筆記試験で出世が決まるなら、徹底的に対策してやれ…850年前の中国で始まった「朱子学」の理想と挫折
プレジデントオンライン / 2022年11月22日 10時15分
■朱子学の創始者・朱熹とは何者か
朱熹は1130年10月18日、現在の福建省の尤渓(ゆうけい)県で生まれた。父の朱松(しゅしょう)が当時、福建の地方官に任じていたから、育ったのも福建、生涯の活動も福建が中心である。
![朱熹](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/2/1200wm/img_c22520307fa5d5798e9152e6493346d3246499.jpg)
朱熹は父の友人の劉子羽(りゅうしう)の指導のもと、福建の崇安県・建陽県を転々としながら受験勉強をした。そのかいあって、19歳で科挙の最終試験に合格する。
しかし優れた学者が必ずしもテストに強いわけではない。最下位から数えたほうが速い成績だった。そのため初めての任官ポストも最も低い品階で、福建の泉州同安県の事務官である。
こんな第一歩だったこともあって、朱熹の官歴は決して華々しくはない。かれが実際に官僚として実働したのは、地方官として9年、中央政府で40日といわれる。それでも治政に精励し、不合理な税を省こうとしたり、社会施設の充実をはかろうとしたりと、とにかく民利を興すに熱心だった。
むしろ地方官としては、真摯(しんし)かつ合理的でありすぎたようである。実地の行政に弊害があると坐視できずに、非違(ひい)を弾劾した。中央の大官と衝突しても、安易な妥協を排し、主張をまげない。そのため在職は、どこでも長続きしなかった。
■朱熹が残した学問
そうした政治的キャリアに、朱熹の本領があったわけでもない。やはり重要なのは、かれが遺した学問であって、のちかれの名を冠して「朱子学」とよばれ、以後の儒教の本流・正統を占めるようになったものである。
朱子学は「道学」「理学」ともいった。「道」も「理」も、みちすじ、の謂(いい)で、形而上の根本理念のこと、「道理」という熟語もある。そうした根本理念に対し、その実現手段・現象形態、ないしそれに基づいた行動・表現など、具体的に現出してくるものもあって、このような形而下の具象を「器」「気」という。
朱子学はこのように「道・器」「理・気」といった二分的な概念把握をおこない、世界全体を体系づけようとした。理気二元論と呼ぶことが多い。それぞれを現実の文脈に応じて、「体・用」「知・行」とも言い換えている。
物事を二分並立で把握する対の概念は、漢語・儒教の大きな特徴である。人間関係なら父子・君臣・官民・士庶など、技能でいえば文武・本末、世界観でいえば、内外・華夷などと表現した。いずれも上下、あるいは軽重のペアで整序するコンセプトである。こうした傾向をつきつめて理論・体系にしたてたものが朱子学だった。
■難解な儒教を「カリキュラム化」した
では、なぜこのような理論化・体系化が必要だったのか。そこには、宋代に生まれた「士大夫(したいふ)」という新しいエリートの存在がある。それまで少数の門閥が占めた社会の指導層は、貴賤貧富にかかわらず、科挙に合格すれば誰でもなれる「士大夫」へ変化していた。そんな新興階層には、それにふさわしい学術が必要である。
従前の儒教は人倫・道徳や礼制・規範に関わる教義の解釈が主であり、しかもその習得には、数ある難解な経典の一字一句の穿鑿(せんさく)が避けられなかった。訓詁学(くんこがく)といって、これは家門伝来の典籍・世襲的な師承・閉鎖的で技巧化した教学を有する名門の子弟でなくては、不可能である。その必要条件を満たさない成り上がりの士大夫には、とても応じられない。知の開放と教学の一般化が欠かせなかった。
そんなニーズに応えたのが、新しい儒教の宋学、そしてその集大成・朱子学だったのである。個別の経書にもとづく繁多な学説で成り立っていたものを、形而上の「理」と形而下の「気」の系列にまとめなおし、教義を哲学的・思辨的な思想理論として、経典をいっそうシステマティックに読解、体得できるようにした。「理気」という概念を通じた体系化と理論化で、大量複雑な書物・学習・記憶を要せずに、教義の習得が可能になる。
体系・理論とは、そのすじみちをたどれば全体がつかめる、ということである。合理主義の所産であって、そのすじみちは、諸人の学び教える道程となりうる。まさに「道学」で、つまりカリキュラムに転化できるにひとしい。そうした教学カリキュラムとそれに即したテキストの考案が、朱子学のもう一つの大きな特徴である。
![中国・蘇州の孔子寺の孔子像](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/f/1200wm/img_df1b0fe6a7a9916a3a9b6a0cc25c9a5c336324.jpg)
■受験勉強に欠かせない「テキスト」に
たとえば、いわゆる「四書」の選定。『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書は、儒教の経典全体からすれば、いずれもごく短い、かんたんな書物である。これを経書本編にとりくむための序説・解説、ないし原論・理論のテキストとした。しかもそこに、朱子独自の解釈・理論をくわえて『四書集注』としたのは、既存の経書・経義をマスターする考え方を示した、いわば学習指導のガイドであった。
聖人たる孔子・孟子の言行録が、『論語』『孟子』である。初学者には、こうした問答形式の解説がわかりやすい。したがって、もっとリアルタイムの類書も作られた。先達らの言行を編集した『近思録』、また朱子本人の言行録である『朱子語類』がある。
こうした語録は、いずれも内容を分類して構成され、それぞれのまとまりに項目・タイトルがつけられた。要はインデックスであって、朱子をはじめ大家の解説は、これですぐとりだせる。
