19世紀前半までは15人対25人も普通だった…「なぜサッカーは11人対11人で戦うのか」を解説する
プレジデントオンライン / 2022年11月23日 13時15分
■ロンドンのパブで決まった「公式ルール」
1863年10月26日、競技のルールを統一するために、そして「ラグビー・フットボール(ラグビー)とアソシエーション・フットボール(サッカー)の道筋」を厳格に区別するために、ロンドンの11のクラブの代表者と、ほかの都市のチームの代理人――「オブザーバー」としてのみの参加で、発言権や投票権を持たなかった――が、イギリスの首都ロンドンの中心部のグレート・クイーン・ストリートにあるパブ「フリーメイソンズ・タバーン」に集まった。
店内ではビールのグラスを傾け、高級なタバコをくゆらせながら、代表者たちはイングランドサッカー協会(FA)を設立することに合意した。これはサッカーでは初となる運営組織だった。
同じ会合で、代表者たちは最初の「公式の」ルールの起草に着手し、2カ月と数回の話し合いを経て、14条のルールを作成した。
■「紳士の競技」なので審判は「不必要」
この最初期のルールの作成者たちは、会合の際におそらくビールが回ってしまって頭の方はよく回っていなかったため、1チーム当たりの選手の人数や試合の長さ(時間を基準にするか、得点数を基準にするか)といった基本的な点を見落としていた。
審判については会合において議論されたが、出席者たちはサッカーが「紳士の競技」であり、それゆえに仲裁者の存在は「不必要」と見なすことで合意したため、最終的に規則から外されることが決定した。
21世紀の現在、高い技術を持つプロの選手が激しいプレイを見せるこのスポーツにおいて、審判は不可欠な存在になったばかりでなく、その人数も増えた。多くの公式戦は、主審ひとり、副審ふたり、第4の審判員ひとり、ゴールポストの近くでボールがゴールラインを越えたかどうかを確認する追加の審判ふたりで行われる。
これだけの数の人の目でも不十分だと言うかのように、FIFAは2014年のワールドカップで「ホークアイ」を導入した。これはゴール周辺に設置された7台のカメラによってボールがゴールラインを通過したかどうかを判断するシステムだ。
■サッカーはなぜ11人対11人になったのか
最初のルールには1チームの選手の人数が具体的に示されていなかったことについてはすでに説明した。出場する選手の人数は試合の開催に合意した時点で、両チームのキャプテンによって決定された。
FIFAは「(それぞれ11人の選手から成るチームでのサッカーという)慣習は1871年に始まったチャレンジカップ・フットボール・アソシエーション、現在のFAカップのルールにおいて確認できる」としている。しかし、どのような経緯でその基本的な数字に落ち着いたのだろうか?
11人の選手同士で争われたことが知られている最初期の事例はイートン、ハロウ、チャーターハウスといったエリート高校の校内対抗試合で記録されている。この数字が選ばれたのは偶然の結果で、生徒たちが月曜日から金曜日まで、もしくは学年を通して滞在する学校の寮の寝室一部屋の生徒数と同じだった。ほかの教育機関では、生徒たちが寝泊まりする部屋の大きさや数によって、1チームの人数が10人、12人、15人、あるいはそれ以上のこともあった。
このような人数の違いは別の学校のチーム同士の対戦が決まると、より顕著になった。1840年、ケンブリッジ大学で行われたシュルーズベリー・スクールとラグビー・スクールの卒業生の試合では、一方のチームが15人だったのに対して、もう一方は……なんと25人もいたのだ!
試合は混乱して収拾がつかず、0対0の引き分けに終わった。11人という人数の由来の別の説として、ひとつの寝室の10人の生徒に、教師がゴールキーパーとして加わってチームを作ったからだとするものもある。
■イートン校vsハロウ校で11人対決に
1834年12月、イートンの生徒たちが自分たちの学校で試合をしようとハロウのチームを招待した時、11という人数が学校の壁を越えた。ハロウは招待を受け入れたが、それぞれのチームが11人ずつで試合をするのならば、という条件を付けた。イートンはそれに同意した。
その当時、招待した側のチームが相手の要求する規則を受け入れることはめったになかった。事実、1827年にイートンはウインチェスターとの試合を、相手側から両チームの選手が雨靴をはいてプレイすることという要求があったために拒否している。イートンとハロウの試合はバランスの取れたチーム構成を示し、両校の生徒たちがカレッジに進むと学校の垣根を越えた。ふたつのカレッジ間の「ダービー」はその後も続いた。
さらには、ケンブリッジなどの大学に進んだ卒業生同士の間でも行われた。そのケンブリッジ大学では、1862年にある試合を45分ずつの前半と後半に分けて実施することで合意に達した。これがサッカーでの1試合90分間の最古の記録で、この時間が後にすべての公式戦で承認されることになる。
■「クリケットから影響を受けた」説は本当か
生徒や学生たちによる試合のほかにも、イギリス北部で「11人対11人」の実験が行われた。1862年にシェフィールドFCは、既に市内やその周辺に誕生していたほかの14チームに対して、人数を1チーム11人で固定してはどうかと提案した。
シェフィールドは当時の北部の有力都市で、冬の間に何かすることを探していたクリケットの選手たちによって1857年に創設されたシェフィールドFCは、世界最古のクラブとしてFIFAに登録されている。
サッカーのほぼ1世紀前にルールが生まれたクリケットは、「11人対11人」で試合が行われる。初期のクリケットではチームの人数がまちまちで、1チームが20人から25人になることもあった。
