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出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈

プレジデントオンライン / 2022年12月2日 15時15分

狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

約260年つづく維持管理体制を築き上げた天下人・徳川家康。家康は長くつづく体制をどう築いたのか。作家の童門冬二さんは「安定を最も重要視した家康は『出る杭を“必ず”打つ』ために、人間の欲望を理解し、巧みな支配で人を操った」という――。

※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■人間の切実なニーズを逆用する

家康の、「人間の切実なニーズを逆用する方策」にはさまざまあるが、目に見えるものとしては藩をつくったことである。藩という言葉の意味は、もともと囲いとか垣根の意味だ。これは分断思想の表れである。

童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)
童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)

そうなると交通も自由にさせない。関所を設けた。川の渡しには番所を設けた。日本人が旅行するのにはそれぞれ目的が必要とされた。目的いかんによっては旅行を認めない。特に庶民は伊勢神宮に行くとか、高野山にお参りするとか信仰上の理由や家族に病人が出た、などという他は全く身動きできなくなった。

特に大都市の町々や各長屋では、入口に木戸が設けられた。午後6時に締まり翌朝午前6時に開けられる。したがって夜の12時間は完全に牢屋の中に入っているのと同じだ。檻の生活である。

家康はこうして日本中に檻をつくった。檻の中に人びとを閉じ込めた。これが徳川家康における、「日本の維持管理体制の確立」の実態である。

■好都合な「武士の心構え」を植えつける

徳川家への忠誠度を物差しに、また人間の欲望を抑えつけてその逆エネルギーによって体制を維持する、ということは終始守られた。そのことを最も端的に表したのは、

「幕府の政策を批判してはならない」

ということである。

批判者はつぎつぎと罰された。もちろん、幕府に背くような大名は仮借なくその疑いだけで潰された。この物差しによって次々と滅ぼされた大名の家臣が失業して浪人問題を引き起こしたことは周知の通りだ。

こういう幕政への批判をあまねく食い止めるために徳川幕府は教育を重視した。教育といっても後代に教えるべきことはもう決まっていて、中国の朱子学である。

朱子学を持ち込んだ最大の理由は、

「武士の心構え」

が設定できたことである。

武士の心構えが設定できたというのは、徳川時代に入って新しく忠義の観念を植えつけたことだ。

■「忠義」を生み出して乱世を統治

忠義の観念とは、

「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」

という精神的な掟である。

つまり江戸時代の前は忠義という観念はあまりなかった。元禄年間にはいってさえ赤穂浪士の仇討ちが、堀部安兵衛によってはじめて君主の位置を父と同様に置き、仇討ちの対象にできるという理論構成をしたことでもわかる。

戦国の気風を多く残す江戸時代初期はまだ下剋上の論理が横行していて、

「部下の生活を保障できない主人は主人ではない」

という現実重視の考え方が支配的だった。

が、これでは困る。というのはもう日本の国を自由に切り取りできるような状況は去った。大名にしろ農民にしろ所有する土地は全部固定されてしまったのである。勝手に自由にはできない。そうなってくると、かつてあれほど一所懸命の思想で武士が目の色を変えていた土地を自由に与えたり取ったりすることもできない。全般が“固定社会”に移行しつつあった。

■「トップに都合の良い」精神を教育するシステム

そういう中では物欲をおさえるためには精神力によらなければならない。その精神力をなににするか、という点で徳川幕府は、「武士における忠誠心」というものを考えだしたのである。それも、

「たとえ主人が能力を欠いていても、主人は主人だ。臣下は忠節を尽くさなければならない」

というトップにとってはなはだ都合の良い論理をつくりだした。

こうしておけばたとえ生活の保障能力を欠いているトップでも、仕える部下は全能力を発揮してこれを支えなければならない。トップが充分に能力を発揮できないのは部下が仕事を怠けているからだ、それは忠誠心が足りないからだ、という論法である。

階層ピラミッド
写真=iStock.com/Eoneren
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eoneren

この忠義を核にした武士道は武士だけに限らず、町人社会にも適用された。元禄期ころ、多くの商人が家訓をつくっているが、その根底にあるのは武士道と同じ考え方である。こうして子どものころからすべての日本人に、君に忠、親に孝という身分と長幼の序をシステム化した教育がおこなわれ、またそれを実行するシステムが強固につくられた。

したがって徳川幕府における進行管理は、物心両面によって蟻の這い出る隙間もないような緻密な制度によっておこなわれたといえる。

■反乱者を挑発→弾圧して「見せしめ」

が、それだけで足りず幕府は時折、大名や旗本や浪人や庶民を挑発した。つまりこんながんじがらめの社会制度の中で、これでもかこれでもかと人間一人ひとりの自己主張や人格尊重欲を抑圧するような政策をとれば反発する人間も出てくる。

