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「寛恕、海容、汗顔、慚愧」あなたはこれが読めますか?…知的な謝罪をするために憶えておきたい「上級語彙」

プレジデントオンライン / 2022年12月27日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AH86

目上の人に謝罪をするときには、どんな言葉を選ぶべきなのか。評論家の宮崎哲弥さんは「上級語彙を使ったほうがいい」と説く。宮崎さんの著書『教養としての上級語彙』(新潮選書)より一部を紹介しよう――。

凡 例
本稿で辞書的定義を書き出す際は、文頭に●を置いた場合には章や節のテーマに沿った見出し語の意味を掲げ、◎を置いた場合には、章や節の主題とは直接関係なく、文中に現れた重要語句の意味を掲示する。またそのように、辞書的語釈等を特記する見出し語に関しては、直前または直後にその語句を〈 〉で括り、〈諸賢〉の注意を促す。

●しょけん【諸賢】多数の人に対して敬意を込めて呼ぶ語。代名詞的にも用いる。皆さん。「読者諸賢のご〈健勝〉を祈ります」

◎けんしょう【健勝】健康で元気なこと。また、そのさま。すぐれてすこやかなこと。

という具合である。

本稿では、インターネット上の公共図書館、青空文庫に公開されてある著作権切れの作品から例文を引いている。この引文(=引用文)については、とくに《 》で囲った。読者の〈便宜〉に〈鑑み〉、青空文庫掲出の原文が旧仮名遣(歴史的仮名遣)のものは新仮名遣(現代仮名遣)に改め、漢字の旧字体は新字体に直し、かつ〈適宜〉ルビを付加した。

また語釈、例文等の補足説明には、その先頭に※を置いた。

■勘弁してもらうために「寛恕を乞う」

偉い人や目上の人を怒らせてしまったとき、勘弁してもらうために、その人に〈寛恕〉を乞う。

●かんじょ【寛恕】心が広く、思いやりが深いこと。そういう広い度量で許すこと。「ご寛恕を乞う」「今回の失態、何卒、ご寛恕くださいますよう」

もう少し〈大仰〉な表現を使いたいならば、相手に「海のごとく」広く深い度量を期待する。

●かいよう【海容】(海のように広い)寛大な心をもって、人の罪や過誤を許すこと。「何卒、御海容下さい」

◎おおぎょう【大仰】大袈裟。誇大なこと。誇張していること。

さらに己の過ちや不品行について恥じ入ることを〈慚愧〉に堪えない、などという。

●ざんき【慚愧/慙愧】ただひたすら恥じること。恥じ入ること。「慙愧に堪えない」

《私は、その夜後悔と慚愧に悶えた》(小川未明『抜髪』)

《けれども、その慚愧の念さえ次第にうすらぎ、この温泉地へ来て、一週間目ぐらいには、もう私はまったくのんきな湯治客になり切っていた》(太宰治『断崖の錯覚』)

■「恬」を使った表現

逆に何ら恥じることなく、平然としている様を〈恬〉という語で表す。

●てん【恬】気にかけずやすらかなこと。平気なこと。「恬として恥じない」

この語は例文にもあるように〈恬として〉という成句で使われる。

●恬として 何とも思わずに。平気で。まったく気にかけないで。頓着しないで。

青空文庫等を調べると「恬として恥じない」という定番的な用法の他に、「恬として顧みない」「恬として迷信に耳を貸さない」「恬として心を振向けなかった」などという表現がみえる。どれも、気にしないで、意に介さないで、しれっとして、の意だ。同義で〈恬然〉という熟語もある。

●てんぜん【恬然】物事に拘らず、平然としているさま。「恬然とした態度」「恬然たる風を装う」

《彼らは単に大道徳を忘れたるのみならず、大不道徳を犯して恬然として社会に横行しつつあるのである》(夏目漱石『野分』)

《辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして恬然としている》(夏目漱石『坊っちゃん』)

