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「来ても絶対乗らねぇぞ」心筋梗塞疑いの老父が"救急車拒否"…結局、逝かせてしまった40代ひとり息子の悔恨

プレジデントオンライン / 2022年11月13日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andrei Berezovskii

現在40代の男性の父親は約10年前、70歳になる頃から胸が苦しくなる自覚症状があったが、大の病院・医者嫌いで、症状が悪化しても診察を受けたがらない。一人息子の男性は母親の要請に応じて、父親を説得するが、頑として受け付けない。結局、適切な処置を受けることなく他界してしまった――。
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■生い立ちと結婚

関東在住の石黒士郎さん(40代・既婚)は、製造業に従事する父親と、パートで働く母親の元に一人っ子として生まれた。両親は2人とも東北から関東に出てきて、職場で出会い、結婚。母親は父親より6歳年上の姉さん女房だった。

4人きょうだいの末っ子だった父親は運動神経が良く、石黒さんが中学校に上がるまで野球と柔道を教えてくれた。6人きょうだいの長女だった母親はしっかりした働き者で、60歳になるまでずっとパートで働いていた。

「両親からは双方の不満ばかり聞かされていたので、不仲だと思っていましたが、よく一緒に散歩などをしていたので、本当は仲が良かったのかもと最近考えるようになりました。高校以降、私は親の元を離れてしまったので、寂しい思いをさせたと思います」

高校を卒業すると、石黒さんは第一希望の大学に不合格。一浪して第一希望の大学に入学した。そして、大学1年の時に始めた飲食店のアルバイト先で、短大に通う女性と出会う。後に妻となる同い年のこの女性と数カ月後に交際をスタート。大学を卒業した石黒さんは、福祉系の仕事に就き、妻は、短大を出て電機メーカーで働いていた。5年後、2人が25歳になる年に結婚し、妻は専業主婦となった。

■狭心症を我慢する父親

実家から高速道路を使って2時間ほどのところで新婚生活を始めた石黒さん。数カ月に一度は妻とともに実家を訪れていたが、時には自分たちの生活に追われ、数年実家を訪れない期間もあった。

それから数年後の2012年秋。実家に帰っていた石黒さん(当時40代)は、父親(当時72歳)から、「最近胸が痛苦しくなることがあるんだけど、しばらくじっとしていれば落ち着くから大丈夫なんだ」と言われ、石黒さんは狭心症を疑った。

「その症状は、その時始まったわけではなく、以前からあったようですが、休めば大丈夫と父は思っていました。私にとって父は、どこか不死身なイメージがあり、なんだかんだで自分の感覚で体調不良を乗り越えて来たところがあるので、『無理しないでよ。本当にやばいと思ったら、救急車呼んでよ』とだけ伝えていました」

その約1カ月後、やはりその日も胸が痛苦しくなったが、父親はじっと我慢していた。前日夜から脂汗をかき、胸が痛苦しくて動けなくなっている父親のただならぬ様子を見て不安になった母親(当時78歳)は、何度も「病院に行った方が良い」と言ったが、父親は「大丈夫だ」と言ってベッドに入り、翌朝まで我慢し続けた。しかし朝になって父親は、痛みと苦しみに耐えかね、自力で受診を決意。

胸が痛くて苦しい男性
写真=iStock.com/Nopphon Pattanasri
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nopphon Pattanasri

母親は救急車を呼ぼうと言ったが、「救急車を呼ぶとご近所にわかってしまう。大事にしたくない。目立ちたくない」と言ってタクシーで病院へ。その結果、心筋梗塞を起こしていたことがわかり、医師には「なぜもっと早く来なかったんですか!」と叱られた。

仕事中に母親から電話を受けて駆けつけた石黒さんだったが、手遅れにならずに済み、安堵(あんど)した表情の母親を見てほっと胸をなでおろしたのだった。

■母親の衰えと父親の病院嫌い

2019年春。福祉系の仕事に従事する石黒さんは、85歳になった母親に、早めに要介護認定調査を受けるよう勧めたところ、母親は要支援2と認定された。

その頃79歳の父親からは、「母さんに認知症が進行している」「転んだら1人では立ち上がることができない」などの話を聞いていたが、石黒さんは母親に早急に介護の必要があるとは理解しておらず、母親のフォローは父親に任せきり。ただ、2人ともストレスをためているということは分かっていたため、たまに実家に帰ったときには、2人の話をよく聞き、ストレスの軽減に努めていた。

そんな2021年の春。母親から電話で、「お父さんが病院に行かなくて困る。実家に来て病院に行くように説得してほしい」という旨の電話を何度か受け、石黒さんは実家に帰り、対応。根気強く父親の話を聞き、穏やかに受診を勧めた。

「父は、大の病院嫌いでお医者さん嫌い。だから、『わかるよ、わかる。じゃあ、病院代えちゃえばいいじゃん』と寄り添う時もあれば、『お父さんの気持ちはわかるけど、この病気だけはこの先生に診てもらった方が良い。嫌だとは思うけど我慢して行ってください。1回行けば数カ月、その先生の顔を見なくて済むんだから』と言って説得するなど、毎回工夫を凝らしていました」

ただ、石黒さんに言われたからといってすぐに受診することはなく、「後日でもいいから、ちゃんと受診してね」と言って帰り、数日後に受診してくれることが多かった。

男性の脈拍を測る女性医師
写真=iStock.com/byryo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

石黒さんの知る限り、父親の病院・医者嫌いは、両親が結婚してしばらくした後、母親が石黒さんの前に、男の子を妊娠した頃から始まったのではないかという。石黒さんにとっては兄に当たる男児の出産の時、父親が「産婦人科医が酔っ払っていたため、長男を死なせてしまった。そのとき、もう子どもはいらないと思った」と、石黒さんが子どもの頃、自宅に連れてきて一緒に飲んでいる同僚に話していたのを聞いたのだった。

