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5カ月の男児を絞殺、妻と義母はハンマーで撲殺…20代男性に「家族皆殺し」を決意させた義母のひと言

プレジデントオンライン / 2022年11月30日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nemke

2010年3月、宮崎市で一家3人が殺される「宮崎家族3人殺害事件」が起きた。加害者の男性は、一緒に住む妻と義母、それに生後5カ月の長男を殺害。自ら通報して逮捕された。男性は犯行を認めており、2014年に最高裁で死刑判決が確定している。加害者家族に話を聞き、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)を書いた阿部恭子さんは「加害者は日常的に義母から暴力を受けており、家族のなかでも弱い立場にあった」という――。(第1回)

※本稿は、阿部恭子『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

■「宮崎で事件があったって……。5カ月の男の子がおらんらしい」

拘置所の面会室。夫婦は並んで座り、刑務官に連れられ入ってくる息子を待っていた。福岡拘置所まで車で片道2時間。それでも親子に与えられる面会時間は20分足らず。アクリル板に遮られ、目の前に置かれた息子の手を握ることさえ許されない。こうして面会することが許されるのは、あと何度なのか……。

息子が塀の中で生活するようになってもはや10年以上が過ぎ、最近は、「最後の日」を意識するようになった。もう一度会えますように……、いつも、そう願いながら手を振って別れる。2人の長男・奥本章寛(当時20代)は、2014年10月16日に死刑が確定した死刑囚である。

「その子はおまえの子どもではあるけれども、おまえのお腹を借りてこの世に生まれただけだ。その後は、この子の人生だ」

章寛の母・奥本和代(当時50代)は、事件が起きて以来、実父に言われた言葉を思い出すようになった。「何を言っているんだろう。男の人は感覚が違うのかしら? 『私の子』でしょ」

妊娠した当時、そう言われた和代は首をかしげながらお腹をさすっていた。しかし、父親の言う通り、息子は想像もできなかった人生を歩み始めていた。かつて身体の一部だった我が子とは、塀の中と外に分断されていた。息子は、たとえ血のつながった親子でも越えることのできない、高い壁の向こうに行ってしまったのだ。

福岡県豊前市。和代はその日、自らが働く介護施設で、夜勤を担当していた。ある利用者と話をしている時、はじめて事件のことを耳にした。

「宮崎で事件があったって……。5カ月の男の子がおらんらしい」

和代はドキッとした。

「え? うちの孫も5カ月よ……」

動揺していると、すぐに夫の奥本浩幸(当時50代)から連絡があった。章寛が宮崎で事件を「起こした」のだという。

「まさか……」

和代は慌てて車のエンジンをかけ、自宅に向かった。到着すると、すでに事件の知らせを聞いた地域の人々が集まってくれていた。章寛は殺人罪で逮捕されていた。

■妻、義母を殺害し、息子の遺体を資材置き場に埋めた

亡くなったのは、同居していた生後5カ月の章寛の息子、妻、そして義母――。和代と浩幸は、章寛が勾留されている宮崎県宮崎市の警察署まで向かわなければならなかった。何かの間違いであってほしい……。その一心で2人は約5時間、ほぼ無言のまま、車を走らせていた。

日本の警察とパトカー
写真=iStock.com/akiyoko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/akiyoko

2010年3月1日、宮崎市内の民家で、奥本真美(仮名・当時20代)と母親の山口信子(仮名・当時50代)が死亡しているのが見つかり、さらに生後5カ月の長男・雄登が行方不明となった。「帰宅したら2人が死んでいた」と第一発見者を装い通報した章寛は、その後警察の調べに対し、3人を殺害し、長男の遺体を埋めたと供述。近くの資材置き場から、長男の遺体が発見された。

宮崎市内の警察署に到着した2人は、悪夢が現実になったと感じていた。

「ごめんなさい……」

面会室に現れた章寛は、両親の顔を見るなり泣き崩れた。これほどまでに弱々しい章寛の姿を見たのははじめてだった。2人は警察の事情聴取などがあり、しばらく宮崎に留まらなければならなかったが、宿を借りる際、名前を名乗ることができず、車内で寝泊まりするしかなかった。殺人犯の家族だと周囲に知られることが怖くて仕方なかったのだ。これから先、何が起きるのか、親として何をするべきなのかわからず、日々不安だけが募っていった。