■「不明」には別の意味もある

ところで「不明を恥じる」という成句があるが、これは何を恥じているのだろうか。大概の国語辞典において、不明という語の第一語義は「明らかでないこと」「はっきりしないこと」だ。報道で「行方不明」とか「安否不明」などという場合の不明である。だが、はっきりわからないからといって、それを恥じることはない。「不明を恥じる」の〈不明〉は第二語義の方なのだ。

●ふめい【不明】物事を見抜く才知に欠けていること。物の道理に暗いこと。「不明を恥じる」「すべて私の不明のいたすところ」「不明の至りであり、お詫び申し上げまする」

よく政治家が失言や失行をしたときに「不明の至りであります」などといって謝罪に努めるが、これは自らの〈愚昧〉を深く恥じている表現なのである。

◎ぐまい【愚昧】愚かで道理が分らないこと。「愚昧な男」

〈至り〉は「若気の至りで(=若さ故の旺盛な血気にはやって)」という成句が有名だが、この用例の場合「至り」は「物事の成行きや結果」を示す。

これに対し「不明の至り」の〈至り〉は次の義である。

●いたり【至り】物事のきわみ。きわまり。極致。

つまり「不明の至り」は「愚かしさの極み」ということ。恥との関連では「〈汗顔〉の至り」「〈赤面〉の至り」がこの用法。

●かんがん【汗顔】顔面に汗が噴き出るほど己を恥じること。極めて恥ずかしいこと。「汗顔の至り」「汗顔至極」「汗顔に堪えない」

「汗顔の至り」は恥ずべき過ちを犯して、反省している場合のみならず、「拙作(=私の作品)に過分のお褒めの言葉を頂き、汗顔の至りです」と賞賛に対する謙遜の言葉として用いることができる。

■「恥じる」の上級表現「忸怩」

●せきめん【赤面】恥ずかしくて顔が赤くなること。顔を赤らめて恥じ入ること。「赤面の至り」

《阿呆な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました》(太宰治『文盲自嘲』)

《赤面した所を相手に見られたという意識が、彼のほおを一層ほてらします》(江戸川乱歩『算盤が恋を語る話』)

「赤面の至り」は「汗顔の至り」と異なり、謙遜の場面ではあまり使われない。意義からみればおかしくはないと思うが。

〈忸怩〉も忘じ難い、「恥じる」の上級表現だ。

●じくじ【忸怩】深く恥じ入ること。または、深く恥じ入るさま。「〈馬齢を重ね〉てしまい、忸怩するに堪えざるものがあります」「内心忸怩たる思い」「自ら顧みて忸怩たるものがある次第だ」

◎馬齢を重ねる なすこともなく老いる。徒(いたずら)に年をとる。「馬齢を加える」ともいう。

■夫婦と恋愛にまつわる語彙

世間の交わりといえば、交友や職場関係もさることながら、やはり男女の結びつきと別れを欠かすわけにはいかない。夫婦と恋愛にまつわる上級語彙をみておこう。

●鴛鴦(えんおう)の契(ちぎ)り 夫婦がとても仲睦まじいことのたとえ。「いま鴛鴦の契りを結ばれるお二人の前途に、幸多からんことを祈念いたします」

※鴛鴦はオシドリのこと。「鴛鴦(おしどり)夫婦」といえば仲のよい夫婦を意味するが、実際のオシドリは毎年冬ごとに異なるパートナーとつがいになるとされている。ただこの説には近年、異論も出ている。

夫婦仲を楽器の響きに喩える場合もある。

マンダリンアヒルのカップル
写真=iStock.com/huanglin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/huanglin

●琴瑟(きんしつ)相和(あいわ)す 琴と瑟(おおごと)とで合奏して、その音色がよく調和している。転じて、夫婦間の相和して睦まじいたとえ。「両親はまさに琴瑟相和すという感じで、互いの心を重ね合わせていました」

