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NHK大河ドラマは史実とは違う…自らを「万能の帝王」と疑わなかった後鳥羽上皇のすごいエゴ

プレジデントオンライン / 2022年11月20日 18時15分

2017年11月16日、フランス・ブルゴーニュ地方の新酒ワイン、ボージョレ・ヌーボーの販売解禁日に行われた「BEAUJOLAIS MATSURI」のオープニングイベントに参加した歌舞伎俳優の尾上松也さん(東京都) - 写真=時事通信フォト

NHK大河ドラマでは尾上松也さんが演じる後鳥羽上皇とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「ドラマでは側近に意見を求める姿がたびたび描かれているが、決してそんな小物ではない。稀代の天才ゆえ、独善的な人物だったと考えられる」という――。

■3代将軍実朝と後鳥羽上皇の本当の関係

尾上松也演じる後鳥羽上皇の存在感が、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のなかで高まってきた。3代将軍源実朝を思いのままに遠隔操作して、幕府を事実上の支配下に置こうともくろみ、そのための布石を着々と打つ。そんな様子が大河ドラマにも描かれている。

2代将軍頼家が死去した建仁3年(1203)、弟の千幡を鎌倉殿に擁立したいという申請を幕府から受けた際、後鳥羽上皇みずから「実朝」という名を授けたのにはじまり、翌年には自分の従妹を実朝に嫁がせた。

後鳥羽は和歌の達人で、元久2年(1205)、自身の勅撰和歌集『新古今和歌集』を完成させているが、実朝も和歌に才能を発揮した。それもあって後鳥羽上皇に心酔し、

「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

と詠んでいる。山が裂けて海が干からびるような世になろうとも、後鳥羽上皇を裏切るようなことがありましょうか、という意味である。

実朝が後鳥羽上皇に、大河ドラマに描かれているほど恭順の意を心底抱いていたのかというと、じつは異論も多い。幕府は朝廷と並立する武家の府だという強い自負を実朝はもっていた、ともいう。

それでも、実朝が後鳥羽を和歌の師として尊崇し、後鳥羽がそういう実朝を利用したのはまちがいない。

後鳥羽上皇の知略。だが、それはのちにものの見事に失敗し、歴代天皇のなかでもきわめて残念な境遇に追いやられ、朝廷の権威そのものの大きな凋落を招いたことを、私たちは知っている。

■後鳥羽上皇ほど多才な天皇はいない

後鳥羽上皇ほど多才な天皇および上皇は、長い皇室の歴史のなかに、ほとんどいないのではないだろうか。

平家が異母弟の安徳天皇を連れて都落ちしたのち、後白河法皇の後ろ盾で、わずか4歳で即位。安徳天皇が壇ノ浦に沈むまでの2年ほど、在位期間が重なっている。しかし、天皇の正統性を保証する三種の神器がないままの即位で、しかも神器のうちの宝剣は、平家と一緒に海に沈んでしまった。このため、強いコンプレックスを抱いていたとされる。

建久3年(1193)に後白河法皇が死去すると、13歳にして天皇親政を開始し、同9年(1198)に土御門天皇に譲位。それからは上皇として、天皇としてのしがらみに縛られることなく、「治天の君」として能力を存分に発揮していく。

まず、和歌に関しては時代を代表する歌人で、譲位した頃から大きく腕を上げ、歌合や歌会を盛んに行った。たとえば正治2年(1200)には、歌人たちにそれぞれ100首ずつ和歌を詠ませる「百首和歌」を2度開催。翌年には「千五百番歌合」という空前のイベントを主宰し、勅撰集の編纂につながっていった。上皇としては初めて、和歌の優劣を判断する判者も務めている。

■あらゆる技芸にすぐれた万能の帝王

和歌だけでなく、朝廷政治の基本となる漢学も収め、その成果を『世俗浅深秘抄』という有職故実の著作にまとめた。音楽にも才能を発揮し、二条定輔に師事した琵琶の腕前は、趣味のレベルをはるかに超え、琵琶の秘曲を次々と伝授されている。