「車を走らせて、そのまま海に身を投げてしまいたい……」

そんな思いがよぎる瞬間が何度もあった。

■季節を感じる余裕も失うほどの精神状態に

地域の人々は、そんな2人を心配して電話で励ましてくれていた。

「職場の責任者は、『仕事は心配するな、俺たちがおまえを守るから、子どもを守れ』と言って送り出してくれました。おばあちゃんや子どもたちもおるし……」

地域の人々や、他の家族への責任感が、殺人犯の親という十字架を背負った2人を死の淵から生きる道へと導いていた。地元に戻った2人は、「これ以上、周囲に迷惑はかけられない」と落ち込んだ姿を見せないよう仕事に励んだ。罵声を浴びせたり、嫌味を言う人はいなかったが、傷ついた心に、ちょっとした言葉が刺さることもあった。

章寛と一緒に遊んでいた子どもたちの話を聞く度に、「なんでうちの子が……」と悲しみが込み上げてくることもあった。

「あの時こうしていれば、ああしていればと……。夜中に目が覚めるたび、いろんな思いが頭を巡って、とにかく、後悔の日々でした」

同じ場所で生活しているにもかかわらず、事件前とは、見える景色まで変わってしまっていた。事件からひと月経った頃、「桜の花は見えてるか?」そう職場の人から声をかけられ、和代はハッとした。下ばかり向いて、季節を感じる余裕など失っていた自分に気が付いたのだ。

「子どもはひとりだけじゃないやろ、もうひとりおるんやからしっかりしなさい」

そう言って、涙ながらに励ましてくれる人もいた。地域の人々の温かさに、和代は少しずつ、自分を取り戻していくことができたという。

■「あっくんは、理由もなく人を殺すひとではありません」

1988年2月、章寛は、奥本家の長男として福岡県豊前市に生まれた。豊前市は、大分県との県境に位置しており、求菩提(くぼて)山(さん)や犬ヶ岳などの山地に囲まれた、自然豊かな地域である。奥本家が暮らす地域は、家族ぐるみの付き合いがとても深い。

住民同士知らない者はなく、互いに助け合って生活してきた。章寛はこの地で、のびのびと幼少期を過ごした。地域からの同情は、家族だけではなく、3人を殺めるに至った章寛にも集まっていた。

「あっくん(章寛)は、人の悪口を言わないし、皆と仲良くできる人でした」

幼馴染のひとりはそう話し、事件の経緯を見守ってきた。

「あっくんは、理由もなく人を殺すひとではありません。きっと事情があったに違いないと信じています」

住民たちは、章寛は穏やかで優しく、人を傷つけるような人物ではないと、皆断言している。章寛に限って、「心の闇」や「裏の顔」を持っているなんてありえない、と口々に言うのだ。和代は、子どもが思わず甘えたくなるような、穏やかで温かい印象の女性である。

章寛には、高速道路を作りたいという夢があり、高校卒業後は土木関係の会社に勤めることを希望していた。ところが、通う高校で自衛隊員の募集があり、教師に勧められたことをきっかけとして、卒業後航空自衛隊に入隊、宮崎県の新田原(にゅうたばる)基地に配属された。

■「別れさせるから迎えに来い!」と怒鳴る義理の祖母

自衛隊という選択は、のちに被害者となる妻の真美と出会うきっかけになった。真美とはマッチングアプリを通して知り合い、交際するようになった。章寛のタイプといえる雰囲気ではなかったが、一緒にいると落ち着く女性だったようである。21歳の時、息子の雄登が生まれたことをきっかけに真美と結婚し、宮崎で義母の信子と4人で生活することになった。結婚後は自衛隊を除隊し、かねてより希望していた土木関係の仕事を始めていた。