その後父親は、近所の内科を受診。薬を処方されたが、効き目がなかったのか、医師を信用できなかったのか、二度と受診しなかった。それからしばらくして、やはり痛みに耐えかねたのか、かつて心筋梗塞を起こした際に手術をしてもらった大病院まで出かけたようだ。

「後から母に聞いたのですが、おそらくそこが父が唯一信頼していた病院だったのでしょう。最後の気力を振り絞って出向いたようです。しかし、大病院である上にコロナ禍。予約も取っておらず、受付で門前払いを食らいました。母は、『門前払いされたのは、かなりショックみたいだった』と話していました。こうして、全く医療を頼らなくなったのだと思います」

■精いっぱいの説得

そして2021年6月。母親から同様の電話を受けた。

この時も、石黒さんは実家に出向いたが、父親は説得には応じず、「大丈夫だ」を繰り返した。父親はやせ細り、声も力なくかすれ、どう見ても大丈夫ではない状態。石黒さんは家族として、父親を思う強い気持ちと、福祉業界で培った技術を駆使して、精いっぱいの説得を試みたが、父親は一向に動こうとしない。

石黒さんは、「息子がここまで真剣に話しているのに、なぜ父は医療を受けてくれないんだ……」と無力さを感じるとともに、“結果的に家族に心配と迷惑をかけている父”と、“仕事では説得できるのに、自分の親を説得できない自分”への怒りの感情が湧き出るのを感じていた。

ただ、数カ月前にも同様のやり取りをして、しばらくすると父親は自然に体調を戻していたことがあったため、「父がここまで言うのだから、本当に大丈夫なんだろう」とも思える。石黒さんは、そう自分に言い聞かせ、諦めることに。

石黒さん夫婦は、その足で地域包括支援センターに出向き、「母が要支援2であること、父が重篤な状態に見えるのに、病院に行かないこと」などの状況を伝えると同時に、地域医療の情報を得て、このまま父親が病院に行かないのなら、地域医療の医師に来てもらうという対策を考えていた。

同じ月、母親からまた、同様の電話があった。だが前回、精いっぱいの説得をしたにもかかわらず、一向に説得に応じようとしなった父親を説得する自信は、もはや石黒さんになかった。「先日、あれだけ言ってもだめだったんだから、俺が言っても変わらないよ」と母親に告げたが、「どうしても説得してほしい」と言って譲らない。

仕方なく石黒さんは、再び実家に出向き、説得にあたった。今回は、「救急車を呼ぶ」方法の他に、「医師に来てもらう」という選択肢を増やし、父親が病院に行かないことが、結果的に家族に迷惑をかけていることを、時に厳しく諭しながら説得を試みたが、結局父親は応じることはなかった。

屋外に停車中の救急車
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

「父は、優しくもあり、厳しさもある人でした。自分にとっては、リスペクトする人で、一時期の反抗期を除き、強く否定するようなことはできませんでした。その上、福祉が染み込んでいる私は、社会人になってからも当然、よ〜く話を聞いて、父の思いを尊重して……という関わり方を続けていました」

痛みに耐えている様子の父親を見かねて、「もう、救急車を呼ぶからね」と石黒さんが言っても父親は、「大丈夫だ! 来ても乗らねぇぞ!」と拒否するばかり。

「このやり取りを何度も繰り返しました。父の状態がかなり悪いのは見て取れました。ただ、同居していない分、母ほどは理解していなかったのかもしれません」

石黒さんは、時間と労力と、仕事で培ってきた技法を駆使して精いっぱい説得したこと。それでも父親は、「大丈夫」と言っていること。これまでも、もっと体調が悪そうな時に、父親のやりたいようにさせて、回復してきたこと。そして、もしも強引に救急車を呼んで、父親が頑なに「乗らない」と拒否を続けたとしたら、とても迷惑をかけてしまうと想像してしまったこと……。これらの理由から、この日も諦めて自宅に帰った。

■父親の死

6月30日の夕方。再度母親から電話がかかってきた。石黒さんは仕事に出ていたため、妻が電話に出る。母親は、激しく動揺しており、泣いていた。

「助けてくれ! かわいそうでかわいそうで……。何とか助けてやってくれ!」

妻は、ただごとではない状況だと察知し、先日夫婦で相談してあった地域包括支援センターに電話。状況を伝え、緊急で医師に訪問してもらうことに。

訪問した医師によると、父親は、1カ月ほど排尿がしにくい状態が続いていたと判明。尿路を確保するためのバルーンを装着し、強制的に排尿する処置を施してもらい、しばらく様子を見ることになった。

ところが翌日、尿に血液が混じり出したため、急を要すると判断した医師が半ば強引に父親を説得し、緊急入院に。その2日後の7月3日。父親は帰らぬ人となった。81歳だった。

「どうして、家族にしかできない、命を救うための強引な対応ができなかったのか……。無口な父に寄り添う努力を続けた結果、父の言うことを強く否定してまで、強引に父を助けることができませんでした……」

忌引きで仕事を休んだ石黒さんは、父親の葬儀の準備などで、実家で1週間ほど母親と過ごすことに。

その1週間で、87歳の母親の衰えや認知症の進み具合を目の当たりにし、これから始まる母親の一人暮らしのフォローや介護の必要性をひしひしと感じた。現役で働く40代の石黒さんは、今後どのようにして母親と向き合っていくのだろうか。(以下、後編へ)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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