1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「織田信長は奇襲で今川義元を破った」はもう古い…「桶狭間の戦い」の最新研究で論じられていること

プレジデントオンライン / 2022年12月10日 18時15分

織田信長像(画像=狩野元秀/東京大学史料編纂所/愛知県豊田市長興寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長が今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)

※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数

永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。

【図表1】桶狭間合戦関連図
出所=『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』

一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。

ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。

先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

■昼までには大勢が決まっていた

今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康(徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。

鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。

制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。

この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

■信長が見た勝機

信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。

早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。

この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。

信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

熱田神宮(名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。

このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。

しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。

そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

■突如、雹混じりの雨が降る

5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。

信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。

信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

■「海道一の弓取り」の最期

信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。

すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

■桶狭間の戦いは奇襲だったのか

ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。

桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った。義元の2万〜4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2000~3000の兵のみだった。

とはいえ、義元の率いた2万〜4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。

桶狭間古戦場伝説地(豊明市、2012年)
桶狭間古戦場伝説地(豊明市、2012年)(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。

そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。

つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

■奇襲説の根拠は「不適切」な史料

ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。

儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。

そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。

それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。

先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。

『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

■有力な正面攻撃説の中身

最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。

千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。

今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。

現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ

『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。

渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)
渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)

ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。

とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。

ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。

----------

渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

----------

(歴史学者 渡邊 大門)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください