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喉がつぶれたって構わない…あの日、松山千春が歌手人生を捨てる覚悟で叫び続けたこと

プレジデントオンライン / 2022年11月27日 15時15分

2003年10月18日、衆議院選挙出馬断念を表明した鈴木宗男前議員と一緒に会見する歌手の松山千春さん(北海道・釧路全日空ホテル) - 写真=時事通信フォト

人生の修羅場を乗り越えるにはどうすればいいのか。参議院議員の鈴木宗男氏は「人との縁が何よりも大切だ。政治家になって40年、幾度となく人生の危機に直面してきた。それでもここまでやってこれたのは、心の友、松山千春がいたからだ」という――。

■「あなたは私から離れてくださって結構です」

「チー」と呼んでいるシンガーソングライターの松山千春さんは、私の“心友”。つまり、生涯の心の友です。

人気稼業ですから、特定の政治家と親しくすることは、マイナスになりかねません。現に、空港や駅などでファンから声をかけられるとき、こんなことを言われるそうです。

「鈴木宗男なんかと、なぜ付き合うのか」「鈴木宗男と縁を切らないなら、ファンをやめます」

もちろん、その場しのぎで「わかりました。もう、あの人と付き合うのはやめますよ」と答えておけば、済んでしまう話です。

「だけど宗男さん、俺は言うんだ。『あなた、鈴木宗男の生き様、人間性を知ってるんですか。私はよく知っています。同じ故郷に生まれて、一緒に苦労しながら育ちましたから。私は鈴木宗男から離れません。あなたは私から離れてくださって結構です。私は私の努力で、新しいファンを開拓します』ってね」

千春さんは、そう話してくれました。

■2人とも叩き上げの人生だった

千春さんも私も、北海道の足寄町の出身です。日本有数の寒冷地で、私もマイナス35度を経験しています。私も貧乏だったし、千春も貧乏でした。小学校の高学年くらいから、牛乳や卵を売って学費の足しにしていました。

2人とも叩き上げの人生です。貧乏な境遇を乗り越えていくガッツが共通していて、経験が大きな財産になっています。

足寄高校では私の8年後輩で、千春さんのお姉さんが私の2年後輩でした。ちなみに足寄高校の卒業式では、「蛍の光」の代わりに千春さんの名曲「大空と大地の中で」が式歌です。

ありがたいことに、2人とも町の発展に貢献したと認められて、表彰されています。特に千春さんはデビュー40年の年、名誉町民に推挙されました。北海道で成功した芸能人には東京へ移る人が多い中、千春さんは足寄から離れません。税金も足寄に納めていますから、偉いものです。

お父さんの明さんは、「とかち新聞」というローカル紙をたった一人で発行していました。町長批判も辞さない、田舎には珍しい反骨の新聞です。ピシッと筋を通す性格は、お父さん譲りに違いありません。

明さんは、中川一郎先生の秘書をしていた私の働きぶりを見て、「いつ、選挙に出るのか。早く国会議員になれ」と、思想信条を超えて励ましてくれたものです。

■初出馬はマイナス20度の真冬だった

私にとって初めての衆議院選挙は、昭和58年12月。マイナス20度の真冬の選挙でした。自民党から公認をもらえず、無所属での出馬です。北海道5区は、定数5に対して9人の候補者がいました。マスコミの当落予想だと、鈴木宗男は6番目か7番目。×印です。

応援が少ない中、進んで駆けつけて、千春さんは遊説のマイクを握り、しかも朝8時から夜8時まで一緒に遊説してくれました。

こんな即興スピーチをしてくれたのを、よく覚えています。

「スズキの『ス』は、すぐ働きます。『ズ』は、ずっと働きます。『キ』は、きっとお役に立ちます。ム・ネ・オは、『ム』りな『ネ』がいも『オ』まかせ下さい。スズキムネオです」

選挙運動最終日の朝、千春さんが選挙カーに乗るウグイス嬢たちに向かって、

「歌手は喉が命だけど、俺はもう喉が潰れて、使えなくなってもいい。今日はそこまでの覚悟で行くから、みんなも頼む」

と挨拶したら、誰もが涙を流したものです。

■集会には人口の半数近くが集まった

隣町の陸別から集会をスタートすると、人口約4000人の町なのに300人も集まってくれました。次は地元の足寄で、当時は約1万人ほどの人口でしたけど、3000人くらい集まってくれました。千春さんが思わず、「足寄にこんなに人がいたか」と言ったほどです。地元から国会議員を出そうという気持ちが強かったから、共産党の町会議員まで来てくれて、「宗男がんばれ!」と叫んでいました。

なんとか4位当選が決まって千春さんに電話をすると、「よかった、よかった」と喜んでくれて、千春さんも私も大泣きでね……。そして、こう言われました。

「宗男さん、政治家は声なき声に寄り添わないといけませんよ」

以来40年、その言葉を忘れたことはありません。

選挙のあと、音更の診療所に入院していたお父さん、明さんのお見舞いに行きました。認知症の兆候が出ていた明さんは、私の顔を見ると尋ねました。

「鈴木君、いつ選挙に出るんだ? 応援するぞ」
「父さん、宗男さんは、もう国会議員になったんだよ。今日はその報告に来たんだ」

横から千春さんが説明しても、

「いつ選挙に出るんだ?」

と繰り返します。

私は、明さんの手を握って言いました。

「近いうちに必ず出ます。そのときはぜひ応援して下さい」

となりにいた千春さんの目に、涙が浮かぶのが見えました。

■有罪判決を受け収監されたときにも来てくれた

人間というものは、上り調子のときは寄って来て、下り坂になれば離れていくのが普通です。

しかし千春さんは、私が日本中からバッシングを受けていたときも、決して見限りませんでした。鈴木宗男事件で有罪判決を受けたあと、収監されていた栃木県の喜連川社会復帰促進センターへ面会に来て、身体を気遣ってくれました。12回を数えた選挙のたび、最初のときと同じように骨身を惜しまず支援してくれました。

私が平成17年に新しい政党を立ち上げるとき、「新党大地」と命名してくれたのも、シンボルカラーを緑と決めてくれたのも、千春さんです。私のネクタイの色は、それ以来ずっと緑。

『月刊さっぽろ』昭和57年2月号の「ふるさと対談」に出たとき、千春さんはデビューして5年でしたが、『季節の中で』が大ヒットして人気絶頂。私はまだ中川先生の秘書でした。その記事に、こんなやり取りがあります。

向って右、松山千春さん(歌手)、左、鈴木宗男さん(中川一郎科技庁長官秘書官)――川甚にて
『財界さっぽろ』昭和57年2月号掲載
向って右、松山千春さん(歌手)、左、鈴木宗男さん(中川一郎科技庁長官秘書官)――川甚にて - 『財界さっぽろ』昭和57年2月号掲載

鈴木 聞くところによると、政治家を志すと言われているね。
松山 それは、子どもの頃からの夢です。いつかは、政治家になって日本の国を動かしてみたい。それは、男のロマンの部分ですね。〉

千春さんは自身の夢を、私に託してくれたのかもしれませんね。

■財界人や有力政治家に世話人を頼むのが普通だが…

この10月に札幌で、「鈴木宗男・鈴木貴子 北海道セミナー」を開催しました。政治家は、地元の財界人や有力政治家に発起人や世話人を頼むのが普通です。しかし私はずっと、千春さんに代表世話人をお願いすると決めています。

挨拶に立った千春さんは、

「姉貴が舌癌で辛かったとき、宗男さんはいつも心にかけてくれた。いつどんなときでも、人の心を忘れないのが宗男さんだ」

と24年前の思い出を、涙ながらに語ってくれました。

コンサートでも、しばしば私の話をしてくれます。

「人間、一生のうちにどれだけ人を愛し、人を信じることができたか。俺は宗男さんから人を信じることを教えられた。俺は相変わらず鈴木宗男を信じているし、これからもずっと支えていく」

ありがたいことです。人との出会いや縁は、人生を変えます。私はいい友に巡り会ったと、心から感謝しています。

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鈴木 宗男(すずき・むねお)
参議院議員/新党大地代表
1948年、北海道足寄町生まれ。拓殖大学政経学部卒業。1983年、衆議院議員に初当選(以後8選)。北海道・沖縄開発庁長官、内閣官房副長官、衆議院外務委員長などを歴任。2002年、斡旋収賄などの疑惑で逮捕。起訴事実を全面的に否認し、衆議院議員としては戦後最長の437日間にわたり勾留される。2003年に保釈。2005年の衆議院選挙で新党大地を旗揚げし、国政に復帰。2010年、最高裁が上告を棄却し、収監。2019年の参議院選挙で9年ぶりに国政に復帰。北方領土問題の解決をライフワークとしており、プーチン大統領が就任後、最初に会った外国の政治家である。

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(参議院議員/新党大地代表 鈴木 宗男 構成=石井謙一郎)

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