1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

「正しいサラリーマンの生き方はできなかった」サントリーのエース社員が43歳で会社を飛び出したワケ

プレジデントオンライン / 2022年11月19日 11時15分

シンプルなデザインの抹茶マシン「CUZEN MATCHA(空禅抹茶)」 - 写真=塚田氏提供

挽きたての抹茶を飲める家庭用抹茶マシンが販売台数を伸ばしている。発売元は2019年創業のベンチャー起業。創業者は、サントリーで伊右衛門や特茶などのお茶事業に携わっていた「エース社員」だ。なぜわざわざ大企業を離れ、起業したのか。塚田英次郎社長の創業ストーリーとは――。(前編/全2回)

■ヒット商品を連発したエースの「第2の人生」

「自分らしく生きたいな、自分にしかできないことをやりたいなと、自問自答してきたところはありますね」

塚田英次郎さんは1975年生まれの47歳。東京大学の経済学部を卒業してサントリーに入社し、2004年から2年間、スタンフォード大学に留学をしてMBAを取得した経歴を持つ、絵に描いたようなハイスペック人材である。

サントリー在職中には、新商品の企画開発に携わり「DAKARA」「Gokuri」「特茶」などの大ヒットを飛ばし、看板商品である「伊右衛門」「烏龍茶」のブランド戦略も担当した、文字通りのエースであった。

その塚田さんが、自問自答の果てにたどり着いた答えとは何か。

「じゃあ、自分の強みって何だろうって考えたときに、米国で抹茶を広めていくのはどうかな、と思うようになったんです」

2019年3月、塚田さんは誰もがうらやむ経歴とポジションを投げうってサントリーを退社。日米でそれぞれWorld Matchaを立ち上げると、2020年10月、自ら開発した抹茶マシン「CUZEN MATCHA(空禅抹茶)」を米国で発売し、2021年7月には日本でも発売を開始する。

CUZEN MATCHAは『TIME』誌の2020年ベスト発明賞やグッドデザイン賞(2021年)など7つもの賞に輝き、すでに米国で約3500台、日本で約1000台を売り上げるなど、好調な滑り出しを見せている。

「人間らしくやりたいナ」は、かつてサントリー宣伝部で活躍した作家の開高健が、トリスウイスキーのために書いた“永遠の名コピー”である。サントリーのエリート社員が、いったいどうして「自分らしく生きたいな」と思ってしまったのか……。

43歳の自分探しの顚末(てんまつ)に耳を傾けた。

■なぜ「Gokuri」はジュースなのに甘くないのか

塚田さんがサントリーに入社した1998年当時、サントリーは現在のように分社化しておらず、酒類も食品(飲料)も同じ会社の中に存在していた。

「いまのサントリー食品インターナショナルの前身である食品事業部に入って、新商品飲料のコンセプトを作る仕事をしていました。デザイナーとか研究所の人間とチームを作って新しい商品を形にしていくわけですが、僕は『誰に対する、どんな商品か』ということを規定する仕事をやっていました」

たとえばGokuriは、「子ども向けの甘いジュースは存在するが、では、大人が朝食で飲むフルーツジュースってどうあるべきだろう?」というコンセプトワークから誕生した商品だという。だから、他社のジュースは明らかに子ども向けだが、Gokuriはシャープなデザインのボトルで、甘さよりも本物の果実感を特徴としている。

「大人が飲むジュース」というコンセプトで生まれたGokuri(サントリー公式サイトより)
「大人が飲むジュース」というコンセプトで生まれたGokuri(サントリー公式サイトより)

食品や飲料のメーカーにおいて、一般的に商品開発を担う部署は花形だ。しかも、塚田さんはいくつものヒット商品を出したエースでもあった。これは、人もうらやむポジションだと思うのだが……。

「自分が開発に携わった商品がヒットして、いざそのブランドを育てて行こうと思うと、育てる部分は他の人がやることになって、『お前は次の新商品を開発しろ』と命ぜられるわけです。つまり、ゼロイチばかりやらされるわけで、それはそれで葛藤がありました」

■スタンフォード留学での「洗脳」体験

入社7年目で、塚田さんは2年間の海外留学の機会を与えられる。ゼロイチにうんざりしていたはずなのに、留学先に選んだのはゼロイチのメッカ、シリコンバレーにあるスタンフォード大学であった。

そこで塚田さんは、ある「洗脳」を受けてしまったのだと告白する。

「入学と同時に教授陣から、『君たちはいずれ起業していく人間だ』と洗脳されるわけです。なぜなら、『大企業で働いていることはリスクなのだ。大企業の中で、自分で決められることなんてないだろう?』と。しかも、学内では圧倒的に起業家がリスペクトされているわけです」

こうした洗脳によって起業家マインドを刺激されただけではなく、塚田さんは、起業におけるファイナンスについても強烈な洗脳を受けている。

■自分の金でやるな、他人の金でやれ

「日本では、起業というと生命保険に入ったり、自宅を担保にいれて借金をしたりといったイメージがあるじゃないですか。超リスク、命がけの勝負というか…。しかしスタンフォードの先生方は、『自分の金で始めるな』と言うんです」

