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大河ドラマでは絶対に描けない…徳川幕府に書き換えられてしまった「関ヶ原の戦い」の真相

プレジデントオンライン / 2022年11月25日 15時15分

狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

日本史上最大の戦い「関ヶ原の戦い」は、半日で決着がついた。歴史家の安藤優一郎さんは「約6時間で徳川家康の勝利で終わったが、実際は開戦直後に石田三成らが総崩れになって終わった。勝敗は戦う前から決まっていた」という。安藤さんの著書『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)からお届けする――。

■精鋭部隊が真田家に苦戦、家康を追い詰めた想定外

西軍(豊臣方)が内部崩壊していくなか、江戸城を出陣した家康は順調に東海道の西上を続けた。慶長五年九月九日に生誕地の三河岡崎城、十日に熱田、十一日には清洲城に入った。

家康の着陣を今か今かと待っていた東軍諸将は隣国の美濃赤坂に滞陣中だったが、この頃になって、家康は想定外の事態が起きていることにようやく気づく。

中山道を西上させた秀忠には真田昌幸を屈服させる任務をいったん与えたものの、戦局の急転を受け、決戦場の美濃に向かうことを優先させるよう命じていた。八月二十九日に使番の大久保忠益を急使に立てたが、ここで計算違いが生じる。

途中、大雨で利根川が大増水して川止めとなったため、信濃小諸に陣を構える秀忠のもとに忠益が到着したのは十日後の九月九日のことであった。

話はさかのぼるが、一週間前の同月二日に小諸に到着した秀忠は、上田城に籠もる昌幸に降伏を勧告する。だが、昌幸は回答を保留し、その間に防備を固めた。昌幸は秀忠を挑発して徳川勢を釘付けにし、決戦場への到着を遅らせようと目論んでいた。

その術中にはまってしまった秀忠は、九月八日に上田城攻撃を仕掛けるが、昌幸の戦術の前に翻弄される。事実上の敗戦であった。

その翌日、秀忠は急ぎ美濃へ向かうようにという家康の命令に接した。上田城攻略を諦めた秀忠は西上の途に就くも、悪天候や大増水による木曽川の川止めもあり、決戦には間に合わなかった。

■決戦に臨むか否か、家康は大いに迷う

九月十日頃に秀忠勢三万数千は美濃に入れると家康は想定していたが、その予定が大幅に遅れることを知ったのは、清洲城に入った頃である。中山道を急行する秀忠勢の到着を待ってから決戦に臨むか否か、家康は大いに迷う。

九月十一日に家康は清洲城に入ったものの、翌十二日は風邪と称して清洲にとどまる。時間稼ぎをしていたのだ。徳川勢が勢揃いしてから決戦に臨むのが一番望ましかったが、いつ到着するか見当がつかなかった。その間に、西軍から離反させるために調略中の毛利家などが、三成たちの巻き返しに遭って西軍にとどまるかもしれない。

また、秀忠を待っている間に、正則たちが家康の制止を振り切って開戦に及び、三成を屠ってしまっては自分の面目は失われる。あちら立てればこちらが立たぬの状況に家康は追い込まれた。

家康の重臣たちの間でも意見が二つに分かれる。本多忠勝は秀忠勢の到着を待つべきと主張。井伊直政は到着を待たず即時決戦に及ぶべしと主張した。

最終的には、不測の事態を恐れた家康により即時決戦の方針が決まる。不測の事態には、大坂城にとどまる西軍の総帥・毛利輝元の出陣も含まれていた。調略により西軍が内部崩壊の兆しをみせているうちに、家康としては決着をつけなければならなかった。

■決戦直前に和睦した毛利勢

追い詰められたのは三成だけではない。賊軍の将の烙印(らくいん)を押された家康もまた追い詰められていた。こうして、両軍開戦は時間の問題となる。

十三日に清洲城を発した家康は、美濃に向かった。その日は岐阜城で宿泊し、翌十四日正午、赤坂に設けられた本陣に入った。家康は金扇の馬印を大垣城に向けて立てる。家康の象徴たる馬印をみた西軍の陣営には大きな衝撃が走った。

兜
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

三万数千の軍勢が東海道を西上していたことは、さすがに三成も気づいていただろう。だが、家康は自分の象徴である馬印を隠して行軍したため、家康その人が西上しているとは迂闊にも気づかなかったようだ。

