらなかったかもしれません。

平家は皇位の象徴である三種の神器(八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま))も都から持って出ていました。

よって、後鳥羽は三種の神器がない状態で、天皇位を継いだことになります。1185年、壇ノ浦合戦により、平家は滅亡しますが、神器の1つの宝剣は海中に沈み、捜索されるも発見されることはありませんでした。よって、1190年に、後鳥羽の元服の儀式が行われた際も、三種の神器がそろわない状態であったので、代用の剣が活用されました。

三種の神器がそろわない状態での即位は、後鳥羽にとっては不本意で、それがコンプレックスにつながったのではないかとの見解もあります。

■史料に書かれた後鳥羽上皇の評価

1192年に祖父・後白河法皇が崩御されるまでは院政が続いていましたが、法皇の死により、天皇親政となります。後鳥羽上皇は、第一皇子の土御門天皇に位を譲られた後は、院政を敷きます(1198年〜1221年)。土御門天皇はこの時、僅か3歳でした。

後鳥羽上皇は、承久の乱で敗北したということもあり、歴史的評価は芳しくありません。

例えば「水戸黄門」の「格さん」のモデルともいわれる江戸中期の水戸藩士で歴史家の安積澹泊(通称・覚兵衛)はその著書『大日本史賛藪』のなかで「昔より未だ神器のない状態で即位した天皇はいなかった。よって後鳥羽天皇の践祚は、便宜的なもので、後世までの先例とするべきではない」「上皇となった後鳥羽は、北条義時の専横を憎み、これを討伐されようとした。これはまことに立派なことである。しかし、ご自身は徳がなく、時勢にも暗かった。武将も大した者がいなかったので、兵に規律なく、戦に勝利できないのも当然だった」と、上皇の不徳を批判しています。

また、江戸時代後期の歴史家・頼山陽も、上皇の鎌倉幕府に対する挙兵は「志あり」として評価するものの「謀(はかりごと)なし」(『日本政記』)と、承久の乱の敗北を謀略・戦略の欠如に求めているのです。

後世の歴史家だけではありません。上皇と同時代に生きた者も、上皇を批判的に見る人もいました。関白・藤原忠通の子として生まれ、比叡山延暦寺の住職となった鎌倉時代初期の僧侶・慈円もそうです。

その著書『愚管抄』において「後鳥羽上皇は、表面上は摂政・関白を用いるようになさりながら、心の底では、それを奇怪なものとして、疎ましく思っておられる。上皇(院)の近臣は摂政・関白を悪く言えば、上皇のお心に叶うことを知っている。このようなことが、世を滅ぼしていくのだ」「将軍を上皇が理由なく憎まれることはよろしくない」などと上皇の政道を非難しているのでした。

■文武に優れた教養人

散々な評価の後鳥羽上皇ですが、評価の見直しも行われています。

上皇は和歌に優れ、1201年には、和歌に優れた歌人を集め、和歌所を置いています。多芸多才だった上皇は、蹴鞠(けまり)・琵琶・秦箏・笛なども好まれました。

相撲・水練(水泳)・射芸(弓を射る術)などの武技も嗜まれたといいます(上皇は、側近の貴族に武士と同様の武技の訓練を行いますが、なかには、なぜ武士の所業をまねしなければならんと批判的に見ていたものもいたはずです)。

さらには、太刀を製作・鑑定するなどされました。文化面の功績から、上皇を評価する声も高いのです。

例えば、『新古今和歌集』(全20巻)は、後鳥羽上皇の命令により編纂された勅撰和歌集です。歌数は約2000首で、上皇の歌も33首採録されています。『新古今集』は、万葉調・古今調とともに、新古今調として、後世に大きな影響を及ぼした和歌集として知られています。

その和歌集編纂の命を下し、自身の和歌も採録されているのですから、後鳥羽上皇の教養は相当のものだったといえるでしょう。

■実は朝廷と幕府の良好な関係を望んでいた

ドラマにおいては「悪役」の上皇は、義時が牛耳る幕府を嫌っているように描かれていますが、決してそうした面ばかりではありませんでした。

上皇は一貫して幕府を邪険に扱ってはいません。3代将軍・源実朝に子がいないことで、幕府に後継者問題が持ち上がった際、幕府としては、実朝の後継を上皇の皇子(頼仁親王か雅成親王)にしたいと考えていました。

源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)
源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)(写真=Hannah/PD-Japan/Wikimedia Commons)

この幕府の「親王将軍」構想に、上皇は賛意を示していたのです。実朝との関係も良好でした。上皇は実朝の官位を上昇させるよう計らっていましたし、実朝も上皇に対し、「山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」(山が裂け、海が干上がるような世であったとしても、君(後鳥羽上皇)にそむく心は私にはありません)との和歌(『金槐和歌集』所収)を詠んでいました。良好な公武(朝廷と幕府)関係が続いていたのです。

上皇は、幕府が朝廷を敬い、朝廷が幕府をうまくコントロールできる体制を望んでいたといえます。

■3代将軍・実朝に対しての思い

そこに影がさしたのが、実朝暗殺(1219年)でした。

実朝暗殺後、上皇は実朝の祈祷をしていた陰陽師を全て解任しています。

かつては実朝を調伏(呪詛)していたことの証拠隠滅のための解任とも解釈されていました。しかし、上皇と実朝の関係は良好であったことから、呪詛ではなく、実朝の安泰を祈念させていたとされています。つまり、陰陽師解任は証拠隠滅ではなく、実朝の身を守護することができなかった陰陽師への上皇の怒りだと言えるでしょう。

上皇はそこまで幕府の将軍(実朝)のことを考えていたのです。

■実朝暗殺がなければ、承久の乱は勃発しなかった

実朝の死後、進んでいた「親王将軍」構想は頓挫します。上皇が、親王を鎌倉に下向させることを嫌がったのです。

親王の鎌倉下向は「日本国を2つに分けることになるので、そのようなことはできない」とお考えになり、関白・摂政の子ならば下向は可能とされたのです(『愚管抄』)。

ここから実朝亡き幕府への上皇の不信感がうかがえます。「歴史にもしも」は禁物と言われますが、実朝暗殺がなければ、承久の乱は勃発しなかった可能性が高いと思われます。

■当代きっての教養人の最期

実朝の死を上皇は鎌倉に使者を派遣して悼みますが(1219年3月9日)、それとともに、上皇は使者をして、義時に「摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職をやめるように」との命令を出します。

両荘は、上皇の愛妾で白拍子・亀菊に与えられていました。だが、義時は、地頭の撤廃は、幕府の根幹を揺るがすことになるとして拒否。弟・北条時房に千騎の軍勢を率いて上洛させ、その返答をさせるのでした。

「わが願いをはねつけるとは」と上皇は怒ったに違いありません。承久の乱は、幕府(中心には義時)が上皇のコントロール不能になったことにより、勃発したと考えられます。

承久の乱の上皇方の敗北により、上皇方に加勢した者の所領は幕府に没収されます。そして、東国出身の御家人が、その地の地頭に任命されるのです。それにより、幕府は西国にも権力を浸透させていくのでした。

上皇方に勝利したことにより、幕府の発言力は増し、皇位継承にも幕府の意向が重視されるようになりました。隠岐島に配流された上皇は、都に帰還されることなく、1239年に同地で崩御されるのです。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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