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「男性は何かをする必要がある」ジェンダー平等を謳いながらそんなツイートをする国連女性機関の時代錯誤

プレジデントオンライン / 2022年11月18日 11時15分

「ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関(略称:国連女性機関)」のツイートより

国連女性機関が10月半ばに発信したツイート「男性は何かをする必要がある」が炎上した。なぜ男性は猛反発したのか。文筆家の御田寺圭さんは「世の多くの男性にはすでに男女平等の精神が浸透している。それにもかからわらず、同機関がジェンダー平等を謳いつつ、女性にとって快適で有益な“男らしさ”だけは一方的に要求するような文面が時代錯誤の性差別主義に見えたのだろう」という――。

■「男性は何かをする必要がある!」⇒大炎上

UN Womenこと「ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関(略称:国連女性機関)」の公式ツイッターアカウントが、何気なく投稿した『男性は何かをする必要がある。』と題された一連のツイート(10月18日投稿)が、男性たちから激しい批判を浴び、一瞬で燃焼温度を超えてしまったのである。

あらゆる人びとのジェンダー平等を擁護するためには、男性が積極的に協力し、「男らしく」行動する必要があることを訴えるというアンビバレントな言明は、リリースした直後から激しい批判にさらされてしまった。

「男性差別するな」
「『すべてのジェンダーの人びとが共に取り組もう』と言いながら呼びかけてるの男性に対してだけじゃないか」
「ジェンダー平等のために『女性を守る男らしい行動』を求めるのは矛盾している」
「女性が建設や運輸や林業などでも男性と同じくらい働くようになってから言うべきだ」
「男の方が自殺してますよね? 幸福度も低いですよね? それについて女性は『何かする必要』はないんですか?」

――などといった主旨の批判が数えきれないほど寄せられている。付言しておくが、その多くが単なる誹謗(ひぼう)中傷ではなく正鵠(せいこく)を射た意見であるだろう。

いったいなぜこのような「猛反発」が起こってしまったのだろうか。一部のリベラルな有識者はこの状況をうまく吞み込めなかったようで、「日本がいまだ女性差別が根強く残っている証拠である」とか「インターネットにミソジニー(女性に対する嫌悪や憎悪)が溢れていることを浮き彫りにしている」などと解釈してしまっているようだ。しかしながらそれは端的に誤りである。

■これは「男女平等思想」の勝利である

結論を言えば、国連女性機関が激しく批判されているのは、女性差別の発露やミソジニーが蔓延しているからではなく、本当の意味での男女平等がこの国に着実に浸透していることを端的に示している。

国連女性機関による「女性の人権のために『男らしさ』を見せてみろ」といわんばかりの、マッチョな男性性の発揮を期待するツイートに怒りの声をあげる男性たちは、しかしだからといって「ヒーッヒッヒッヒッ、女を差別してやるぜ~~~!」とか「俺から女を差別させる自由を奪うなッ!」などと主張している悪辣な差別主義者ではない。

そうではなくて、まさに国連女性機関やこれを支持するリベラリストが、メディアやSNSを通じて繰り返し行ってきた「啓蒙活動」を真摯(しんし)に受けとって、原理原則的な男女平等を“フェア”に内面化してきた人びとである。

人権感覚のアップデートされた社会の正当なメンバーシップを得るために当然守るべき原理原則として男女平等やジェンダー平等といったアップデートされた規範を公正に遵守しているからこそ、国連女性機関の放ったジェンダー平等を謳いながらその実「男らしさ」を片務的に要求するようなツイートが、いまどきの男性たちにとっては「時代錯誤の性差別主義」に見えてしまったということである。

ようするに今回の国連女性機関の炎上は、カミングアウトの意味を理解していなかった花王が炎上してしまった一件(※1)と同じで、皮肉にも機関自身が「男女平等」「ジェンダー平等」の意味をただしく理解していなかったせいで起こってしまったということだ。

※1 朝日新聞デジタル「カミングアウトデー『便乗ツイート』後に謝罪相次ぐ 企業、自衛隊…」(2022年10月12日)