結婚式では「鴛鴦の契り」などと言祝がれた二人だが、やがてひびが入り、ついに〈破鏡〉してしまうこともある。

■「離婚」以外に「夫婦の別れ」を表す言葉

●はきょう【破鏡】夫婦が離別すること。離婚すること。

《自ら進んで名家の正妻となったけれども、散々苦労の末、遂に破鏡の憂目に遭った》(坂口安吾『安吾人生案内 その六 暗い哉 東洋よ』)

「恋は盲目」とか、「恋の闇路」などというが、恋する二人に理屈だの分別だのは入る余地はない。これを〈理無い〉という言葉を用いて表現する。

●わりない【理無い】理屈では割り切れないほどに親密である。多く男女関係についていう。「お互いに一目惚れしたふたりは理無い仲となった」

※「理」の訓読み「わり」は、「理」の「わり」だ。つまり「ことわり」の「こと」が省かれた上略なのだ。

女優の岸惠子に『わりなき恋』という、中高年男女の恋愛と性を描いた小説がある(幻冬舎文庫)。

昔書いた私の文章から二点、引文を採っておこう。

いにしえより懇ろの間柄を『理ない仲』というが、いまはどんな仲にも『理』が忍び込んでしまう」

「〈異土〉で〈方便〉に〈困じ〉ていたストラヴィンスキー一家に対し、ココ(・シャネル)は経済的援助を申し出る。やがて二人は理ない仲に落ちてしまう」

◎いど【異土】異国の土地。外国のこと。

◎たずき/たつき【方便】生活の手段。生計。「アルバイトを方便とする」

◎こうずる【困ずる】困る。困惑する。困って苦しむ。「金の工面に困ずる」

《公郷さまはさきごろからたいへんお身持ちが悪く、世間の評判にもなりだしたそうで、御両親はじめ御親族のあいだでも困じはてていらっしゃる……》(山本周五郎『落ち梅記』)

■古代の風習に基づく「後朝の別れ」

「お〈身持ち〉」とは?

◎みもち【身持ち】品行。行状。操行。とくに異性との交際についての平素のおこないをいう場合が多い。「身持ちが悪い」「身持ちがかたい」

理ない仲になれば、〈逢瀬〉が楽しみになる。

宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)
宮崎哲弥『教養としての上級語彙』(新潮選書)

●おうせ【逢瀬】相会う機会。とくに愛し合う男女がひそやかに会う機会。逢引の時。「逢瀬を楽しむ」「逢瀬を重ねる」

三度びお会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません。それでもお会いしたいと思うのです。(映画『陽炎座』鈴木清順監督)

逢瀬を重ね、やがて一夜を共にして情を交わすようになれば、翌朝、別れ別れになってしまうことが辛くなってくる。

●後朝(きぬぎぬ)の別れ 男と女が〈交会〉した翌朝のこと。共寝した男女が夜が明けて別れること。

◎きょうかい【交会】人と人とが親しく交わること。または、男女の性的交わり。性交。

《男女の交会も万善の功徳じゃ》(芥川龍之介『道祖問答』)

後朝は本来「衣衣(きぬぎぬ)」とも書き、二人の衣を重ねて掛けて共寝した明くる朝、別れ際にそれぞれの衣を身に付けた、そのお互いの衣のことをいう。つまり衣と衣の別れが原意である。古くは、そのとき内着を交換したという。「『きぬぎぬ』とは、その際に互いの下着を交換するという古代の習俗に基づく表現である」(吉海直人『『源氏物語』「後朝の別れ」を読む』笠間書院)。

言葉が造出する世界とはかくも奥深く、計り知れない。上級語彙の探究は、言の葉の深奥を探るのである。

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宮崎 哲弥(みやざき・てつや)
評論家
1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。テレビ、ラジオ、雑誌などで、政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』(NHK出版新書)、『仏教論争―「縁起」から本質を問う』(ちくま新書)、『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、佐々木閑氏との共著)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)など多数。

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(評論家 宮崎 哲弥)

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