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ミッキーマウスはなぜやたらと靴が大きいのか…その源流はチャップリンにあると断言できる理由

プレジデントオンライン / 2022年11月24日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Believe_In_Me

「ミッキーマウス」はどのようにして生まれたのか。映画プロデューサーの大野裕之氏は「ウォルト・ディズニーはチャーリー・チャップリンに強く憧れて、彼をミッキーマウスのモデルにした。さらにビジネスにおいてもチャップリンから薫陶を受けて会社を大きく成長させた」という――。

※本稿は、大野裕之『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』(大和書房)の一部を再編集したものです。

■はじめて稼いだお金は「チャップリンのものまね芸」

ウォルト・ディズニーは小さい頃から12歳年上のチャップリンに憧れていました。俳優になりたかった彼は、小学生の時に地元の「チャップリンものまねコンテスト」で優勝して賞金を得ています。のちに世界一のアニメーション作家になるディズニーが、エンタメの仕事ではじめて稼いだお金は「チャップリンのものまね芸」だったわけです。

「私はチャップリンのすべてのギャグを真似した。彼の映画は、ただの一本も見逃したことはなかった。彼は私のアイドルだった。彼の喜劇、その繊細さ、あれやこれやに私は常に感嘆していた」とディズニーは語っています。

しかし、ディズニーは早々に俳優の才能に見切りをつけ、アニメーターの道を歩むようになります。チャップリンが次々と世界的ヒット作を発表していた1920年代に、ディズニーはアニメーションの製作を始めました。当時、『しあわせウサギのオズワルド』(1927年〜)シリーズがそこそこのヒットを飛ばしたのですが、その著作権をすべてユニバーサル映画社に取り上げられてしまいます。

しかし、失意の中で生み出したミッキーマウスが大ヒットを記録。彼もハリウッド・セレブの仲間入りを果たしました。

■「自分の作品の権利は他人の手に渡しちゃだめだ」

そしてついに1930年代初頭、ディズニーは憧れのチャップリンに初めて面会を果たしました。その際に、喜劇王に「僕も君のファンだよ」と言われたことで彼は有頂天になります。同時に、チャップリンは自分の他に若い天才が現れたことを見抜いて、現実的な忠告も忘れませんでした。

「だけど、君が自立を守っていくには、僕がやったようにしなきゃ。つまり、自分の作品の権利は他人の手に渡しちゃだめだ」

ウォルトはこの忠告を生涯守りました。今もディズニー社は作品の著作権やキャラクターの権利を厳格に守って活用していますが、そのきっかけはチャップリンの一言だったのです。

■チャップリンをモデルにして生み出されたミッキーマウス

チャップリンに憧れショービジネスの世界に入ったウォルト・ディズニー。彼が作り出した唯一無二のキャラクター、ミッキーマウスは憧れの喜劇王をモデルにしていました。ディズニー自身は1931年に雑誌のインタビューでこう語っています。

ミッキーのアイディアについては、私たちはチャップリンにかなりの借りがあると思っている。私たちは、訴えかける何かが欲しかった。それで、彼の切なさのようなものを持つ、小さくてつつましやかなネズミを思いついたんだ。できる限りがんばろうとする、あの小さなチャーリーのような……

ミッキーの姿形もチャーリーをモチーフとしていました。山高帽の代わりに黒い大きな耳。放浪者のきつい上着とぶかぶかの大きなズボンは、ミッキーの小さな上半身と丸くて大きなお尻のズボンになっています。極端に大きな靴を履いている点も同じ。なにより両者とも小さなヒーローで、弱者の視点が大衆の共感を集めたのです。

■『街の灯』の併映作品にミッキーの短編映画を抜擢した

チャップリンはディズニーの才能を見抜き積極的に支援しました。『街の灯』の併映作品として、ミッキーマウスの短編映画を選び、チャップリンが創設した配給会社ユナイテッド・アーティスツでディズニー作品を配給。この時、画家のジョージ・コーリーは「ミッキーマウスに花束を」と題して、チャーリーがミッキーに花を渡すイラストを描き、「オレゴンニュース」紙に掲載するなど、両者のコラボは大きな話題を呼びました。チャップリンの応援のおかげで子供たちだけでなく、広い層にディズニー作品の人気が波及していきました。

世界初のカラーによる短編アニメ『花と木』(1932年)がアカデミー賞に輝くなど、映画界で確固たる地位を築いたウォルトは、さらなる挑戦に乗り出します。初の長編アニメ『白雪姫』(1937年)の企画です。

■『モダン・タイムス』の経理資料を渡して『白雪姫』を支援した

アニメと言えば短編作品しかなかった当時、前代未聞の長編アニメの企てには誰もが反対しました。しかし、そんな中でチャップリンだけは彼を応援します。そして、長編作品の極意として「主人公に感情移入するためのストーリーの大切さ」を伝授しました。

ディズニーはストーリー会議の時にスタッフの前ですべての役を演じて見せるのが常だったのですが、彼の演技はチャップリンそのものだったと側近たちは証言しています。

創作面だけでなく、ビジネスについてもチャップリンは多くのことを授けました。『白雪姫』はあまりに大胆な企画ゆえ配給の交渉が難航したのですが、チャップリンは「これを参考にしなさい」と『モダン・タイムス』の経理書類一式を見せて、ディズニーはその通りに映画館と交渉して映画は大ヒットしました。

