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地方へのバラマキを漫然と続けてもムダになるだけ…いますぐ「第二の廃藩置県」を議論すべき理由

プレジデントオンライン / 2022年12月2日 10時15分

明治4年12月の地方行政区画〈吉田東伍 他『大日本読史地図』(冨山房)より〉(図版=PD-Japan/Wikimedia Commons)

日本の地方自治はこのままでいいのだろうか。評論家の八幡和郎さんは「東京一極集中にはさまざまな弊害がある。一方、現在の地方振興策は、経済合理性を失った限界集落・自治体の一時的延命に浪費されている。いまこそ思い切って、道州制と300基礎自治体に再編すべきだ」という――。

■地方公務員は安定しすぎて空気がよどんでいる

日本の地方自治制度は、明治4年(1871年)の廃藩置県と明治22年(1889年)の市町村制度の設置により、封建時代の枠組みをまったく新しく作り直して成立したものだ。しかし、いまや老朽化してしまっており、建築で言えば、修繕でなく新築すべき状態になっている。

人事交流や中途採用も少なく安定しすぎて空気がよどんだ地方公務員の意識活性化のためにも、いちど、今の組織がなくなった方が好都合だろう。

平成の前半には、首都機能移転についての議員立法が成立したし、自民党が都道府県を合併する道州制を、民主党系は市町村を撤廃する300基礎自治体論を提言していた。

ところが、東京一極集中はますます進行しているのに、抜本的な改革は腰砕けになったままだ。かろうじて、約3000あった市町村が「平成の大合併」で約2000に減っただけだ。「大阪都」とか「大阪副都」は、首都移転や道州制が進まないので、応急手当として提唱されたはずだが、それすら住民投票で頓挫して実現できなかった。

■「廃県置州・廃市町村置藩」という提案

東京一極集中排除が進まない理由は、拙著『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)で時間的経緯を軸に詳しく分析したのだが、今回はそのうち、「道州制」と「300基礎自治体(仮に藩と呼んでおこう)」について論じる。いわば、「廃県置州・廃市町村置藩」だ。

私は、道州制か300基礎自体市町村かのどちらかではなく、国の権限を移管する道州と、都道府県と市町村を再編した基礎自治体と両方同時に実現すべきだと提案してきた。それはなぜかを説明する前に、まずは、現行制度に至る歴史を簡単に振り返ろう。

1871年7月の廃藩置県で江戸幕府以来の「藩」が廃止されて3府302県となり、大名に代わって中央から送り込まれた知事(県令・権令)が任命された。11月には第1次府県統合が行われて3府72県となり、微修正を経て、1888年に47道府県となった。その後は、微修正のみである。

■「昭和の大合併」で市町村は5分の1に

一方、1888年に市町村制が公布され、翌年に施行された(遅れた道府県もある)。この「明治の大合併」で小学校の学区にあたる人口3000人ほどを最小単位として、数個ずつの村が合併して、全国で1万5859市町村が成立した。

その後、郊外の合併が徐々に行われ、京都市の場合だと大正時代に市電が走っていた範囲が、昭和初年に伏見とか嵯峨野まで合併された。東京でも関東大震災の頃は、新宿駅や渋谷駅のあたりは東京市外で昭和になっての編入だ。

昭和22年(1947年)地方自治法施行時の市町村数は1万505だったが、新制中学を設置する必要もあり、昭和30年台の「昭和の大合併」でだいたい3300に絞られた。その後は大きな変化は起きなかった。市町村長や議員が農村部に多くいることが、保守勢力を磐石にすることに加え、共産党が典型だが地方議員からの上納金も大事な収入源にし、野党も議員数を減らしたくなかったからだ。

■どんな市町村でも予算とインフラが「完備」

予算や公共施設が市町村には必ず一つ配分・設置などされて、人口比例より手厚い施策がばらまかれた、竹下登内閣の「ふるさと創生一億円」などその典型だ。だが、平成になって、財政特例措置(公共事業など優遇)を餌に少し合併が進み、現段階で1718市町村となっているが無駄が多すぎる。