運動能力も高く、蹴鞠(けまり、しゅうきく)の腕前はトップレベルで「長者」の称号を贈られたほか、水泳、乗馬、笠懸、狩猟と、あらゆる武技に優れ、刀剣の焼き入れまで行ったという。

まさに万能。それと政治力は別だと思うかもしれないが、当時の宮中では、漢学や和歌のほか音楽の教養が「政」に欠かせないと考えられていた。そのうえ、武士の領分だった武技にもすぐれており、まさに自他ともに認める万能の帝王だったのだ。

たとえば第43話(11月13日放送)では、上洛した北条義時の弟、時房が鎌倉一の蹴鞠の名手と聞いた後鳥羽上皇が、身分を明かさず時房と鞠を蹴り合ったのは、後鳥羽の「万能性」の一端を示している。

■皇子を鎌倉へ送り込み幕府を牛耳る

ただし、大河ドラマでの描き方には異論もある。

自身のために祈禱(きとう)を行う慈円(摂政、関白を務めた九条兼実の弟)を常にそばに侍らせ、意見を聞きながら鎌倉への敵愾心を募らせているが、そもそも慈円は鎌倉との協調が必要だと考えていた。

後鳥羽上皇は、人の意見にいちいち左右される「小物」ではなく、それが万能の帝王の万能たるゆえんだったはずだ。

後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵]
後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵・伝藤原信実筆]〔写真=『原色日本の美術 21 面と肖像』(小学館)収録/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

そして、常に目端が利き、鎌倉対策も抜かりはなかった。

後継ぎが生まれない実朝は、後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎え、自分はその後見人になることを思いつく。それは後鳥羽にとっても渡りに船だった。

皇子を送り込めば鎌倉を支配できる。だが、北条に後見されては元も子もない。そこで実朝を、上皇の皇子の後見人にふさわしいように猛スピードで出世させた。建保6年(1218)正月、実朝は27歳で権大納言に任官されて父頼朝に並び、3月には武官の最高官職である左近衛大将への任官で、父をも超えた。

同じ年の10月には内大臣、12月には右大臣に任ぜられた。位階は正二位で父と同じだが、官職では大きく上回ったのだ。

ところが、翌承久元年(1219)正月27日、実朝は右大臣任官の拝賀が行われた鶴岡八幡宮で、2代将軍頼家の遺児、公暁に殺されてしまうのである。

■義時に怒りを募らせたきっかけ

後鳥羽上皇の目算は狂ったが、将軍を失った幕府も痛い。そこで後鳥羽は揺さぶりをかけた。

幕府に対し、親王の下向を延期すると通達し、一方で、北条義時が摂津国(現大阪府)長江・倉橋荘にもっていた地頭職の解任を命じた。もし解任を拒絶されれば、皇子の下向を中止し、義時を逆賊扱いできるというわけだ。

実際、義時側は後鳥羽上皇の求めを拒んだので、親王の下向話は流れた。だが、幕府が不安定になることは後鳥羽側にとってもマイナスなので、左大臣九条道家の息子で頼朝の遠縁でもある、数え年2歳の三寅を鎌倉に向かわせることにした。

三寅が鎌倉に向かう途中、事件が起きた。在京の御家人で後鳥羽上皇の近臣だった源頼茂が将軍の地位を望んで謀反を起こし、最後は大内裏に火をつけて自害した。後鳥羽は大内裏の再建にこだわったが、幕府の協力が得られなかったので、不満を爆発させたようだ。

実朝の頃と違って冷淡な幕府の態度に、後鳥羽は怒りを募らせ、幕府が自分になびかない元凶と思われる義時を排除し、幕府を自らのコントロール下に置こうという意志を新たにした、というわけである。

■「討幕」ではなく「義時追討」が目的

こうして承久の乱が勃発するが、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとしたのではない。あくまでも支配下に置こうとした。だから、後鳥羽が発布したのはあくまでも「北条義時追討」の院宣と官宣旨で、「討幕」とは書かれていない。

後鳥羽には幕府を義時派と反義時派に分裂させ、内部崩壊させる狙いもあっただろう。とはいえ、幕府が失われれば御家人をまとめきれないが、弱体化して義時を排除できれば、自身の支配下に置ける。要は、邪魔な経営陣を排除して企業を乗っ取るのと同じ発想で、さすがの策士である。