経理上の秘密を開示したことには驚きますが、惜しげもなく伝授したことで業界全体を盛り上げてパイを大きくしたわけで、先輩ビジネスマンの心得のようなものも感じます。

■師弟が生み育てた映画界のキャラクター・ビジネス

その後、このエンタメ界の師弟は二人三脚で映画界に新しいビジネスを興すことになります。

チャップリンは1917年に、自身の模倣俳優(ものまね芸人)たちを相手取って訴訟を起こし、「かの扮装(ふんそう)はチャップリン氏の産み出したオリジナルなものである。今後、チャップリン氏の模倣を許可なく行なうことを禁止する」という判決を勝ち取っています。つまり、世界で最初にキャラクターの肖像権を認めさせた人物なのです。

ウォルトはそのノウハウを受け継いで、ミッキーマウスをはじめ多くのキャラクターでグッズ販売を展開します。早くも1930年代前半に、ディズニー社ではグッズ販売が映画の興行収入を超えるまでになりました。今や一大産業となっているキャラクター・ビジネスはチャップリンが発明し、ディズニーが大きく育てたものだったのです。

チャップリンとディズニーの蜜月は続きます。ディズニー作品にはアニメ化されたチャップリンがゲストとして頻繁に登場しました。『ミッキーのポロチーム』(1936年)は、ミッキーやドナルドダックらディズニーのキャラクターと、チャップリン率いる映画スターのチームがポロゲームで戦うという楽しい短編。アニメのチャップリンは、ステッキが引っかかって落馬しそうになるなどのギャグを披露しています。

対して、チャップリン映画の中にもミッキーマウスが登場しています。『モダン・タイムス』の、真夜中のデパートで遊ぶシーンで、ヒロインのポーレット・ゴダードがミッキーのぬいぐるみを抱き上げる場面です。チャップリン作品で他のキャラクターが登場するのは例がありません。いかに両者がリスペクトし合っていたかがわかります。

プライベートでも二人で競馬観覧を楽しむなど(その際に、チャップリンは次回作の構想を語りその場で演技を始め、周囲の客は競馬などそっちのけでチャップリンの演技に夢中になった)友好関係は続きました。

■第二次世界大戦を引き金に、政治信条の違いで蜜月は終焉

そんな二人の師弟関係が崩れたのは、第二次世界大戦でした。チャップリンは『独裁者』(1940年)を作り、全体主義に対して映画で闘い平和を訴えました。

対して、中西部の典型的な古き良きアメリカの家庭で育ったディズニーは、アニメーターたちのストライキを「アメリカの価値観を壊す共産主義」と決めつけて弾圧し、戦争が始まると軍事宣伝映画製作に邁進し、1943年にはディズニー社の売上の90%以上が政府から受注の戦争宣伝映画になるほどでした(しかし、戦争に協力しなかったアニメ会社がどんどん潰れていったことを思うと、苦渋の経営判断の結果でもありました)。

戦争を機に政治信条の違いが露わになっていったように、ビジネスにおいても両者の考え方の差が明らかになっていきます。ディズニー社はミッキーをはじめドナルドダックに白雪姫などどんどんキャラクターを増やしていき、ウォルトの死後は競合会社も買収して、今や『スター・ウォーズ』の権利まで手に入れたのはよく知られるところです。

ハリウッド・ウオーク・オブ・フェイムのミッキーマウスの星
写真=iStock.com/GreenPimp
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GreenPimp

■スケールを求めるか、ブランド価値を守り通すか

キャラクター・ビジネスのみならず、ディズニーランドや放送局、配信チャンネルなど多角経営を進めてエンタメの一大帝国となりました。一方で、たとえばミッキーマウスのキャラクターからは、初期の頃に持っていた、少しイジワルで一生懸命な性格はすっかり失われてしまいました。

大野裕之『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』(大和書房)
大野裕之『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』(大和書房)

対して、チャップリンは、死後も遺族がチャーリーのキャラクターのイメージを守り通しています。ほとんどリメイク作品を許さず、イメージを壊されないように安易なキャラクター商品には許可を出さないので、ビジネスのスケールとしてはディズニー社には到底及びません。しかし、「心優しいチャーリー」のイメージは保たれ、今も社会的なインパクトを与え続けています。

スケールを求めるか、唯一のブランド価値を守り通すか。多角的経営を進めるか、あくまで本業を貫くか。ディズニーとチャップリンは両極端にして、それぞれの最良の例であり、両者の間にビジネスの全てがあると言えます。それは、常に弱者の視点を持っていたチャップリンとアメリカの理想を第一に想っていたディズニーの政治観の違いにも似て、社会を立体的に捉える複眼のようなものなのかもしれません。

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大野 裕之(おおの・ひろゆき)
映画プロデューサー・チャップリン研究家
1974年大阪生まれ。京都大学総合人間学部卒、同大学院人間・環境学研究科博士課程所定単位取得。著書に『チャップリン 作品とその生涯』(中公文庫)、『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』(岩波書店、第37回サントリー学芸賞)、『ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人』(光文社新書)ほか。日本でのチャップリンの権利の代理店も務める。

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(映画プロデューサー・チャップリン研究家 大野 裕之)

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