ヨーロッパの小自治体では複数の自治体の助役を一人が兼任しているとか、役場の窓口が開くのも週に一日だけとか、事業は複数の自治体の協同組合で行っているのとは大違いだ。

東日本大震災・福島第一原発事故の復旧でも、元の市町村を復活させる合理性はなかったし、南海トラフ地震対策も、市町村全体が危険地域である場合、市町村の人口を維持することに拘って対策を講じることは住民の命を危険にさらしかねない。

会議や叙勲における市町村の首長や議員の扱いが、自治体の規模にかかわらずあまり変わらなかったりすることも、合併をしないことへのご褒美になってしまっている。

■限界集落に公金が浪費されている実態

人口の50%以上が65歳以上の集落や自治体を「限界集落」「限界自治体」とかいうのは過疎化・高齢化の進行により農作業や生活道路の管理、冠婚葬祭など、集落としての共同体の機能を維持することが“限界”に近付きつつあるという意味らしい。

自家用車がない時代には、工場に勤務する工員さんも社宅に住んでいたし、農山村や漁村では職住近接が必要だった。しかし、いまや生活に便利な単位で集落を形成し、仕事場には車で通った方が合理的だ。最近、山形県上山市の田園地帯(最寄り駅から徒歩25分)にある41階建てのタワマンが話題になったが、雪かき不要で人気なのだそうだ。

八郎潟を干拓してできた秋田県大潟村は、人口3000人ほどが住んでおり、役場、学校、病院、福祉施設、商店、倉庫、作業場などの機能がまとまっている。村の中心からもっとも遠い地点まで10キロ程度だが、これこそ合理的だ。優れた風景や祭りなどは、例外的に文化政策として保護すればいい。

未来志向で考えれば県全体とか生活圏単位の人口の維持に使うべき公金が、限界集落・自治体の過疎対策に浪費されていることは馬鹿げている。

■東京一極集中と無駄を解消する「最適解」

自民党が提言していた道州制とは、47都道府県より大きな単位の自治体を成立させて、国の権限の受け皿にしようという考え方だ。東京一極集中を緩和するダムとしての役割を果たさせ、また、都道府県ごとでしている仕事や施設の無駄も省こうという狙いに基づいている。既存の47都道府県は廃止するという人が多いが、存続させる案もある。

一方、旧民主党系が提案していた300基礎自治体は、現在2000近くある市町村を、人口15万~20万人くらいを最小単位とし、300くらいにまとめたらどうかという考え方である。小沢一郎氏らが推進した考え方で、300は江戸300藩にひっかけたイメージ戦略だ(実際には300藩のほとんどは人口1万~3万人だったので誤解を招く表現だが)。

旧民主党は、都道府県も廃止して、国と基礎自治体だけにするということだったが、それではかえって、中央政府の力が強くなると訝しく思う人が多かったし、私は、道州制も基礎自治体も両方すればいいという考え方だ。

■霞が関官僚の半数は地方へ移す

提案のポイントは、以下の3つだ。

(1)現在の都道府県と市町村をいずれも廃止して、約300~400の基礎自治体を創設し、都道府県と市町村の職員は、原則としてどこかの基礎自治体に再雇用する。

(2)全国に8~11の道州を置き、その権限と職員は各省庁出先のものと、霞が関から移管されたものを基礎とする。霞が関で働く職員のうち半数は道州に片道切符で移すほか、現在の都道府県の権限で広域的運用が好ましいものをある程度は吸収させ、基礎自治体から一部職員を出向させる。

(3)都道府県単位で、基礎自治体の連合体を残し、現在の県単位で行われている諸活動を取捨選択して継承する。ただし、首長は基礎自治体の持ち回りで、議会にあたる評議会は基礎自治体議会から派遣、職員は出向のみとして激変緩和措置とする。