後鳥羽は幕府の状況をしたたかに読んでいた。鎌倉幕府を支えるのは将軍と御家人のあいだの「御恩と奉公」の関係だった。すなわち、将軍が御家人に土地の支配権が認めてやる(御恩)代わりに、御家人は軍役などに従事する(奉公)。しかし、奉公すべき実朝がいないいま、御家人を揺さぶる絶好の機会だと。

■政子の機転が上回った

しかし、そこは幕府が上手だった。尼将軍となっていた政子は、後鳥羽が義時ではなく、幕府そのものを倒そうとしているかのように情報操作し、御家人の危機感をあおったうえで、3代の将軍の「山よりも高く海よりも深い恩」に報いるべく、幕府に奉公するように御家人を説得した。

それを聞いて、御家人は情にほだされたのではない。幕府についたほうが、所領が安堵される可能性が高いと踏んだのである。

それでも義時ら幕府首脳部は、積極的に京に攻め上るか、鎌倉で上皇の軍を迎え撃つか決めかね、迎撃を主張する声のほうが大きかった。京都を攻めて朝敵の汚名を着せられるのは、義時だって避けたかったのだ。

そこに、鎌倉殿の13人の一人、大江広元が「時間が経てば東国の御家人の決心も揺らぐ。北条泰時一人でも出陣すれば、みな後に続く」と説いた。同じく重臣の三善康信も同意見だったことから、承久3年(1221)5月22日、泰時はわずか18騎で出陣。幕府軍はたちまち数万人にふくらんだ。

■自身の権威を過信しすぎた

後鳥羽上皇方の軍勢は在京御家人が中心だが、彼らの多くは、そもそもは東国の出身者。東国の御家人たちの傍流であるケースが多く、戦場経験も本流に劣る。ひとたびこうした流れができると、軍事力で太刀打ちできるはずがない。

しかし、後鳥羽にはいくらでも勝ちようがあった。自分で北条義時追討の宮宣旨を出しておきながら、急いで鎌倉を攻めようとしなかったのが問題で、上皇の軍に攻められれば、逆賊になるのが嫌な御家人たちが、続々となびいただろう。

逆にいえば、後鳥羽は「官軍」の権威を過信し、「賊軍」が攻めてくることなど想像もしなかった。

戦国時代の戦の再現
写真=iStock.com/mura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mura

自らが「官軍」であることを、もっと積極的に訴えるだけでも、結果は違っただろう。のちの戊辰戦争では、錦の御旗を見せられた徳川幕府軍は戦意を大きく喪失し、各藩も続々と官軍になびいた。だが、万能であるがゆえに自身の権威を過信した後鳥羽は、もっとも肝心な工作を怠ってしまった。

■戦に負けた朝廷が失ったもの

承久の乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐に流され、都へは生涯、帰ることはできなかった。息子の順徳上皇と、以前、鎌倉殿候補になった六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王も、それぞれ佐渡、但馬、備前に流され、土御門上皇も自ら土佐に移った。また、仲恭天皇は廃位となって、後鳥羽の異父兄の皇子が後堀河天皇として即位した。

後鳥羽の直系は徹底的に排除されたわけだが、これは幕府による皇位継承への強引な介入で、朝廷と幕府の力関係が完全に逆転したことを意味している。

また、朝廷側についた御家人のほか、後鳥羽側近の公卿たちは、軒並み処刑された。

後鳥羽は敗戦が濃厚になると、三浦胤義や山田重忠らに御所にこもって戦いたいと懇願されながら、巻き添えになるのを嫌がって門前払いにしている。また、鎌倉方に、義時追討の院宣旨を撤回すると申し出たという。

上皇という立場へのおごり。自らが万能であることへのおごり。いかに万能で知略に長けていても、餅屋は餅屋。武家の府に真正面から武力で対抗してもかなうはずがない。そうしたリアリティーが後鳥羽上皇には欠如していた。そして、追い詰められればたちまち、意気地なしの本性が露呈する。

この後、かつてのような朝廷の力は、明治維新を迎えるまで戻ることはなかった。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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