よって、金扇の馬印と旌旗が大垣城に向けて一斉に立てられると、西軍の陣営は激しく動揺する。景勝に牽制されて、家康は西上できないはずではなかったのか。

家康着陣により、毛利勢の戦意は完全に失われた。駄目を押された形の毛利勢は、この日、家康との和睦に踏み切るのである。

■西軍にとって運命の日

関ヶ原の戦いの前日にあたる九月十四日は、西軍にとって運命の日となった。

家康が赤坂の本陣に到着して西軍に激震が走るなか、かねて家康に内通を申し入れ、その了解を得ていた小早川秀秋の軍勢が関ヶ原近くの松尾山を占領する。

三成は松尾山を城郭化することで東軍の西上を防ぐ構想を持っており、大垣城主・伊藤盛正を守将として置いていた。この松尾山城には大坂から毛利勢を呼び寄せて配備する予定だったが、秀秋は一万余の軍勢をもって守将の盛正を強制的に立ち退かせる。

家康に内通の疑いがあった秀秋が松尾山を占拠したことで、大垣にいた三成は背後に敵を抱える格好となった。このままでは、赤坂の家康率いる東軍と松尾山の小早川勢に挟撃される恐れがあった。

その夜、大垣城では軍議が開かれた。三成の期待した輝元はついに来らず、先に家康が戦場に姿を現した。

かくなる上は、現有兵力をもって地の利を得た場所に待ち構え、雌雄を決すべし。近くの南宮山に布陣している毛利勢などが敵に横激を加えれば勝利は疑いないと一決し、急遽、大垣城を出陣することになった。

関ヶ原に向かったのは、石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の諸将。戦局は一気に動いた。

■東西両軍、関ヶ原へ

三成たちが家康を迎撃しようとした関ヶ原は伊吹山地と鈴鹿山脈に挟まれ、そして中山道、伊勢街道、北国脇往還が分岐する要衝の地であった。この地に防衛線を張り、家康の西上を阻止しようとした。

関ヶ原は笹尾山、松尾山に囲まれており、三成は笹尾山、家康は桃配山に本陣を構えることとなるが、問題は松尾山だった。

関ケ原町
写真=iStock.com/Laurent Watanabe
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Laurent Watanabe

三成は松尾山を城郭化することで東軍の西上を防ごうとしていたが、内通の疑いがある小早川勢が占拠してしまう。近くの山中村に布陣していた大谷吉継は、松尾山の友軍と連携して東軍への備えを固めるつもりだったが、一転窮地に陥る。

西軍としては吉継を助けるとともに、大垣城の西軍主力をもって秀秋の寝返りを防がなければならなかった。関ヶ原への転進とは東軍の西上を防ぎ、併せて防禦体制の梃入れも狙ったものであった。

大垣城の西軍が動いたのは午後八時頃だという。三成たちが関ヶ原に向かうことを知った家康は、「明日早朝に出陣する」と全軍に指示した。十四日深夜から十五日払暁にかけ、東西両軍は関ヶ原を目指して進軍する。

いよいよ、関ヶ原の戦いがはじまろうとしていた。

■「天下分け目の戦い」は呆気なく終わった

運命の日である慶長五年九月十五日が明けた。

関ヶ原に集結した東軍は七万数千。西軍は八万余。軍勢の数では両軍はほぼ拮抗(きっこう)していたが、西軍で戦闘に参加したのは三成、義弘、行長、秀家、吉継たち三万数千人に過ぎなかった。山中村に布陣していた吉継と連携する形で、三成は笹尾山に布陣する。義弘、行長、秀家も近くに布陣し、東軍を迎撃する構えをとった。

だが、南宮山の毛利勢は動かず、その後ろに布陣していた長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親も動かなかった。松尾山に布陣した小早川勢も鳴りを潜めていた。

東軍が赤坂の本陣を出たのは、十五日払暁である。東軍側の諸将は三成たちの出陣を予期しておらず、不意を突かれた格好となったからだ。翌朝になって慌ただしく出陣している。赤坂にいた家康が出陣の準備に入ったのは十五日午前四時のこと。中山道を進み、午前七時、桃配山に本陣を構えた。

東軍の布陣だが、左翼には福島正則、藤堂高虎、京極高知。右翼には黒田長政、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明。中軍には井伊直政、本多忠勝、家康の四男・松平忠吉などの徳川勢。中山道垂井宿の辺りには池田輝政、浅野幸長たちを布陣させ、南宮山に布陣する毛利勢などの押さえとした。

■定番のストーリーは後世の創作ばかり

午前八時にはじまった戦いは西軍が善戦。一進一退の攻防が続いて戦況が膠着(こうちゃく)するなか、西軍を裏切って東軍に寝返ると約束した小早川勢の動向が戦局を左右する展開となる。