■「慈悲的性差別主義」を求めるジェンダー論者たち

国連女性機関は「女性はかわいそうな存在なのだから」「女性は弱い存在なのだから」「女性を守ってあげるのは男の役割なのだから」といった、男に“強さ”を要求する旧来的なマッチョイズムのいいとこ取りをする、いわゆる「慈悲的性差別主義」をいつもと同じ調子で要求していたに他ならない。

こうした要求に対して、令和最新版ジェンダー平等思想のアップデートをすでに完了させていた男たちは「いつまで甘えたことを言ってんだ?」「これまで男に負わせていた負荷をお前ら女も負えよ。それが男女平等だろ?」と、とくに悪意や差別意識を持たず“素直”に違和感を覚えてしまうのである。

男女平等を象徴するコンクリート製のシーソーの両端に座っている男女
写真=iStock.com/Eoneren
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eoneren

一部のフェミニズム・リベラル系の有識者や言論人やインフルエンサーによって繰り返し行われてきた、SNSやメディアを通じた「啓蒙」がしっかりと成功しているからこそ、世の男たちは「有害な男らしさ」から降りた。それと同時に「有害な男らしさ」のなかに含まれていた有益性(≒男らしく女性を守り大切に慈しむことをよしとする規範)からも同時に訣別することになったのだ。

もっとも、国連女性機関をはじめとするフェミニストが世の男性に求めていた「男女平等」とは文字どおりの男女平等ではなく、いうなれば男性が持っていた「男らしさ」のなかで、女性にとって不快で有害に感じる《よごれ》だけを丁寧に除去して、女性にとって快適で有益な部分だけをより高純度で残すことを指していた。

しかしながら、そのような思惑は成就しなかった。良いとこ取りはできなかったのである。男たちはたしかに「無害」になっていったが、しかし同時に女性にとって「有益」でもなくなってしまったのだ。

これまでなら「必要不可欠な犠牲」として黙って引き受けていた男性の自殺者数の多さにも、労災死傷者数の多さにも、もはや黙らなくなってしまった。「女も男並みに(この社会を正常稼働させるための)求められてきた社会的リスクや犠牲を引き受けて」と要求するジェンダー平等意識の高まった男性たちが続出しているのである。

アップデートされた男たちは、相手が女性だからといってやさしくしないし特別扱いしないし配慮しない。ただしそれは女性蔑視や女性差別ではなく、あくまでフェアネスを遵守する思いからからそうしているのであって、これを見たフェミニスト側が「悪しき性差別主義の発露だ!」などと断じてしまうのであれば、いままで大真面目に提起されてきた男女平等の議論はいったいなんだったのかということになる。

■男女で異なっていた「ふつう」の閾値

いま多くのフェミニストや社会学者やリベラリストが本人の主観的にはSNSで日々直面していると感じている「女性蔑視」や「女性差別」や「ミソジニー」は、しかし実際にはその大部分は女性蔑視や女性嫌悪などではなく“本当の意味での男女平等”である。

とどのつまり、世の男性たちに向けて「お前ら男は、もっと男女平等になれ!」と啓蒙してきた当人たちこそが、世の一般的な男性が啓蒙を忠実に内面化しているがゆえに実践して見せる「ふだん自分が受けているのと同じ言動や扱いを女性に対しても行う」という、真の意味でジェンダーレスでフェアな態度に耐えられなかったということだ。

男性は――フェミニストたちの教えを忠実に守り――自分たち男性がふだん扱われているのと同じような期待値で女性をフェアに扱うようになった。しかし肝心の女性側はそれを「女だからと差別せずフェアに扱ってくれている」「女性である前にひとりの人間として尊重してくれている」などとは認識できなかった。なぜなら男性にとっての「ふつう」の水準は、女性の感じる「ふつう」の基準とはあまりにもかけ離れているものだったからだ。

男性記号と女性記号が等号で結ばれた式が描かれたカードを路上で持つ人
写真=iStock.com/Bulat Silvia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Bulat Silvia