「真美さんは、話しかければ話してくれますが、信子さんは……」

和代は真美と信子の印象を、のちにこう語る。奥本家の人々は、最初から信子に良い印象は持っていないようだった。真美、信子を含む山本家の女性たちは気性が激しく、もっとも手強い印象を受けたのは、信子の母親の花(仮名・当時70代)だった。

2人の結婚当時、介護施設で生活していた花に挨拶に行った際、職員に対し常に命令口調で横柄な態度を取る姿に、奥本家の人々は驚かされたという。花から突然「真美と章寛を別れさせるから迎えに来い!」と電話を受けたこともあった。「迎えに行かんでも自分で帰ってこれるやろと、おばあちゃんが断りましたけど」と、和代は語った。

部屋を出る女性を見つめる青年
写真=iStock.com/yamasan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yamasan

■率先して義母に食事を取り分けるほど気を使っていた

花はその昔、保険の外交員の仕事をしていたと和代から聞いたことがあり、頭の切れる女性という印象だった。一方、娘の信子は人の目を見て話をすることができない、ぶっきらぼうな雰囲気だったという。

信子は、知的で気が強い花のいいなりで、花は「信子の夫は頼りないからあたしが別れさせた!」と周囲によく漏らしていたという。孫である真美も花に似ているのか、活発で、やんちゃな女性だったという。章寛は真美から、山本家が暮らす地域では自衛隊員と結婚するのが人気だと聞いていた。信子の夫も、息子も自衛隊員だった。真美も自衛隊の男性が好きで、章寛を交際相手に選んだ理由は、自衛隊員だったことが最大の理由のようだった。

しかし、信子の夫も息子もそして章寛も、自衛隊で出世することはなく、数年で除隊している。さらに信子の夫も、花から離婚を促されており、信子はそれが原因で離婚している。章寛が除隊したことが花は気に食わず、山本家から追い出したいと考えていたのかもしれない。自衛隊員ではない男は、山本家には不要なのだ。

腕を組んだ男
写真=iStock.com/yamasan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yamasan

信子も花の影響を受け、章寛を敵視し、見下すようになっていき、その信子を見て真美も、章寛に冷たくなっていったのではないか。章寛は、親族で食事をする際、率先して信子に食べ物を取り分けてあげるなど、かなり気を使っている様子だったと和代は話す。

「私だってご飯をよそってもらったことなんかないのに……」

■無理をして高級車をローンで購入したが…

章寛は、なんとか家族の期待にこたえたいと、無理をするようになった。高級車のローンでの購入もそのひとつだったそうだ。

「真美さんと一緒に広告を見ていたのを覚えています。真美さんは『私も働くから』って、言ってましたけど……」

ところが、いつまでたっても真美が仕事を探す様子はなかった。日中の仕事の給料だけでは回らない家計をなんとかするために、章寛は夜のバイトまで探さなければならなくなった。山本家を信頼しているわけではなかったが、一生懸命家族に尽くしている章寛を見て、親としてできることはしてあげたいと、和代は定期的に米や野菜を章寛に送っていた。

不自由な思いをしないようにと、現金5万から15万円を段ボールに忍び込ませて送ることもあった。真美からはお礼のメールが届くのだが、信子からは、「許さない」「お米がない」といったメールが入るのだ。和代もまた、信子の不可解な行動に振り回されていた。

奥本家がいくら経済的な援助をしても、章寛の表情が昔のように明るく戻ることはなかった。たまりかねた和代は、章寛に「つらかったら戻っておいで」と言っていた。それでも、「お義母さんおいては帰れん」と、章寛が宮崎を出ることはなかった。

■理不尽な暴力を受け、身体的、精神的に追い詰められていった

「若いのに寝るな!」

ある日信子は、肉体労働でクタクタになって床に就く章寛から、布団を取り上げ蹴りつけた。章寛に対する信子の暴言・暴力は、次第にエスカレートしていった。また、「離婚するなら慰謝料をガッツリ取ってやる!」と脅され、その請求が両親に行くことを恐れていたともいう。

表情の見えない怒ったような女性
写真=iStock.com/kumikomini
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kumikomini