ところが、秀秋は西軍の思わぬ善戦に動揺し、寝返りを躊躇しはじめる。

そんな秀秋の態度に業を煮やした家康は、松尾山に布陣する小早川勢に向けて鉄砲を撃ちかけた。家康の督促が決め手となって秀秋は寝返りを決意し、西軍に攻めかかる。乱戦のなか、吉継は自刃。三成、行長、秀家たちは敗走した。正午過ぎ、戦いは西軍の敗北で終わった。

三成たちが敗走した後、それまで戦闘に参加しなかった島津勢が退却する。主将の義弘は西軍に属していたものの、三成への反発から東軍とは戦闘を交えず、傍観する立場をとっていた。だが、西軍の敗北を受け、敵中突破により薩摩への帰国を目指す。島津勢は多大な損害を出しながらも、家康の直属部隊の追撃を振り切って戦場を離脱し、薩摩へと戻った。

こうした戦局の流れが関ヶ原の戦いが語られる際の定番となっているが、最近の研究によれば、事情はまったく異なる。

家康を讃える軍記物を通して、ストーリーが改変つまり創作されていたことが明らかになったのである。

毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」には、 伝統武士の鎧を身にまとって、たくさんの人が参加している
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

■開戦直後に西軍は総崩れに

この日は、朝から小雨で霧が深く立ち込めていた。ようやく午前八時頃より霧が晴れてきたが、実際に合戦がはじまったのは午前十時頃であった。

両軍の布陣が完了した後もしばらくの間は睨み合いが続いたが、開戦の火蓋を切ったのは中軍にいた、家康の四男で秀忠のすぐ下の弟にあたる松平忠吉である。抜け駆けのような形で、岳父・井伊直政に守られた忠吉は西軍に攻撃を仕掛けた。これを合図に、両軍の戦闘が開始される。

従来の定説では、午前八時の開戦から正午までは西軍は東軍を寄せ付けず、善戦したことになっているが、実際の開戦時刻は午前十時で、その後間もなく西軍は総崩れになったというのが真相であった。

家康に内通することを決めていた秀秋が開戦と同時に、山中村に布陣していた吉継に攻めかかったからだ。さらに、吉継の指揮下にあった脇坂安治や小川たちまでも東軍に寝返る。藤堂高虎による内応工作があったという。そのため、千人ほどに過ぎない吉継の軍勢は壊滅し、吉継は自刃して果てた。

恐れていた秀秋の裏切りは、西軍をパニックに陥れる。三成、行長、秀家の軍勢は東軍に属する正則たちと激闘していたが、秀秋の裏切りにより動揺し、壊走する。三成、行長、秀家は戦場を離脱した。

ここに、関ヶ原の戦いは呆気なく終わった。

四時間余り、兵力に劣る三成たちは善戦したのではない。開戦とほぼ同時に秀秋たちの裏切りに遭い、短時間で壊滅したのだ。秀秋は逡巡することなく、開戦とほぼ同時に吉継、つまり西軍に攻撃を仕掛けたのである。

■小早川秀秋の裏切りもウソ

秀秋の裏切りの場面が描かれる際、必ず登場するのが「問鉄砲」のエピソードだろう。

開戦から数時間経過しても内応しない秀秋に焦れた家康は、威嚇の鉄砲を撃ちかける。秀秋は家康の怒りに恐れおののき、裏切りを決意する。そして西軍に攻めかかったことで、流れは一気に東軍に傾いたという筋立てだ。

安藤優一郎『敗軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)
安藤優一郎『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)

秀秋の逡巡、家康の督促、そして秀秋の裏切りの場面は、まさに手に汗を握るエピソードとなっており、関ヶ原の戦いにおけるクライマックスシーンとして、現在に至るまで人口に広く膾炙(かいしゃ)している。だが、実際のところは、こうした劇的な場面はなかった。

開戦とほぼ同時に秀秋が東軍に内応して西軍に攻めかかり、短時間で戦いは東軍の勝利に終わったからである。秀秋の裏切りは事実だが、その過程が家康に都合のよいように脚色されていた。別に家康から督促されることなく、秀秋は味方の西軍に攻めかかっている。

内応を督促したという家康からの「問鉄砲」についても、関ヶ原の戦い直後の史料には記載がない。百年以上も経過したはるか後年の江戸中期から幕末の軍記物に至って、「問鉄砲」の記載が登場してくる。創作に過ぎなかったのである。

■「家康の決断」と「劇的な勝利」を描く必要があった

そうした創作が軍記物で施された理由とは、いったい何だったのか。

家康の果敢な決断により、戦局が一転して劇的な勝利がもたらされたことを強調・賛美したかったのだ。すべては家康の掌の上で動いていたことを後世に伝えたい目論見が秘められていた。

従来関ヶ原の戦いが語られる際には、参戦した武将たちは総じて家康の引き立て役を演じていたが、事実はまったく異なるのである(白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社)。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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