「殺されたローマ人兵士の頭がボールに」古代中国の蹴鞠がサッカーになるまでの奇怪な歴史
プレジデントオンライン / 2022年11月20日 10時15分
■古代版サッカーは蹴鞠だけではない
世界で最も人気のあるスポーツ、サッカーのルーツは国際サッカー連盟(FIFA)によると、古代中国にあるという。前漢の時代(紀元前3世紀〜紀元前1世紀)、古代都市の淄博で蹴鞠(しゅうきく)と呼ばれる遊戯が行われていた。
羽根と毛を詰めた革製のボールを、高さ10メートルの竹の棒の上に設置した直径40センチほどの小さなネットに入れるというもので、この遊戯――今の私たちにはお馴染みの足でボールを蹴る競技の最初期のもの――の参加者は、下肢、胸、背中、肩を使ってボールを動かすことができたが、手や腕を使ってはいけなかったようだ。
![古代中国の蹴鞠](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/6/1200wm/img_f682fa26924a780adea77222142ac429397794.jpg)
あるイギリスの人類学者の調査によると、蹴鞠はそれよりもはるかに昔、ことによると紀元前2500年から2000年頃に考案された可能性があり、西暦500年頃にはこの人気の遊戯が当時の軍事訓練の一環として取り入れられていた。
中国の蹴鞠が唯一の古代版のサッカーではない。日本人も蹴鞠(けまり)を楽しんでいたし、古代ギリシアにはエピスキロス、古代ローマにはハルパスツム、アステカにはトラチトリと呼ばれる似たようなゲームがあった。手と体のほかの部分を使ってボールを前に進めたこれらの遊戯はすべて、現代のサッカーの「先祖」と考えられている。
■「ローマ人兵士の頭がボールだった」説も
ボールを用いた遊戯がこんにちの私たちが知るサッカーに発展したのは、イギリスにおいてだった。イギリスで最初に使われたボールは、あのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)将軍が率いる軍団とともにもたらされたという説がある。あるいは、初めてのボールは戦闘で殺されたローマ人兵士の頭だったとする、かなり想像力を働かせた説もある。
勇敢なケルト人はそれまでヨーロッパで誰も成しえなかったことを実行した。「永遠の都」ローマからやってきた強大な帝国を受け入れなかったのだ。一方でサッカーはこの島にとどまり、ルールの成熟とルールにのっとった技術の発展のおかげで、その地においてのみ、スポーツのレベルに成長していった。
現在、そのほかのボールを使った遊戯はほとんど残っておらず、例外は競技というよりは一風変わったサーカスに近いカルチョ・フィオレンティノくらいだ。
■「殺人」以外は許される野蛮なスポーツ
中世から現代までの何世紀にもわたって、ボールを使用したいくつもの娯楽や試合がイギリス各地で行われていて、それらは「モブフットボール」「マスフットボール」「フットボール・オブ・マルティチュード」などと呼ばれていた。
そのほとんどでは手と足の両方が使用可能で、対戦するそれぞれのチームの人数は20人、50人、場合によっては100人を超えた。隣り合う村同士で対戦することが多かったが、既婚男性のチーム対未婚男性のチームの場合もあり、町中や公園内の即席の場所や、2つの村の境界線上の原っぱなどで行われた。
ゴールポストはなく、ボールを手で抱えて、あるいは足で蹴って、定められた場所――木、川岸、もしくは町の中央広場――まで運び、そこに置く。いわば「サッカーでもありラグビーでもある」、つまり両方の競技の融合のような感じのスポーツだった。
「マスフットボール」のひとつが「ロイヤル・シュローヴタイド・フットボール」で、これは相手からボールを奪う時には「殺人」以外のあらゆる手段が認められていた野蛮なスポーツだった。
パンチやキックが許されていたため、選手同士の激しいぶつかり合いで多くの死者が出たが、たいていは偶発的な事故だった。しかし、ノーサンバーランド・カウンティのある古い教会の蔵書から、1280年にウルガムの村で発生した異例の事態の記録が発見された。試合中に選手のひとりが相手チームの選手に刺殺されたというもので、これが歴史に残る最古のサッカー犯罪に当たる。
■「神が禁じた娯楽」として投獄刑の対象に
サッカーは一般市民の間でも大いに人気を獲得したが、19世紀の半ばまでは当局からの承認を得られなかった。1314年にロンドンの市長は、通りや公園で混乱を引き起こすという理由から、市の城壁内での試合を禁止した。試合をした人たちは数カ月間投獄された。14世紀のイングランドのある司教によると、この娯楽を実践すると「多くの悪を生じさせ、それは神によって禁じられている」とのことだった。
その数年後、国王エドワード3世は「役に立たない愚かな遊び」という理由から試合を認めず、「投獄刑に処す」とした。人気を集めて広まっていたこの娯楽を禁止する法律が、国や地方によって30以上も定められた。1410年、国王ヘンリー6世は「サッカーをするという罪を犯した」人に罰金を科した。ほかの君主たちもアーチェリーのような「より戦争に役立つ」競技を推奨した。
高位の人間がこの競技に与えた軽蔑的な評価の一例として、1608年にウィリアム・シェイクスピアが発表した『リア王』がある。第1幕第4場で、ケント伯がオズワルドという名前の執事をけなして、彼のことを「品のないサッカー選手」と形容する場面がある。
■シューズ用の革靴を作らせたヘンリー8世
興味深いことに、サッカーシューズの最初の記録は1526年のもので、イングランドのヘンリー8世――度重なる結婚と、イングランド国教会を支持してバチカンとたもとを分かったことで知られる国王――が仕立て屋に対して「45足のビロード(の靴)と、サッカー用の1足の革靴」を作るように命じた。
ヘンリー8世が実際に試合に出場したかどうかは不明だが、1548年に息子のエドワード6世が、試合をきっかけとしてふたつの町の間で戦いが発生したのを受けて、再びサッカーを禁止したことはわかっている。