体格が良く、元自衛官の章寛が女ひとりに敵わないわけはない。しかし、章寛が幼い頃から身につけてきた忍耐や自己犠牲が、対抗することを躊躇させたのではないかと思われる。結局、義母の理不尽な行動や暴力を許してしまう結果となってしまった。

信子も章寛の弱点を見透かし、何をしても反撃されることはないだろうと高をくくっていたのだろう。それでも章寛は、義母のことで悩んでばかりいるわけにはいかなかった。当時、章寛は約600万円の借金を抱えており、幼子の世話で忙しい妻に働いてもらうわけにはいかず、仕事を増やさなければならなかった。信子の暴力性については、元夫も認めていた。

「妻を殺す夢を見たことは何度もあったが、自分はできなかった……」

和代は事件後、彼に謝罪をした際に、そう言われたことがあった。また、事件現場の取材からも、「信子が大声で怒鳴っている声が聞こえた」「章寛が雨の中、家の前で立たされているのを見た」という近隣住民の話が伝えられており、そのような背景もあって3人が無惨に殺された事件であるにもかかわらず、章寛に対する同情の声も多くあったのだという。

孫ができたので章寛にもう用はなく、出ていってほしいと思っての嫌がらせだったのか。信子が何を望んでいたのかは、今となっては知るよしもない。昼は過酷な肉体労働、家では義母になじられ、章寛は身体的、精神的に追い詰められていく。

■地元を侮辱されたことが家族殺害の動機となった

心優しく穏やかで、忍耐強い章寛にもたったひとつ、許せないことがあった。それは、愛する家族と生まれ育った地域への侮辱である。

2010年2月23日。「あんたの親はなんにもしてくれん!」と、信子はいつものように暴言を吐きながら、章寛の頭を何度も殴りつけた。そして、「田舎へ帰れ!」と章寛のことをなじった。この一言が、章寛に殺害を決意させる。信子は、章寛の心の拠り所である家族や地域を、章寛を傷つけるために侮辱した。この言葉は、章寛の理性を完全に崩壊させた。

3人を殺害する5日前の出来事である。章寛は家族殺害のためのハンマーを購入し、夜、3人が寝静まるタイミングを待っていた。しかし、過酷な労働と孤独な生活で、疲弊しきった章寛が先に眠ってしまうこともあり、「昨夜もできなかった……」朝、目が覚めてそう思う日が何日か続いた。

そのまま時が流れ、章寛が自ら理性を取り戻すことができればよかったのだが、ついにその日は来てしまった。

■タイムマシンがあればちょっと前に戻って、3人で仲良く暮らしたい

章寛は、今日こそはとハンマーを握りしめ、3人が眠る寝室へと向かった。雄登はすぐ物音に気が付き声を出した。章寛は、雄登が泣き出しては困ると両手で首を絞めて殺害。その後、刃渡り12センチの包丁で真美の首を刺し、ハンマーで頭を数回殴打した。そして最後、信子の頭にハンマーを何度も振り下ろし、息の根を絶った。

章寛は逮捕された後、家族にあて、手紙を送っていた。

俺、本当にバカなことをしたと毎日後悔しよる。本当にごめんなさい。義母と生活していなければ、こんなことになってなかったかもしれん。義母は自分に都合のいいようにしかせんかった。とても気分屋でわがままやった。俺でも、そんな義母とうまくやっていこうと頑張ろうとしたんだよ。でも宮崎の家には、俺の居場所はなかった。家に帰ってもゆっくりできないし、ストレスがたまるだけやった。仕事に行ってるほうが幸せやった。

義母から毎日のようになじられ、俺の親の文句を言われ続けてきた。お父さんとお母さんは、俺らのためにいろいろしてくれたのに、感謝のかけらもなかった。真美も義母に流され、俺の味方をしてくれんかった。毎日が苦しくて、とても悔しかった。本当に地獄やった。でも、3人を殺していい理由にはならないと警察に捕まってから気付いたんだ。弁護士さんに相談に行けばよかった。もうでも遅かった。

