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国宝「蒙古襲来絵詞」を見ればわかる…モンゴル軍を撃退した鎌倉武士が何よりも重視していたこと

プレジデントオンライン / 2022年12月12日 10時15分

『蒙古襲来絵詞』[2](図版=宮内庁三の丸尚蔵館/『新版 雅・美・巧(上)』(宮内庁)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

2021年、宮内庁所蔵の『蒙古襲来絵詞』が国宝に指定された。発注主・竹崎季長は、文永の役・弘安の役に参加しており、絵巻はモンゴル軍の侵攻を知る貴重な史料といえる。歴史学者の呉座勇一さんは「絵巻の描写から、鎌倉武士のリアルを読み取れる」という。著書『武士とは何か』(新潮選書)からお届けする――。

■蒙古襲来に関する一級史料

2021年、宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されている『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』が国宝に指定された。『絵詞』は天草大矢野家に伝来し、明治23年(1890)に同家が皇室に献納し、御物(ぎょぶつ)(皇室財産)となった。現在は宮内庁所蔵である。

この絵巻の発注主は、竹崎季長(すえなが)という肥後(現在の熊本県)の武士で、文永の役・弘安の役という2度のモンゴル軍侵攻に際し防戦に参加した。後年、季長は両度の合戦での自身の活躍を後世に残そうと考え、絵巻を制作したのである。

実は、文永の役・弘安の役の詳細な戦闘経過を記す日本側史料は乏しい。文永の役の全体像を描いた史料としては『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』が知られている。これは、八幡神の霊験を子どもにも理解出来るように説いた寺社縁起である。今で言う宣伝パンフレットだ。石清水(いわしみず)八幡宮の社僧の作と考えられている。

しかし『八幡愚童訓』は、八幡神の霊力によってモンゴル軍を撃退したと喧伝したいがあまり、鎌倉武士の無能さを誇張している。同書はまるで見てきたかのように戦闘の様子を事細かに語るが、荒唐無稽な描写が散見され、信用できない。

その点、『蒙古襲来絵詞』は実際に戦闘に参加した竹崎季長の証言に基づいているので、史料的価値は断然高い。詞書は具体的かつ詳細で、絵もリアルだ。まさに蒙古襲来に関する一級史料と言えよう。宮内庁所蔵という特殊事情で国宝指定が遅れたが、国宝級の文化財であることは以前から認められていた。

■鎌倉武士のしたたかな恩賞交渉術

竹崎季長はあくまで一戦闘員であり、自分が参加した戦闘については詳しく語れるが、全体の戦局を十分に把握できているわけではない。そうした史料的限界はあるものの、『八幡愚童訓』ではなく『蒙古襲来絵詞』を主軸に据えて蒙古襲来を復元するのが正道である。

歴史学者の服部英雄氏は上の観点から、蒙古襲来研究の見直しを図った(『蒙古襲来』山川出版社、2014年)。拙著『戦争の日本中世史』(新潮選書、2014年)は服部説を発展させる形で、文永の役におけるモンゴル軍撤退の理由は「神風」や「自主的撤退」ではなく、鎌倉武士の勇戦であると説いた。

このように『蒙古襲来絵詞』は、蒙古襲来研究に不可欠な史料だが、それだけに留まるものではない。竹崎季長が恩賞獲得のために鎌倉に赴き、御恩奉行の安達泰盛に直談判する一幕も興味深い。

絵巻では、泰盛との対面は合戦場面に劣らず力を入れて描かれており、季長にとっても思い入れの深い出来事だったと考えられる。本稿では、季長と泰盛との交渉を通して、鎌倉武士のメンタリティーの一端に迫りたい。

■竹崎季長、鎌倉へ行く

文永の役が起こった文永11年(1274)当時、竹崎季長は所領を持たない貧乏武士であった。歴史学者の石井進の研究によれば、竹崎季長の父親の遺産をめぐって一門の間で訴訟が起こり、季長は敗訴して父の遺領を相続できなかったのだという(『鎌倉びとの声を聞く』日本放送出版協会、2000年)。季長にとってモンゴルとの合戦は、恩賞を得て一発逆転する千載一遇の好機であった。

首尾よく先駆け(敵陣一番乗り)の戦功を挙げた竹崎季長であったが、待てど暮らせど恩賞の沙汰がない。ついに季長は鎌倉まで訴え出ようと決意するが、一門の反対にあう。

一門の反対を押し切って翌建治元年6月3日、竹崎季長は竹崎を出発する。いざ出発となれば旅費を支援してくれるだろうという甘い期待が季長にはあったが、誰一人見送りにすら来ないというありさま。やむなく季長は馬と鞍を売って旅費を作った。中間(ちゅうげん)の弥二郎・又二郎の2人だけを供に従えての門出であった。

もし恩賞が獲得できなければ、出家して武士の道をあきらめ、2度と故郷には戻らないと季長は決意する。まさに背水の陣である。

季長一行は関門海峡を渡って、長門国の赤間関(あかまがせき)(現在の山口県下関市)にたどり着く。ここで長門国守護代の三井季成(すえなり)が遊女を集めて盛大な宴を催してくれた。実は季成は季長の烏帽子親(えぼしおや)だったのである。季成は季長の馬や旅費も援助してくれた。