数世紀が経過し、禁止令が解除された後、マンチェスター市議会は「多くの窓」が割られることを理由に市内でのサッカーを禁止した。スコットランドでは1906年まで禁止令が法的には継続していたが、まだそれが効力を持っていた1873年にはすでに最初の公式大会(スコティッシュカップ)が開催されている。
■学校で議論された「サッカーの価値」
支配者階級からは賛同を得られなかった一方で、学校ではサッカーが続けられていた。16世紀、ロンドンのセント・ポールズ・スクールは、サッカーには「有益な教育的価値」と、「健康と体力」を増進する性質があると強調している。
これはサッカーやスポーツ全般の歴史においてそれなりに意味がある。その頃まで、「スポーツ」の概念は戦争のための訓練と一体化していた。ちなみに、古代オリンピックで発展した競技はいずれも戦時の状況と関連があり、ボクシング、レスリング、槍投げ、戦車競走、短距離走や長距離走などで、鎧、盾、槍を使用する場合もあった。
一方で主にアメリカ、イングランド、フランスの大学は、より友愛的な競技を確立するための場となり、その目的は相手を壊滅させるものではなくなった。サッカー、ラグビー、テニス、クリケットなどの種目にはある共通点がある。相手から攻撃を受けるとしても、ボールをぶつけられるくらいだということだ。
時代の経過とともに、学校や大学はサッカーの規範の発展のための理想的な議論の場となったが、それぞれの学校が独自のルールや基準を作成したため、ほかの学校のルールとは多くの点で異なる場合が生じた。このようにして、サッカーは教室や回廊で長く人目を忍んで存在していたが、ようやく立派に成長した形で表舞台に登場し、その魅力で世界を席巻することになる。
![19世紀の少年サッカー](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/a/1200wm/img_0a9fcb03b1cf6fec8757561cd7869161396278.jpg)
■かつてのボールは動物の臓器で作られていた
この長い道のりにおいて、大きな影響を与えることになったふたつの要素がある。ひとつはボールだ。中世から19世紀の前半にかけて使用されていたボールは動物の臓器で作られた。
当時のボールは雄牛またはブタの膀胱に空気を入れてふくらませてから、皮で覆っていた。ブタの膀胱をシカの皮で包んで作った450年前のボールが、スコットランドのスターリング・スミス博物館に展示されている。アイルランドの言い伝え(実話というよりも伝説に近いと思われる)によると、この島では1800年頃までボールの材料として使用されていたのは……なんと処刑された犯罪者の胃だったというのだ!
使用された素材の件は別にしても、これらのボールには足だけを使って動かすのに適した球体としての質を備えていないという問題があった。いびつな形のため、選手たちはより正確にボールを前に進めるために手で抱えて運ばざるをえなかった。言ってみれば、ラグビーボールを使ってサッカーをしているようなものだったのだ。
大きな進展がもたらされたのは、アメリカ人の発明家チャールズ・グッドイヤーが1855年のパリ万博でゴム製のボールを紹介した時だった。空気でふくらませることができる完全な球体のゴムボールの発明でグッドイヤーは金賞を受賞したが、ロンドンでスポーツ用品の工場を経営していたリリーホワイト一族もこのボールに注目し、1866年にはアメリカ人の発明を取り入れて、こんにちの公式戦で使用されているものと同じ大きさと重さを持つ最初のボール「ナンバー5」を製造した。
このボールが持つほぼ完全な球体という特徴のおかげで、どんな土地でも足だけでプレイできるスポーツがようやく確立することになった。
■初めての「ゴール」は1681年?
もうひとつの要素はゴールだ。歴史家の間には、ゴールにボールを入れるという目的で行われた最初の試合は、ロンドンにあるアルベマール侯爵の邸宅で行われたとの説がある。
![ルチアーノ・ウェルニッケ『サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?』(扶桑社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/1/1200wm/img_21f15fedda4c14127b31e6c47065518e196826.jpg)
クラレンドンハウスとして知られるその場所で、1681年に家主の執事たちのチームが国王チャールズ2世の執事たちのチームと対戦した。邸宅内の中庭で顔を合わせた両チームの選手たちは、その場所が「マスフットボール」をするには少し狭く、壁をゴールとして使用すると危険だと判断して、敷地を取り囲む壁のゲートと、建物内に通じる入口の扉をゴールにすることで合意した。
この慣習が18世紀および19世紀の学校で盛んになり、子供たちは教室や回廊の扉をゴールとして使用した。
技術と創意工夫を組み合わせ、道具と舞台が揃ったことで、サッカーが今あるようなサッカーになる環境が整ったのだ。
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1969年ブエノスアイレス生まれ。『サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?』(扶桑社)をはじめとするサッカー史や各国代表チームのガイドブックの他、選手の評伝など多数の著書があり、30カ国以上で出版されている。
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(サッカージャーナリスト ルチアーノ・ウェルニッケ)
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