人間には失敗がつきものだ。そして、失敗しても人間は生きていかなくてはならないのだ。だから、命懸けの起業はするな。他人の金でやれ……。

しかし、他人の金でなんて、ちょっと甘いのではないか。命懸けだからこそ、どんなに困難な事態に直面しても、歯をくいしばってがんばるんじゃないのか。思わず、日本的な気合と根性の精神論が頭をもたげてしまう。

「では、なぜ他人の金で始めるのかといえば、他人(投資家)が見て『そのビジネス面白いね』と金を張りたくなるぐらいのアイデアじゃなかったら、そもそも成功なんてするはずがないということなんです」

だから、自分の金で始めようとするな。自分の金で始めるなんて、むしろイージーだ。スタンフォードでそう教えられたというのである。

なるほど、起業観がくつがえる、目からウロコの落ちる言葉である。しかし、スタンフォードの「洗脳」が塚田さんの背中を押すまでには、まだしばしの時間がかかる。

■伊右衛門のアメリカ進出も、すぐに撤退

米国留学からいったん帰国した塚田さんは、海外の食品事業を担当することになった。当時のサントリーの海外でのプレゼンスは、まだまだ小さかった。塚田さんは米国での事業開発と商品開発を任されて、再び米国に渡る。

2008年には海外版の伊右衛門「IYEMON CHA」の発売にこぎ着けるが、同年9月、リーマンショックが世界を震撼(しんかん)させることになる。

「私は米国で『伊右衛門』と『烏龍茶』を発売することを企画したのですが、最終的に会社が『伊右衛門』を先に出すという決定をしたのです。ところが発売してすぐにリーマンショックが起きて、すぐに撤退ということになってしまったんです」

まさに、「大企業の中で、自分で決められること」は乏しかったのだ。リーマンショックという不可抗力があったとはいえ、塚田さんの無念さは想像するに余りある。

しかしそこは、多少のジェラシーを込めて言えば、さすがのハイスペック人材である。帰国して烏龍茶担当ののち、伊右衛門のブランド戦略を担当する課長となると、わずか数年の後にあの「特茶」(脂肪を燃焼させるケルセチン配糖体を配合)を大ヒットさせてしまう。

ちなみに伊右衛門の担当課長は社内では花形の役職で、おそらく伊右衛門の課長に就任した時点で、塚田さんは未来のサントリーの屋台骨を支えるひとりとしてカウントされていたに違いない。

だが……。

■「僕って、いますぐ部長になれますか?」

「特茶がヒットした時点で、会社との貸し借りという意味ではもういいんじゃないかと思ったんです。スタンフォードに行かせていただいて、会社には何かしらのお返しをしなければならないと思っていたのですが、特茶というわかりやすい成果が出たんだから、もういいかなと……」

塚田さんは、上司に「自分もそろそろ起業したい」と伝えると、「ふざけるな!」と一蹴されたというのだが、実はその前に、ワンステップがあったことを告白してくれた。

「ちょっと言いにくいことですが、伊右衛門のブランド担当課長として成果を出したら僕も部長になれますか? と上司に聞いたことがあるんです。そうしたら、『いやそれは無理、まだ若いからね』と。そうなると、次にサントリーで挑戦したい仕事っていうのが見つけられなかった。

僕は、たぶんサラリーマン失格なんですよ。正しいサラリーマンの生き方としては、あと何年か課長をやって、上司が出世した段階で引き上げてもらってということなんでしょうね」

塚田英次郎さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
塚田英次郎さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■ペットボトルのお茶は「どれも変わらない」

この時期、塚田さんにとって重要な出来事がもうひとつあった。

ちょうど特茶の開発をしていた頃、塚田さんは国内で発売されているあらゆるペットボトル入りのお茶を携えて、ある有名ソムリエの元を訪れている。ワインのプロであるソムリエがペットボトル入りのお茶の味の差異をどのように表現するか、それを聞いてみたかった。もちろん、競合他社のお茶よりも伊右衛門のほうがおいしいという評価を得たいという下心もあった。

ところが、塚田さんが持参した複数のお茶をブラインドでテイスティングしたソムリエ氏は、ひとことこう言ったのだ。

「どれもあまり変わらないですね」

差別化に血道を上げていた塚田さんは、ショックを受けてしまった。常温で1年間保存できなければならないペットボトル飲料は、製法上の制約が大きい。だから、似たり寄ったりの味にならざるを得ない面はあるのだが、それにしても「どれもあまり変わらない」とは!

「この出来事の直後、会社にいまのペットボトルの製法とは違うやり方で、フレッシュなお茶を提供したいと提案したんです。しかし実現には大きな投資が必要で、意思決定者にしてみれば、なんでそんなことやらなアカンねんと……」

やはり「大企業の中で、自分で決められることなんてない」のだ。塚田さんの心は、折れかかってしまった。しかし、次々とヒット商品を生み出すハイパフォーマーを、会社がみすみす手放すはずもなかった。

塚田さんは、三度、米国に渡ることになる。

(後編に続く)

----------

山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

----------

(ノンフィクションライター 山田 清機)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください