憧れのCAになりきって食べる…経営危機が生み出した「ANA機内食ごっこセット」というヒット商品
プレジデントオンライン / 2022年11月29日 8時15分
■「2人前1万円」国際線ビジネスクラスの機内食が大人気
「3年前から研究して作り上げた、自慢のハンバーグをそのままお届けします」
ANAケータリングサービス(ANAC、東京・大田)の川崎工場。羽田空港から多摩川を挟んで対岸にあるここは、羽田を出発するANAの国際線などの機内食の製造を担っている。
2021年11月、この工場に集まった記者たちにANACの総料理長である清水誠が紹介したのは、ネット上で販売を始める国際線ビジネスクラスの機内食だった。
メインディッシュは「国産牛100%で、そこに雌しか持っていない脂を加え、クリーミーに仕上げた」と清水が胸を張るハンバーグ。商品は冷凍の状態で届ける。試食すると、肉は粗びきでしっかりとした食べ応えがあり、ソースに負けずに肉のうまみを感じられた。付け合わせの野菜も冷凍とは思えない味わいだ。
セットにはハンバーグのほか、3種類のパン、そしてフランボワーズのムースが付く。
パンは香ばしく、ムースは単体で販売しても好評を博しそうなクオリティーだった。価格は2人前で1万円。安いとは言えないが、当初用意していた数量は発売日に完売した。
なりふり構わぬ増収策の一つに見えるこの機内食販売。清水すら「予想外だった」と話す人気ぶりの裏には、ANACの多角化を託されて入社した「外様」の奮闘があった。
■「特別感を損なう」機内食の外販に消極的だったANA
「『ANAの機内食』というブランドをこれまで生かせていなかった」。
20年冬、こう話していたのはANAC外販事業部企画営業課課長(現・外販事業部長)の中村昌広だ。
売り上げの大半をANAの機内食の製造で稼ぐANAC。食品メーカーから転職してきた中村に与えられたミッションは、食品の外販事業を本格的に立ち上げ、ANACの収益源を多様化させることだった。コロナ禍前の19年11月には外販のブランドも立ち上げていた。
とはいえ、機内食を仕入れる側のANAは当初、ANACの外販事業に全面的な賛同はできなかった。ANAブランドで食品事業を大きく展開するのなら、機内食の「特別感」を失うような商品になってしまっては困る。その上、外販事業で衛生面の問題などが発生すればANAブランドにも傷が付くし、仮に機内食と同じ製造ラインで問題が起きれば本業にも影響が出る。そんな恐れがあった。
ANAのサービス面を統括するCX推進室の商品企画部サービス推進チームでリーダーを務める西仲基起は「『機内食の特別感を守らなければならない』という固定観念があった」と話す。ANACは機内食自体の販売になかなか踏み出せなかった。
■コロナ禍で大量の発注済の食材が余った
そんな中、20年に入るとコロナ禍が本格化する。
20年1月の中国・武漢便を皮切りに2月には中韓路線、3月にはアジア・欧米路線へと運休が拡大。4月以降は旅客数が前年比数%という状態が続いた。
通常時、日本発の国際線エコノミークラスの延べ乗客数は月30万人ほど。機内食はおおむね3カ月に一度、一部は毎月内容を変えている。この想定の下、実際に提供を始める1年前からメニューを開発し始め、4カ月ほど前に確定。取引業者などへの発注を始める。
コロナ禍で発注済みの大量の食材が余る事態になった。
空港ラウンジで提供したり、社員向けの夜食として使ったりするものの、到底消費しきれない。そこで出たアイデアが、グループ内サイトで社員向けに機内食を販売することだった。さっそく始めてみると、親族に送るために大量に購入する社員が現れた。
機内食は客室乗務員がわずかな作業で提供できるよう1個の容器に様々な料理を詰めながら、おいしさも保てるように工夫している。機上での保管スペース削減のために小さなパッケージにぎっしり詰めており、家庭用の冷凍庫でも保存しやすい。共働きの社員からの評判も高い。外部への販売はビジネスになるかもしれない──。
わずかな光が見えた。
■ECサイトで1年に125万食を売り上げる
20年夏ごろにはANACを含むグループ各社は「外貨」、すなわちグループ外からの収入を得られる事業の立ち上げを指示された。ANACの取引先の経営体力を維持するため、機内食を一定程度作り続ける必要もある。外販に向けた準備が一気に進み始めた。
ANACにとって大規模な外販は初の経験になる。グループ社員向けの販売を試験の場と考えて、何個単位で販売すればよいのか、どうすれば衛生面を担保しながら配送できるのか、といった課題を潰していった。
こうして20年12月、ANACはグループの全日空商事が運営するECサイトや「楽天市場」上で、国際線エコノミークラスで提供される食事のメインディッシュの発売にこぎ着けた。価格は12食入りで9000円(税・送料込み)。「牛肉の香ばしい香りがたまらない」「テレワーク中のランチにちょうどよさそう」。SNS上にはこんな声があふれ、一部は発売後すぐに売り切れる人気になった。発売から1年間で125万食を売り上げ、ビジネスクラスの機内食の販売につなげた。
■事業多角化に「ANAブランド」を活用
機内食の人気を受け、ANAC内では様々なアイデアが出始めた。
21年には「ANA機内食ごっこセット」の販売を開始。機内食の販売を始めたとき、SNS上では機内での提供スタイルをまねて撮った写真の投稿が相次いだのだ。そこで、エコノミークラスの食事に、機内で提供する際に使う食器などを組み合わせたセットを発売した(現在は売り切れで購入できない)。
![食器を組み合わせた「ANA機内食ごっこセット」](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/d/1200wm/img_8d92c2d7a5d17e3a907de3de7dc4b755366120.jpg)
20年のクリスマスの時期には、従来、取引先などへの贈答品として製造してきたドイツの菓子パン「シュトーレン」を羽田空港の売店で販売した。「ラウンジで試食をしてもらい、ラウンジから搭乗口への動線上にある売店で販売するなど工夫のしがいがあった」と中村は話す。ANA向け機内食の製造に追われていたコロナ禍前には考えもしないことだった。
食品と並行して、ビジネス・ファーストクラスの機内食提供時に使用する食器などの販売も始めている。ANAは20年3月の羽田空港の発着枠拡大に合わせて国際線の事業規模を大幅に広げる計画だったため、食器類もその分多く発注していた。国際線の正常化が遅れる中、在庫として抱えておくコストを軽減しようと決断した。
エコノミークラスの機内食が100万食売れても、売り上げは10億円にも満たない。19年度に300億円弱だったANACの売上高からすればまだまだ小さい。ANAHD全体で考えればなおさらであり、事業拡大への努力は不可欠だ。ただ、航空一本足の事業構造からの脱却を目指すANAHDにとって、航空事業のブランド力やサービス力を生かした商品が競争力を持つというヒントになった。
■22年4月、黒字化の道筋をつけて経営体制を刷新
22年4月1日、ANAHDは経営体制を刷新した。
7年間にわたって社長を務めた片野坂真哉は会長となり、代表取締役専務執行役員だった芝田浩二が後任の社長に就いた。中核事業会社のANAの社長を5年間務めた平子裕志はANAHD副会長に転じ、ANAの代表取締役専務執行役員や非航空事業の中核に位置付けられるANA Xの社長を務めた井上慎一がANA社長に就任した。
![2022年2月、ANAHDは経営体制の刷新を発表した。左が社長に就任した芝田浩二氏、右が会長に就任した片野坂真哉氏](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/8/1200wm/img_d89d6aa02234b3fc033c8d84ba2b92d9464467.jpg)
「最強の布陣をつくったということだ」。一連の人事を発表した2月10日、片野坂は報道陣にこう胸を張った。
これまでANAHDやANAの社長は4年での交代が慣例だった。ただ「4年は短い」との議論が人事諮問委員会などで巻き起こり、片野坂は5年目も続投した。念頭にあったのは20年3月の羽田空港国際線発着枠の拡大、そして20年夏に開催予定だった東京五輪・パラリンピックだ。国も20年に訪日外国人を4000万人まで増やす目標を掲げる中、ANAHDは国際線を中心とした拡大戦略にまい進してきた。節目を見届けて21年春に社長を交代するのが既定路線だった。平子も21年春を社長交代時期として見据えていた。
そんな中でコロナ禍がやってきた。好調な約10年間から一転、激震に見舞われたANAHDは立て直しに向けた事業構造改革を最優先しなければならなかった。経営陣の刷新時期は後ろにずれた。それでも、21年10~12月期に営業損益ベースで黒字転換したように、「ウィズコロナ」「アフターコロナ」に向けた反転攻勢への道筋は一定程度ついた。「コロナ禍は終わっていないが、23年3月期の黒字化は十分果たせる。走りながらバトンを渡せるタイミングだった」(片野坂)
■社員に10万円の特別給支給と賃金カット終了を検討
22年4月末、芝田がANAHD社長として初めて臨んだ決算会見。芝田は22年3月期通期が1436億円の最終赤字だったと発表した。
21年10月の時点で22年3月期の最終損益見通しを1000億円の赤字としていたが、その赤字幅が拡大する形で、ANAHDが絶対に避けなければならないと考えてきた2期連続の赤字が確定した。
それでも、ANAHDは何とか「自力」で肉体改造を進めた。外部への出向を推進したり、余分にかかる費用を少しでも削減しようと工夫したり……。社員の惜しみない協力が危機を乗り越える原動力となった。先立つ1月には、社員の奮闘に報いるため、社員に10万円の特別金を支給するほか、賃金カットの終了を検討し始めていた。
■「夜明けは近い」
コロナ禍の発生から22年3月末の社長退任まで、片野坂は計15回にわたって社員にメッセージを発信し続けた。
当初は、底がうかがい知れない危機を前に立ちすくむ従業員たちに可能性としての展望を示しつつ、その裏で、大幅なコスト削減や資金調達に動いた。楽観と悲観を同居させる、経営という営為の難しさを感じながら、片野坂をはじめとする経営陣はもがき続けた。
「行動を変えることによって会社が変わる。会社が変わることによって業績が良くなれば、社員にとってのモチベーションにつながる」。そんな考えで平子も月1回、社員にメッセージを発信し続けた。「寄り添うだけではだめ。行動を変えてもらわないといけなかった」とその発信の難しさを振り返る。
コロナ禍が想像以上に長期化の様相を呈し始めた21年度には、片野坂は社員をとにかく励ますことを意識したという。例えば22年の初頭に出したメッセージでは「夜明けは近い」という言葉を使い、その次の発信でも同様の表現を使った。
「いつ明ける、とは言っていないから。ウソではないでしょう」。片野坂はこう冗談交じりに振り返るが、ある種、社員の「緩み」にもつながりかねない希望を持たせる言葉をかけてきた。その背景には、コスト削減の進捗が著しく、進むべき方向性は間違っていないとの確信があったのだろう。
![高尾泰朗『ANA苦闘の1000日』(日経BP)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/7/1200wm/img_67132e95381573ae38aa04d145108093200640.jpg)
片野坂たち旧経営陣が尽力した「生き残るための肉体改造」。そこに区切りがついた今、芝田たち新経営陣に求められるのは「成長するための肉体改造」だ。
これまで何度も指摘されてきた「航空一本足」。航空事業が中核なのは今後も変わらないが、旅客を運ぶ事業の規模がコロナ禍前の水準に戻るまでにはまだまだ時間がかかる。
ANAブランドの航空便だけでなく、ありとあらゆる手段で事業を成長させるにはどうしたらいいか。次のフェーズに入ったANAHDの改革を見ていきたい。
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日経ビジネス記者
1992年佐賀県生まれ。2015年に日本経済新聞社に入社し、「日経電子版」向けのコンテンツ制作を担った後、16年に企業報道部へ。消費・流通の現場を取材したほか、建設業界や教育・福祉業界などの担当記者を務めた。20年から日経ビジネス記者。航空や運輸、マクロ経済などを担当している。
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(日経ビジネス記者 高尾 泰朗)
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