テキスト化は経書だけではなく、史学にも及んだ。歴史はやはり『資治通鑑』。しかし294巻もあっては、いかにも多すぎる。やはりその入門書がなくてはならない。
そこでできたのが『資治通鑑綱目』。経書で『四書集注』を作ったように、学習指導ガイドとして、まったく同じ発想にもとづく著述であった。分量を5分の1にスリム化して59巻にし、「綱」「目」という見出し・インデックス・レジュメをつけている。とにかく入りやすくしようとしたのである。
けだし新興のエリート・士大夫に対し、せめてこれだけはマスターせよ、という合理的な配慮であり、メッセージであった。今日的な教科書・教育課程の概念・方法に近いといってよい。
宋学のスローガンの一つに「聖人学んで至る可し」、学べば聖人になれる、というのがある。成り上がった「士大夫」の理想と矜恃をよくあらわしていようが、もちろん聖人の前に、士大夫にならねばならない。エリートも学べばなれる。それを学べるように思想化し、理論化し、体系化し、システム化し、カリキュラム化したのが、朱子学の絶大な役割であった。
![教室でテスト中の生徒たち](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/c/1200wm/img_6c29e7a8b1d24d7395b0392824edc157284840.jpg)
■朱熹が生んだ受験産業
朱子が活動した本拠であり、学派の本山でもある福建省の建陽は、宋代以後の出版業の中心地でもあった。製紙が盛んという生産条件に恵まれていたばかりでなく、それ以上に近辺で書物の需要が大きかったからである。
福建は山がちで海に迫った地勢で、耕作可能な田土は狭小、つとに人口圧に耐えられず、福建の人々は海上に餬口の資を求め、船乗り・商人となった。それと同時に勤しんだのが、学問である。
科挙合格者の数にはっきりあらわれている。宋代の科挙の最終合格者2万8933人のうち、福建は7144人で、ほぼ4分の1、圧倒的なシェアを誇った。
学問と受験は別物である。朱子本人もそうだった。だから福建が学問・文化にひいでた土地だというわけではない。むしろ開発が遅れ、しかも土地・産物に恵まれない新開地である。なればこそ人々はかえって、数少ない生計維持・社会上昇の具として、科挙の受験にとりくんだ。出版業が栄えたのは、そんな土地柄だったからで、体のいい受験産業にほかならない。
もちろん刊行物の内容も、そうしたニーズに応じたものである。受験に応じるため課題を手早く学べるハウツー的な参考書が多くを占めた。当時の福建がそうした出版のメッカではありながら、宋代・全土を覆う傾向ではあった。これまた一種の合理主義といえるからである。
■「宮仕えは学者をダメにする。志を奪うから学問が成就しない」
朱子学による教義の体系化・理論化、経書・史書のダイジェスト、テキスト化は、けっきょく儒教を手早く学び、マスターするものであって、ハウツー化といってもよい。そして朱子一門はその教えをひろめるべく、出版業の中心地に本拠を置き、テキスト化した種々の著述の編集・出版に深く携わっていた。
朱子本人は官僚としては、ほとんど休職手当しかもらっていない。門人・学生から集める謝礼だって、たかが知れている。教学の事業はそうなると、多かれ少なかれ独立採算にひとしく、民間の営利事業とならざるをえない。
![岡本 隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/5/1200wm/img_5540c8ed1b0c216b76f386e3221082bb170443.jpg)
それなら社会の風尚に即したメディア戦略がなくては、事業そのものが維持できなかったし、あれほど急速に勢力を伸ばすこともできなかったであろう。その所産たる『四書集注』『近思録』『通鑑綱目』などは、エリート指導者をめざす知識人必携のハンドブックとなった。やがていっそう通俗化した科挙受験参考書にも転化してゆくだろう。
そうした社会の動向は、ついに朝廷をも動かし、朱子学に政権公認の地位が与えられた。時間の経過とともに、学校でまず教わるのは朱子学、科挙の出題も朱子学となってしまう。これが決定的ではあった。
朱子は『近思録』に「警戒」すべきこととして、「官と做(な)れば人の志を奪う」という言を引いている。「宮仕えは学者をダメにする。志を奪うから学問が成就しない」というのだが、当の朱子学がそうなりはてた。
■だから中国は進歩を止めた
朱子学さえ勉強しておけば、知識人エリートとして、社会の指導層にのし上がれる、名利が獲られる、という通念・慣行ができあがるのは当然である。大多数の人々にとっては、それで十分であって、もはやそこには、朱子が自ら実践したような学問の発展や革新などは期待できない。
「道学者先生」といえば、守旧派・封建主義の代名詞となった。近代日本固有の観点ながら、もちろん朱子学のありようを映しとったものではある。それこそ福澤諭吉は、封建制度・門閥制度を「親の敵」といって「漢学を敵にし」、朱子学を正学とし儒教主義を棄てない中国・朝鮮を「謝絶すべき悪友」と断じたほどであった。
もとより朱子本人が望んだことではないし、かれ一人の責任でもあるまい。しかし朱子の生きた時代、そして以後の「中華帝国」はまちがいなく、そうしたコースを歩みはじめていた。
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京都府立大学教授
1965年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞特別賞受賞)、『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)など多数。
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(京都府立大学教授 岡本 隆司)
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