俺は義母と一緒に生活するのはいややし、もっと自由に生きたいという理由で3人を殺害してしまった。でも警察に捕まって、全部しゃべったら、すごい楽になった。体調はとてもいいから。心配しなくても大丈夫やから。ましてや自殺なんかしないから。しっかり、裁判に出るつもりやから。俺はどんな刑でも受け入れるつもりやから。覚悟はできとる。

タイムマシンがあればちょっと前に戻って、真美と息子と3人で暮らしたい。3人で仲良く暮らしたい。俺はもうみんなに迷惑をかけないようにしようと思ったけど結局ダメやった。最後はとんだ迷惑をかけるはめになってしまった。本当にごめんなさい。

■「自由に生きたかった」という表現が凶悪性を印象付けてしまった

「口蹄疫より先に、宮崎を震撼(しんかん)させた事件」と呼ばれた宮崎家族3人殺害事件の奥本章寛被告の裁判は、逮捕から約半年後という異例のスピードで開廷され、たった6回の公判で死刑判決が下された。

日本の裁判員制度が開始されたのは、2009年5月である。章寛の裁判は、裁判員裁判が開始された直後であった。弁護人も経験がなく、戦略が立てられなかった様子がうかがえる。

「3人やけん、仕方ない……、そう言われたこともあります」

章寛に下される判決を、奥本家の人々が覚悟していなかったわけではない。それでも、議論が尽くされた裁判であったかといえば、悔いが残る部分は否定できない。章寛は取り調べにおいて、納得のいかない調書に署名捺印してしまったことを後悔していた。殺害の事実に違いはないが、動機は違うと思っても訂正を求めることができなかった。

「もっと自由に生きたいという理由で3人を殺害してしまった」と、前述した手紙にも書かれているが、何かを求める積極的な理由ではなく、苦痛から解放されたかったというのが章寛の心境に即した表現ではないかと思われる。

さらに手紙には、「警察官の人たちもみんないい人でみんなとても優しかった。俺の取調官の人は、とてもいい人やったよ。俺を笑わせたりもしてくれた。取り調べ中の合間にいろんな雑談もしてくれた。いい人たちやった」とも書かれていた。家族の中でずっと非人間的に扱われてきた章寛にとって、ひとりの人間として対応してくれる警察官は、すがるべき対象だったのだろう。

ところが、この「自由に生きたかった」という表現は、身勝手かつ凶悪な犯行を裏付けることになってしまった。

宮崎家族3人殺害・傍聴券を求める人々
写真=時事通信フォト
妻など家族3人を殺害したとして殺人の罪などに問われた奥本章寛被告の裁判員裁判の傍聴券を求めて抽選に並ぶ人々(2010年11月17日午前9時すぎ、宮崎・宮崎市の宮崎地方裁判所) - 写真=時事通信フォト

■夫婦ともに浮気を認めており、関係性は冷めきっていた

章寛は、結婚後もマッチングアプリをよく利用しており、知り合った女性と性的関係を持つことがあった。犯行直後もパチンコ店に立ち寄った後、マッチングアプリを利用していた。事件現場の取材からは、章寛が暮らす家に男性が出入りしていたという近所の証言も出ていた。

章寛が出張中、2人ともそれぞれ浮気をしたことも認めており、関係は冷めきっていたようである。検察は、こうした行動を根拠として、自由な生活を送るために義母の存在が邪魔だったことを犯行動機と主張していた。

2010年12月7日、宮崎地方裁判所は、奥本章寛に死刑判決を言い渡した。裁判員裁判において3例目の死刑判決だった。地元住民を中心に、6000筆を超える署名が集まった減刑嘆願書が裁判所に提出されたが、住民の願いは届かなかった。章寛は起訴内容を認めており、量刑が争点とされた。

判決は、「家族生活全般に鬱憤(うっぷん)やストレスを募らせ、義母からの叱責(しっせき)をきっかけに自由で1人になりたいと殺害を決意」したと犯行の計画性を指摘したうえで、長男を溺死させて土中に埋めたことについて「我が子への愛情は感じられず無慈悲で悪質。自己中心的、冷酷で、責任は重大で極刑に値する」と指摘した。

