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「一昔前の文章が読めない」だけではない…言葉のレパートリーが少ない"ボキャ貧"が知らずに損していること

プレジデントオンライン / 2022年12月21日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

言葉のレパートリーの少ない「ボキャ貧」のデメリットとは何か。評論家の宮崎哲弥さんは「ボキャ貧はわずか60年前の新聞記事や文章を読めないだけでなく、世界が貧相に見える。『ボキャ富』になれば他人の認識や感覚の細やかさが手に取ってわかるようになる」という――。

※本稿は、宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

凡 例
本稿で辞書的定義を書き出す際は、文頭に●を置いた場合には章や節のテーマに沿った見出し語の意味を掲げ、◎を置いた場合には、章や節の主題とは直接関係なく、文中に現れた重要語句の意味を掲示する。またそのように、辞書的語釈等を特記する見出し語に関しては、直前または直後にその語句を〈 〉で括り、〈諸賢〉の注意を促す。

●しょけん【諸賢】多数の人に対して敬意を込めて呼ぶ語。代名詞的にも用いる。皆さん。「読者諸賢のご〈健勝〉を祈ります」

◎けんしょう【健勝】健康で元気なこと。また、そのさま。すぐれてすこやかなこと。

という具合である。

本稿では、インターネット上の公共図書館、青空文庫に公開されてある著作権切れの作品から例文を引いている。この引文(=引用文)については、とくに《 》で囲った。読者の〈便宜〉に〈鑑み〉、青空文庫掲出の原文が旧仮名遣(歴史的仮名遣)のものは新仮名遣(現代仮名遣)に改め、漢字の旧字体は新字体に直し、かつ〈適宜〉ルビを付加した。

また語釈、例文等の補足説明には、その先頭に※を置いた。

■日本人に「忖度」という単語を広めた森友学園問題

〈忖度〉という熟語の運命も奇妙な成行きを辿った。2017年に持ち上がった、いわゆる「森友学園問題」にまつわって、新聞の政治面やニュース番組などでこの言葉が盛んに取沙汰されるようになるまでは、一般にはこの語の意味はおろか、読み方すら碌に知られていなかったのだ。私は時折、使っていたが。

●そんたく【忖度】他人の心中を推し量ること。「他人の心の〈機微〉などあまり忖度できないし、自分の経験にも重きを置かない」

◎きび【機微】表からはなかなか察することのできない人心の微妙な動き、表面にははっきりとはあらわれない物事のゆらぎ、移り変わり。「人情の機微に触れる」「男女の機微に通じている」「機微を〈穿つ〉」

◎うがつ【穿つ】(本来は「穴をあける」「突き通す」こと)物事の本質や人情の機微を的確に捉え、表すこと。表に出ない事情などを明らかにすること。「穿った見方」「微に入り細を穿つ(=非常に細かい点まで気を配る)」「真相を穿つ」

※作例にある「穿った見方」の意味は、「穿つ」の語義を踏まえれば当然に「物事の本質、あるいは隠れた真相を捉えた見方」となる。ところが世の〈大宗〉が、「穿った見方」を「深読みし過ぎで、的を外した見方」と解しているという。しかし、これを正しくいうなら「穿ち過ぎの見方」のはずだ。「穿ち過ぎ」とは「物事の本質を捉えようとして度が過ぎ、かえって事実から離れてしまう」こと。この「穿ち過ぎの見方」を「穿った見方」と取り違えてしまったことが誤用の原因だろう。

◎たいそう【大宗】大部分。おおかた。大多数。大半。「大宗を占める」「大宗をなす」

※本義は「芸術などの分野の大家」を指す。「大部分、大半」という語釈を載せていない辞書も多い。この意味での「大宗」が多用されるのは主に官界においてであり、一種の「霞が関用語」であるともいわれる。確かに省庁のウェブサイトをみると「石油について、エネルギー資源の大宗を輸入に頼っている我が国としては……」(外務省)などとあるし、元内閣情報官(北村滋)も新聞のインタヴューに答えて「今後は行政法の大宗をなす事業法などに盛り込むことも検討に値する」と発言している(「政界Zoom/経済安保、公正な競争促進 企業は長期的視点を」日本経済新聞2021年10月15日付け夕刊)。だが、元官僚の政治家はいうに及ばず、官僚経験のない茂木敏充らもこの語を「大半」の意味で用いており、一般化しそうな気配もある。