しかし幕府はそういう反発をすべて抑え込もうとして制度を厳しくしているわけではない。固い教育をしているわけではない。

ときには、「反乱者が出たほうがいい」と思っていた。鎮圧を大々的にPRして弾圧の実績が示せるからである。これにひっかかって由井正雪や多くの浪人たちが乱を起こした。島原の乱も考えようによってはその例だ。抑圧と疎外に対する反抗心の爆発である。

が、幕府はすでに強大な武力と権力を持っていたから、ものの見事にこれを鎮圧していよいよ幕府の勢威を固めた。

これは生きた国民へのテキストであった。日本人はこういう実例を次々と見せられて、大名も旗本も浪人も庶民もすべて抵抗心という牙を失っていった。皆丸く摩滅していったのである。徳川時代の太平はそれで保たれた。

人形を指で押さえる人
写真=iStock.com/Atomic62 Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Atomic62 Studio

■足を引っ張りあう評価システムを確立

戦国時代と違って太平時代の業績評価は、やはり民をどのように平穏に治め、また幕府をどのように富ませ、いかに大過なく毎日を過ごせるか、そういう施策をおこなった人間が優遇された。

つまり人間を「小さく小さくなあれ」の境地に追い込み、また無事大過なく日常が過ごせるような連中が最も高く評価された。

ことを起こす人間は嫌われた。出る杭も必ず打たれた。後世のお粥社会が巧妙に形成されていった。

業績評価は鍋の中で煮られてアイデンティティを失ったふにゃふにゃのお粥たちがおこなうそれであった。お粥は米粒を嫌った。だから米粒が握り飯になるとすぐみんなで寄ってたかって足をひっぱった。徳川社会というのは、汁の中に権限と責任を吸いとられたふにゃふにゃの米粒の社会であった。

したがって業績評価は、

「無事大過なく生涯をまっとうできるかどうか」

という物差しによって判断されたのである。

■常に全員を「慢性飢餓症」の状態にする

徳川家康は人間を、「慢性飢餓症」の状態に置いて、逆流してくるパワーを国家経営のエネルギーに使った。かれは日本人を決して満腹にはさせなかった。お腹が満たされるとろくなことは考えない。

「人間は常に飢えさせておくに限る、腹八分目にすべきだ」

という考えだ。かれ自身がいつも粥ばかり食っていたからそういうことを他人に強いてもなんとも思わなかったのだろう。

また、小さい時からかれは人質になって成人するまで他人の冷飯を食った。それだけに性格が暗くなり、他人をいじめてもあまり感じない人間になっていたのかもしれない。人質時代の報復を日本人全体に及ぼしたといってもいい。

この辺に、かれの組織力の限界、あるいはマイナス面の原因があった。

■江戸幕府が260余年で限界を迎えた理由

たとえ二百六十余年間維持されたとしても、結局、徳川幕府は潰滅してしまった。

将軍徳川の紋章
写真=iStock.com/kuremo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuremo

その原因は、幕末になって急に生じたのだろうか? そうではない。その原因ははじめからあったが、歴代の実権者がなんとか抑えてきたのだ。おもに制度と力によって。だから、「クサイものにはフタをする」という面もたくさんあった。

これはやはり、徳川家康の組織力の限界であると同時に、“組織される側”から見ると、万人が家康の組織力、あるいは人物を全面的に支持していなかったことを示している。家康の組織力の限界つまり徳川幕府のマイナス面である。

家康がつくりだした、日本の、「維持管理型組織」とは、「幕藩体制」である。幕府という親ガメと藩という子ガメで、日本の社会と人間を、中央=地方という体制内に全部封じこめようということだ。このため、家康は信長や秀吉が廃止した関所や番所を再び復活した。さらに藩をつくった。「藩」という「かこい」を列島上に二百数十つくった。

が、こういう“容れもの”だけで、それまでに高まっている国民のニーズを抑えることはできない。よりよい生活を求める。解放された人間の欲望は無限の増殖作用を起こす。

■ハードとソフトで、欲望を抑え込む

制度というハードな“容れもの”(環境・社会)への制約だけで、民衆の欲望が抑えきれない、とみた家康は、そこで今度はソフト面に目を向けた。つまり、「人間の意識の抑圧」である。

このために、かれはどういう組織力を発揮したのか? 一言でいえば、そのためのかれの組織力は、「その時代に生きていた人々のニーズを逆に抑え込む」ということであった。

その時代に生きていた人々のニーズを逆に抑え込むというのは、ニーズを実現しないということである。ニーズを否定する方向で組織づくりをし、否定されたニーズが頭をもたげようと壁を破り土を起こせないように、壁を厚くし、覆土してしまうということである。

日本人の欲望を抑え込むことによって、「高密度管理社会」といわれる、「幕藩体制」を実現したのである。

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童門 冬二(どうもん・ふゆじ)
歴史小説家
東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。

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(歴史小説家 童門 冬二)

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