■「極刑を回避すべき決定的な事情とは認められない」

被告人質問で動機を問われた際「分からない」と答えていることが多く、「反省は表面的で内省の深まりは乏しい」とされた。さらに、残された被害者遺族の峻烈(しゅんれつ)な処罰感情をも加味し、2人以上殺害した場合死刑適用という永山基準で示された「動機」「殺害方法」等の要素に言及し「若年であることなどから更生可能性は否定できないが、極刑を回避すべき決定的な事情とは認められない」と判示している。

弁護側は、義母の叱責により精神的に追い詰められたとして死刑回避を主張したが、「義母に行き過ぎは少なからずあるが大きく考慮するのは適当でない」として退けられた。

判決に対し弁護側は控訴したが、2012年3月22日に棄却された。しかし、この控訴期間は、章寛が事件と向き合うために重要な時間となった。弁護側は、臨床心理士による情状鑑定を実施し、章寛が犯行に至った動機の解明を行った。

■恐怖感と絶望感から視野狭窄に陥ったゆえの犯行だった

私は、これまでもいくつかの殺人事件の裁判において、鑑定人と弁護人とをつなぎ、その鑑定書に目を通してきた。鑑定結果から、自分では気が付いていなかった特性や心理状態を自覚していく過程は、自分の問題に気が付き、同じ過ちを繰り返さないために不可欠な作業である。本件でも、鑑定の過程において、弁護人や親族だけでなく心理の専門家とのコミュニケーションから、あまり得意ではなかった感情の言語化ができるようになり、償いに対する積極的な姿勢も見えてくるようになった。

鑑定意見書は、「本件犯行動機は、利欲的な犯行ではなく、義母からの暴力から逃れたい一心で、恐怖感と絶望感から視野狭窄(きょうさく)・意識狭窄に陥ったゆえの犯行」だと主張した。章寛は、犯行動機について、義母の存在から解放されたかったのであり、妻子と3人で暮らしたかったと何度も述べている。

■なぜ妻子を道連れにしなければならなかったのか

ではなぜ、妻子まで道連れにしなければならなかったのか。特に、生後5カ月の長男から殺害に至っている点が「残忍」という印象を与え、極刑に大きく影響していると思われる。宮崎地方裁判所の判決では、長男の首を絞めた後、浴槽に放置し、土中に埋めた行為について「我が子への愛情は感じられず無慈悲で悪質」と糾弾されている。

阿部恭子『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)
阿部恭子『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)

しかし、判決が示す「我が子への愛情」とは、愛を育む環境でこそ芽生えるものである。暴言や暴力に支配された家庭で、章寛が雄登を「我が子」と感じられる瞬間はどれほどあったのか。無抵抗な子どもに手をかけた事実は許しがたい行為ではあるが、父親という実感はなかったのではないだろうか。

真美について、章寛は鑑定人に「信子から殴られている自分を、タバコを吸いながらニヤニヤしてみていた」と、自分を庇ってくれなかった怒りと絶望を語っている。家庭の中で孤立させられ理性を失っていた章寛の頭の中では、3対1の構図ができあがっており、元凶である信子と妻子を切り離すことはできなくなっていたのだろう。

弁護側は上告し、上告審では、極刑を望んでいた被害者遺族のひとりの処罰感情に変化が生じている旨の上申書が提出され、死刑回避に微かな光が差したように見えた。しかし、すべては遅すぎた。2014年10月16日、上告は棄却され、奥本章寛の死刑判決が確定した。

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阿部 恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長
東北大学大学院法学研究科博士課程前期修了(法学修士)。2008年大学院在籍中に、社会的差別と自殺の調査・研究を目的とした任意団体World Open Heartを設立。宮城県仙台市を拠点として、全国で初めて犯罪加害者家族を対象とした各種相談業務や同行支援などの直接的支援と啓発活動を開始、全国の加害者家族からの相談に対応している。著書に『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)、『加害者家族を支援する』(岩波書店)、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)がある。がある。

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(NPO法人World Open Heart理事長 阿部 恭子)

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