熟語を構成する「忖」も「度」も、どちらの字も訓では「はかる(忖る、度る)」と読むが、とくに「忖る」は「おしはかる」とも訓読みする。人心を推す、の意味だ。「度」は通常、物理的に測定するという意味で用いられる。「度量衡」などがそうだ。「忖」という文字にいたっては、「忖度」以外にこの字の入っている熟語を知らない。

■永田町や霞が関では「愛用」されていた言葉だった

私が愛用していた頃は、読者から「これは『フド』と読むのですか」などとよく訊かれたものだ。「付」や「符」など「フ」と音読みする文字と構成部分(「寸」)が同じなのでこう誤読されがちだったが、永田町や霞が関では、〈専ら〉「立場が下の人(例えば官僚)が立場の上の人(例えば閣僚や大物議員)の意向や都合を予め汲み取り、それに沿うように行動する」の義で通用していた。この官僚の〈矜恃〉を傷つける「忖度」なる行為を、彼らは〈自嘲〉ぎみの〈口吻〉で語るのが常であった。

◎もっぱら【専ら】ひたすら。まったく。ただただ。その事ばかり。「夕食後は、もっぱらゲームをして遊ぶ」「その新興宗教は、専ら現世利益をうたっていた」「世間では、パンダの妊娠が専らの話題だ」

◎きょうじ【矜恃/矜持】自分の能力についての自信。プライド。自己の優秀さを誇ること。自負心。

◎じちょう【自嘲】自分自身を見下し、あざけって笑うこと。「所詮公務員で、宮仕えの身ですから……と俺は自嘲した」

◎こうふん【口吻】原意は口先、口元。転じて、くちぶり。言いぶり。ものの言いよう。「彼の口吻のなかにひそむ傲慢な響きを聞き取った」「口吻を漏らす(=心中が察せられるような言振りをする)」

《イプセン畏るるに足らずというような口吻を漏している》(岸田國士『近代劇論』)

この隠語的ともいえそうな語釈が、報道によって〈忽然〉と一般化したのだからたまらない。しかも政治家や官僚の振舞を、批判ないし揶揄する文脈において好んで用いられたため、これ以降、非常に使い辛くなってしまった。

◎こつぜん【忽然】変化が急なさま。にわかに出現したり消滅したりするさま。たちまち。「一つの街が忽然と消え失せたのである」「彼は忽然と姿を現した」

■語彙が乏しいと60年前の文章すらきちんと理解できない

念のため、青空文庫から「忖度」の文例を数点引いておく。

《文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが……》(二葉亭四迷『浮雲』)

《私は、彼の言葉をそのままに聞いているだけで彼の胸のうちをべつだん何も忖度してはいないのだ》(太宰治『ダス・ゲマイネ』)

《批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではない》(坂口安吾『戯作者文学論 平野謙へ・手紙に代えて』)

《君子の胸臆は小人の忖度する能わざる所、英雄の心事また凡人の測知し難き分ならずや》(津田左右吉『仏教史家に一言す』)

最後の津田左右吉の引文は「徳の高い人(=君子)の胸中(=〈胸臆〉)を、そこらの小人物(=小人)が推し量ることはできないが、英雄の深い思惑(=〈心事〉)もまた、凡人の察知(=測知)し難いところではないか」という意味だ。

面白い、使い勝手のよい言葉がみえるので抽出しておこう。

◎きょうおく【胸臆】心。胸中の思い。「胸臆を行う(=思うことを思うまま行う)」

◎しんじ【心事】心中に思う事。「心事を推す」「心事を察する」「心事に背く」「心事を疑う」「心事は測り難い」

こうした語彙をもし知らなければ、わずか60年ほど前に死没した思想史家の文章すらスラスラ読めないことになる。明治期、大正期の文学者、思想家、随想家の文章の多くは読解不能だろう。それどころか、例えば第二次世界大戦期の新聞記事ですら、つかえることなく読めるかどうか怪しい。

■「ボキャ富」のメリット

だが「ボキャ富」になる効用は、古い文章を滞りなく、円滑に読めるようになるに留まらない。

そもそも言葉とは何か。例えば名詞は、諸々の事物に与えられた単なる名前なのだろうか。諸々の事物とは、言語によって個別の名詞が割り振られる前に、それぞれ独立した(かにみえる)事象として存在していたのだろうか。

例えば「イス」は、「イス」という名を与えられる前には存在したか。もし「イス」と〈命ずる〉以前に「イス」が存在しなかったとしたら、われわれの眼前にある世界は、〈詮ずる〉ところ、言語の集まりに過ぎないとすらいえるのではないか。