■御恩奉行である安達泰盛に直訴

馬を得た季長は順調に旅を進め、8月10日には伊豆の三島大明神(現在の三嶋大社)、翌11日には相模の箱根権現(現在の箱根神社)を参拝した。両社にお布施を納め、恩賞獲得の祈りを一心に捧げた。翌12日にはついに鎌倉に到着し、鶴岡八幡宮に参拝して、やはりお布施を納めて祈りを捧げている。

さっそく季長は幕府の奉行たちに働きかけるが、みすぼらしい風体が災いして、相手にしてもらえない。ならば神頼みしかないと、再び鶴岡八幡宮に参拝したところ、とうとう幕府の御恩奉行である安達泰盛に直訴する機会を得たという。実際には八幡神のおかげというより、三井季成のコネがモノを言ったのだろう。

安達邸に赴き、泰盛本人と面会した季長は、「一番につき候し事」、すなわち敵陣一番乗りの功績が報告書に載らなかったことを訴えた。先駆けの功が「君の見参」、将軍惟康(これやす)の知るところとならなかったのは、武士として面目を失う事態だというのだ。

『蒙古襲来絵詞』前巻、絵九。竹崎季長が、安達邸で御恩奉行の安達泰盛に「先駆けの功」を訴える場面。
『蒙古襲来絵詞』前巻、絵九。竹崎季長が、安達邸で御恩奉行の安達泰盛に「先駆けの功」を訴える場面。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ただし季長の上の主張は半分タテマエである。武士としての名誉より恩賞の方が、季長にとっては重要であった。

季長の訴えを聞いた安達泰盛は、季長が持参した「書下(かきくだし)(戦功証明書)」を確認した。そして泰盛は「敵の首の分捕りや家人の討死などの戦功はあるか」と尋ねた。季長は「ございません」と答えた。

泰盛は「では合戦の功績としては十分とは言えぬ。手傷を負ったことは書下にも記されている。この上、何が不足なのか」と反論する。負傷したというだけでは、恩賞をもらうほどの奮戦をしたことにはならないのだ。

■恩賞目当てではなく、武士の名誉にしたい

季長は「先駆けの戦功が将軍にご報告されていないことを申し上げているのです。もしそれがしの申すことに御不審がおありでしたら、(季長らを指揮する大将だった)少弐景資(しょうにかげすけ)殿にお尋ね下さい」と食い下がる。さらに季長はダメ押しの一言を放つ。「もし景資殿が『季長の主張は偽りである』という起請文(きしょうもん)(神かけて誓う文書)を提出なさったら、それがしの勲功を全て抹消して、それがしの首をお取り下さい」と。

必死の季長にたじろぎながらも泰盛は「景資に重ねて問い合わせるなど無理なことだ」と答える。季長は「無理を承知で申しております」と言う。泰盛は「これはおかしなことを申す。無理と分かっていて、そのようなことを申すでない」とたしなめる。

ここぞとばかりに季長は畳みかける。

呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)
呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)

「土地をめぐる裁判や、日本国内での合戦の勲功でしたら、決められた手続きに則って申し上げます。ですが異国との合戦は前例のないことです。手続きにこだわらなくても良いでしょう。手続きから外れているという理由で景資殿にお尋ねなさらず、それがしの先駆けの功が将軍のお耳に入らないことになっては、武士としての面目が立ちません」と長広舌(ちょうこうぜつ)をふるった。

泰盛は「言いたいことは分かるが、幕府の恩賞は、手続きに則った申請がなければ与えられないのだ」と説得を試みる。けれども季長はあきらめない。

「重ねて申し上げるのは恐れ多いことですが、すぐに恩賞を賜りたいと訴訟しているわけではございません。先駆けの功についてお尋ねいただき、偽りであったならば、勲功を捨てて、それがしの首を差し上げます。事実であると明らかになりましたら、将軍にご報告いただき、それがしの名誉としたいのです」と訴える。

恩賞目当てではなく、あくまで武士の名誉の問題であると再三強調している点に、季長のしたたかさがうかがえる。

■ゼロ評価から一転、「奇異の強者」に

根負けした泰盛は「合戦の功績については承った。必ず将軍のお耳に入れよう。恩賞も間違いあるまい」と請け合った。後日、呼び出された季長は泰盛から恩賞の沙汰を言い渡され、さらに馬を与えられた。季長はよほど嬉しかったらしく、絵巻では馬を拝領する場面が印象的に描かれている。

『蒙古襲来絵詞』前巻、絵十。安達邸で安達泰盛から馬を拝領する竹崎季長。
『蒙古襲来絵詞』前巻、絵十。安達邸で安達泰盛から馬を拝領する竹崎季長。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

泰盛はなぜ季長に恩賞を与えたのだろうか。季長が泰盛の家人から教えてもらった話によると、泰盛は季長について、己の首を賭けて恩賞を迫る「奇異の強者(こわもの)」と評し、後日の一大事に役立つ男だと語ったという。

安達泰盛は時の執権、北条時宗(ときむね)の舅である。幕府の重鎮を相手に一歩も引かずに啖呵(たんか)を切った季長の度胸を、泰盛は買ったのだろう。季長は「名ぜりふ」によって人生を切り開いたのである。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
信州大学特任助教
1980年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。『応仁の乱』(中公新書)が50万部に迫るベストセラーに。『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『武士とは何か』(新潮選書)など著書多数。

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(信州大学特任助教 呉座 勇一)

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