■県庁所在地への一極集中も排除できる

この提案の狙いは、職員の雇用を地方分散に向かわせることにある。たとえば、山形県庁の職員は米沢や庄内には移すが、道州庁がある仙台には移さない。一方、仙台へは東京から職員を移すのである。

霞が関から道州庁への移籍を求められた職員のうちある程度は退職するだろうから、その分は民間からも中途採用すれば優秀な人材が集まる。幹部候補生の新規採用は当面、道州庁が国家公務員総合職(キャリア)試験合格者から独自ですればいい(同じ試験の合格者から採用した方が国と対等の関係をつくれる)。

霞が関の仕事のうち、たとえば、公共事業など現業に関わるものは職員をすべて道州に移して、政策運営を道州の協議で行うようにする。ドイツでは多くの仕事がそのようにして、中央銀行の理事運営すら各州の代表者が過半数を占めている。

道州の区分けは、現在の衆議院選挙の11比例区(北海道・東北・北関東・東京・南関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州)を基本とする。四国と北海道は人口が少なすぎるので、中国・四国、東北・北海道で連合体を組んで、一部を共同化するのも一案だし、リニア新幹線開通を前提にしたら、山梨と長野県南部は東海に移管するのがいいかもしれない。

衆議院選挙の11比例区(総務省資料より)
衆議院選挙の11比例区(総務省資料より)

■連邦型国家の首都は小都市にある

基礎自治体は、衆議院小選挙区の半分くらいを最小単位とするのが現実的だろう。人口100万人で定数3の県だったら、1区は県庁所在地のことが多いので単独、残りのふたつの選挙区を二分割して合計5基礎自治体になる。そして、その合計はだいたい400になる。

この区分は、関係市町村、都道府県の意見も聞くが、最終的には国会が決めるべきだ。現在の市町村合併のように地元の合意で決めると、弱い立場の自治体にとって損な区分けになることが多くなってしまうからだ。

ただし、このような地方分権型の国家にすると、むしろ、東京の独り勝ちになる恐れもある。東京が決めたことを地方は受け入れるしかなくなることが多くなるからだ。

富士山を背景にした東京の都市風景
写真=iStock.com/Eloi_Omella
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eloi_Omella

そもそも連邦型の国家にするなら、首都は中立的な場所の小都市に置かないと論理矛盾なのである。ワシントンもそうだし、EUでも事務局はベルギーのブリュッセル、議会はフランスのストラスブールだ。

その意味で、本当の問題解決には首都機能移転が不可欠だ。なお、首都移転についての議論の経緯と世界の動きについては、拙著『世界史が面白くなる首都誕生の謎』(知恵の森文庫)で詳しく論じている。

■人口の地方分散は少子化対策にもなる

東京一極集中の詳しいメカニズムは、別の機会に論じたいが、私が最近、もっとも心配しているのは少子化への影響だ。厚労省によると、東京の合計特殊出生率(女性が一生に生む子供の平均数)は全国平均の1.4に対して1.1。東京集中は少子化も加速させている。

一方、西日本の人口減は、中国などを念頭に置いた安全保障上も危険だ。無人島も心配だが、沖縄や過疎地など、海外からわずかの移民が来たら日本人が多数派の土地でなくなってしまう。また、特殊出生率の上位10位はいずれも福井以西。人口の地方分散は少子化にも安全保障にも最良の方策だ。

ところが、現実の地方振興策は、経済合理性を失った限界市町村の一時的延命に浪費されている。いまこそ、「廃県置州・廃市町村置藩」で、守りから攻めの地方振興に転じるべき時だ。

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八幡 和郎(やわた・かずお)
徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)』、『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』、『令和太閤記 寧々の戦国日記(八幡衣代と共著)』(いずれもワニブックス)など。

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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)

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