昔ながらの木製の椅子
写真=iStock.com/Education
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Education

●めいずる【命ずる】(ここでは)名をつける。名づける。命名する。

●せんずる【詮ずる】つきつめて考える。筋道を追って熟考してみる。「詮ずる所、生は死に向かう過程である」

※「詮ずる所」は「所詮」の訓読語である。

言語哲学者の井筒俊彦は、このような言葉の捉え方(井筒はこれを「分節理論」と呼んでいる)を次のように噛み砕いて説いている。少し長くなるが引いておこう。

※「分節」とは聞き慣れない単語だろうと思うが、英語のアーティキュレーション“articulation”の訳語である。しかし、和英いずれの単語も辞書的定義によっては、ここでの意味、用法の理解には及ぶまい。現代思想における独特の使い方だからだ。それはこの直後に引用される井筒の文章で明らかになるが、予め意義を示しておくと「言語によって一連の事物事象に節目(切れ目)を入れ、分けて知ること」。分けて知られることで事物ははじめて個物として認識できるようになる。

もともと素朴実在論的性格をもつ常識的な考え方によると、先ずものがある、様々な事物事象が始めから区分けされて存在している、それをコトバが後から追いかけていく、ということになるのだが、分節理論はそれとは逆に、始めにはなんの区分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分けられた人間の意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そして、それらの区切りの一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めから自立自存していたものであるかのごとく、人間意識の向う側に客観性を帯びて現象する。たんにものばかりではなく、いろいろなものの複雑な多層的相互連関の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関構造によって根本的に規定される。(井筒『意味の深みへ』岩波文庫)

■言葉なしに世界は現象しない

一般に、まず世界があって言語はそれを分別するための装置、記号のようなものとされている。だが、事態はむしろ逆であって、そもそも言葉なしに世界は現象しない。私達が現実世界に向かい合うことはない。

宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)
宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)

もちろん目や耳や鼻や舌や、皮膚などの体性感覚器によって、まずは全体的な「存在」が感じ取られる。だが、それが何であるか、何でないかを分けて知るためには言語が必要だ。言葉によって名付けられることで、名付けられない巨大な塊のような原‒世界が分節され、事分けられ、諸々の個物から成る秩序立った現‒世界が展開するようになる。

喩えるならば、私達の生きている現実世界は天地四方をタイル貼りによってすっかり囲まれているようなものだ。タイルの一枚一枚が言葉に当たる。その一つ一つが小さくなり、数が増えれば、タイルが作り出す網目(認識格子)は精細化し、世界像の分解能が増す。事物の多様性が言葉の多様性をもたらすのではなく、言葉の多様性が事物の多様性をもたらすのだ。

もちろん異なる言語を話したり、書いたりしていても、その者達の世界像が根本から違っているわけではない。言語の違いによって思考(とくに論理的思考)に大差が生じることはない。

■語彙の豊富さは世界の豊かさを表す

これは、例えば『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(椋田直子訳 ハヤカワ文庫)の著者、ガイ・ドイッチャーも認めるところだ。彼は「言語が世界をさまざまな概念に切り分けられるやり方が、自然によってのみ決定されたのではない」が、同時に「それぞれの言語が気の向くままに、恣意的に切り分けられるものでないことはいうまでもない」とする。〈然るに〉「コミュニケーションを成立させるために学習することが可能で、筋道もたつという制約内ではあっても、ごく単純な概念であってさえ切り分けるやり方はさまざまあり、その多様さは常識が予想する範囲をはるかに超えている」という。

◎しかるに【然るに】ところが。そうであるのに。それにもかかわらず。それなのに。

このように考えるならば、「ボキャ富」になること、語彙をできるだけ増やすことの決定的な重要性は明らかとなる。どれだけ多くの言葉を使いこなせるかが、その人の認識や感覚の細やかさ、思考の分明さや複雑さ――総じて生きてある世界の豊かさを表すからだ。使っている語彙の質によって、その人が、どんな世界と向き合い、いかに世界を味わい、いかなる世界で思惟しているかを窺い知ることができるからだ。

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宮崎 哲弥(みやざき・てつや)
評論家
1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。テレビ、ラジオ、雑誌などで、政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』(NHK出版新書)、『仏教論争―「縁起」から本質を問う』(ちくま新書)、『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、佐々木閑氏との共著)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)など多数。

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(評論家 宮崎 哲弥)

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