1697年、イングランドの新聞「Foreign Post」に掲載された記事には、サセックスでのクリケットの試合は1チーム11人で行われるとはっきり書かれていた。クリケットの選手でこのスポーツの後援者でもあったリッチモンド公爵は、その情報を目に留め、18世紀初めに開催された試合で11人という人数を提案した。
その形がイングランド各地に広まり、1744年にルールとして制定され、それが後にシェフィールドのサッカー場にも影響を与えたということなのだ。
![18世紀のクリケットの試合](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/a/1200wm/img_2ac3f3d4704564e2c8d7520b45d3c343397997.jpg)
■最古のクラブは16人や18人で戦っていた
一部の歴史家によって支持されているこの仮説は、夏にクリケットをする11人が冬にはボールを蹴ると考えれば、論理に飛躍があるとは思えない。ただし、この仮説では、ふたつのサッカークラブによる最初の「公式戦」だった1860年12月26日のシェフィールドとハラムの試合が、本書の執筆のために参照した記録によると「16人対16人」で行われた理由の説明がつかない。
また、シェフィールド・ルールで11という数字を決定した後、シェフィールドFCは1865年にロビン・フッドで有名なノッティンガムを訪れて地元のチームと対戦した時、同市のルールに合わせて1チーム18人で試合をしている。このふたつの例のせいで、クリケットがサッカーに強い影響を及ぼしたとの説はやや不利になっている。
ノッティンガムのシャーウッドの森での試合から2カ月後、ロンドンの協会(後に正式な国内連盟となるイングランドサッカー協会)とシェフィールドは、ルールの基準を統一するためそれぞれの都市の「選抜された選手」による試合の開催を決定した。
北の代表者たちは1チーム11人による試合を提案した。首都の関係者たちの中には、ロンドンのチームに選手としても参加していたチャールズ・アルコック監督のように、イートン、ハロウ、あるいはケンブリッジ時代に11人での試合を経験していた人たちもいたことから、相手の提案を受け入れた。
■完璧なバランスだった「11人対11人」
1866年3月31日、バターシー・パークのフィールドで行われた試合では、ロンドンが2対0でシェフィールドを破った。しかし、その午後の試合での最も重要な結果は、この試合以降、サッカーの1チームの人数が11人に決まったことだ。
試合に出場した両チームの選手も観客たちも、フィールドの広さと出場選手の数の完璧なバランスが見つかったことを大いに喜んだ。イングランドサッカー協会がこのルールに同意した日時の正確な記録は残っていないが、チームの幹部、選手、ハロウの元生徒という複数の立場でのアルコック監督の影響力が、短時間のうちにこの人数を最終的な結果としてまとめるうえで決定的な役割を果たした。
以後、11人という数字は変更されることなく、こんにちに至っている。ロンドン対シェフィールドのこの試合が持つ大きな意義はそれだけにとどまらない。サッカーのもうひとつの非常に重要な基準を決めるうえでも大きな役割を果たすことになる。
■1~3時間だった試合が90分に決定
さきほど、90分間で行われた最初の試合は、1862年にケンブリッジ大学のフィールドで開催されたイートンとハロウの卒業生同士の対戦だったと述べた。その年まで、シェフィールドの規則での試合時間は1時間から3時間までとされ、それぞれの試合の長さを決めるのはチームのキャプテンだった。
![ルチアーノ・ウェルニッケ『サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?』(扶桑社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/1/1200wm/img_21f15fedda4c14127b31e6c47065518e196826.jpg)
ほかのもっと古いルールでは、時間の長さに関してはそれよりもさらに曖昧だった。1855年までにシュルーズベリー・スクールでは、「どちらか一方のチームが2本のゴールを決めるまで」試合を続けるというルールが確立していた。このルールを今のテレビ中継に当てはめることは不可能だろう。試合がすぐに終わってしまうかもしれないし、攻撃に積極的ではないクラブ同士の対戦だと退屈な時間が延々と続くことになる。
90分という指針がどのような経緯で試合のルールに取り入れられたのかを判断できる資料は見当たらない。イングランドサッカー協会の設立後、前半と後半45分ずつで合意した同協会主催の最初の試合が、1866年3月31日のバターシー・パークでのロンドンとシェフィールドのチームの対戦だったということはわかっている。
各チームの選手の人数を定める役割も果たしたこの試合の時間制限は、シェフィールドのチーム側から提案があり、両チームのキャプテンによって受け入れられた。特に熱心だったのがアルコック監督で、そのバランスと実用性に気づいた彼は、すぐに競技の規則に取り入れた。
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1969年ブエノスアイレス生まれ。『サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?』(扶桑社)をはじめとするサッカー史や各国代表チームのガイドブックの他、選手の評伝など多数の著書があり、30カ国以上で出版されている。
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(サッカージャーナリスト ルチアーノ・ウェルニッケ)
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