一般的な男性個人が世間に対して内面化している「ふつう」の基準は、女性からすれば自分がゴミか虫けらのように扱われるような光景に見えてしまうこと請け合いだ。男性と女性ではそれくらい「他者・世間(の自身に対する友好性や協力度)に対する期待値」に大きな格差がある。世の多くの男性にとって他者とか世間はいわば「うっすら冷酷なもの」であり、女性にとって他者とは「うっすら協力的なもの」である。

「ふつう」の期待値が女性のそれと大幅に(下方向に)ズレている男性に対して「これからの時代、女性を特別扱いするのではなく(それこそ自分が他者や世間にされているように)ニュートラルに接するのがただしいのだ!」と教え諭してしまえば、こうなるのは火を見るよりも明らかだった。

■「男女平等論者」の誤算

フェミニストをはじめとする「男女平等論者」の大きな誤算は「男性が普段どのような扱いを“当たり前”に受けているのか」をただしく想像できなかったことだ。

世の男たちは女性を不当に搾取して、なんら気苦労もなくのうのうと暮らし、世のあらゆる場面で不当に威張りちらし、周囲を委縮させている――とでも思っていたのだろうか。だからこそ「男が『男女平等』の意識を高めれば、女性をちゃんと敬うようになる」などと素朴に勘違いしてしまった。

相対する男女の考えを表したイラストと毛糸のコラージュ
写真=iStock.com/kaptnali
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kaptnali

……だが実際は逆だった。

男性たちは常日頃から他者にうっすら嫌われ、警戒され、「加害者」に見られないように肩を縮こませながら過ごしている。社会的なリスクの高い仕事の負担を押し付けられ、競争にさらされても弱音を吐くことを封じられ、敗北したり失敗したりしたときにも自己責任を求められてきた。このような男性にとっての「当たり前の扱い」を女性に対してもフェアに向けるようになったのが、いま世間で達成されつつある男女平等である。

ようするに「女の子を殴るなんて男のすることではない」という(男性のマッチョイズムに依存した女性に対する性差別的な)規範を解体した結果「女だからといって男と同じように殴らないのはフェアではない」とフェアに殴打する男たちが増えていったということである。

こうした潮流に対して「男性並みにぞんざいに扱われるのではなくて、男性も女性並みに大切に扱われる世の中を目指すことに協力すればいいじゃないか」といった反論がしばしばある。

言いたいことはわかるのだが、ではいったいだれが、たとえばこの社会の運営に必要不可欠な「よごれ仕事」を引き受けるのだろうか。これまで男性がその大部分をやってきた「危険で汚くてキツくて臭い仕事」は、「女性並みに男性も大切にされるべきだ」というベクトルで男女平等が達成された世の中では、だれも引き受けられなくなる。

「男性がぞんざいに扱われること」を必要経費として構築されてきた社会で、みんなが女性なみにやさしくされる世の中を実現することは原理的に不可能である。

■男女平等の最終的勝利

男性がいままでどれだけの「重荷」を背負って生きてきたのかを適切に想像できていなかった人びとが「お前ら男は男女平等をインストールしろ!」と勢いに任せて言い募り、それが本当に社会に浸透していった。

その結果として、いつもの勢いで「ジェンダー平等への男性の(慈悲的性差別主義的な)協力」を求めるフェミニストのツイートにすら、「男性差別はやめろ」「お前ら女も男と同じように責任を負え」と、男女平等の規範から逸脱した言動を大真面目に非難する男たちが大量に現れるようになってしまった。

繰り返し強調するが、これは女性差別の拡大でも女性蔑視の発露でもミソジニーの蔓延でもない。「社会正義」に燃える人びとが「啓蒙」に励んできた成果がいよいよ顕在化してきているのだ。自分たちが望んだ男女平等な世界ハッピーエンドがいよいよやってきたのだと、堂々と胸を張るべきだ。憤ったり嘆いたりする必要がどこにあるのだろうか。

ずいぶん高いところにある、男女平等を象徴するコンクリート製のシーソーに両端に座っている男女
写真=iStock.com/Eoneren
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eoneren

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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