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NHK大河ドラマとはまったく違う…尼将軍・北条政子が御家人たちの前で史実として伝えたこと

プレジデントオンライン / 2022年12月18日 10時15分

鶴岡八幡宮(写真=Nerotaso/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

承久の乱を前に、北条政子は御家人たちに何を話したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料によれば、源頼朝の御恩を切々と説き、朝廷側についた武将を討てというものだった。大河ドラマで描かれたような、弟・義時についての発言はなかったはずだ」という――。

■幕府と朝廷の争いの火種はどこだったのか

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は第47回「ある朝敵、ある演説」(12月11日放送)を終え、最終回では承久の乱が描かれることになります。

朝廷と幕府が全面対決した承久の乱の要因は何だったのでしょうか。ドラマでは後鳥羽上皇役の歌舞伎役者の尾上松也さんが大いに幕府に怒りをぶつけていましたが、史実としてはどうだったのでしょうか。

1219年1月、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、鶴岡八幡宮において、公暁(2代将軍・源頼家の遺児)により殺害されます。実朝は、都から、公卿・坊門(ぼうもん)信清の娘を御台所として迎えていました。

しかし、2人には子供がいませんでした。また、実朝は側室を持とうとはしませんでした。そのような状況でしたので、このままいけば、源氏将軍が絶えてしまうことは時間の問題。

実朝もそのことは十分理解していたようで、生前、大江広元に対し「源氏の正統な血統は、自分の代で終わり、子孫がこれを継ぐことはない。よって、私が高い官職について、家名をあげたいと思っているのだ」(『吾妻鏡』)と語ったとされます。

とはいえ、自分の後継のことを何も考えないのは無責任ということで、実朝が構想していたのは、京都から後鳥羽上皇の皇子を将軍として招くというものでした。

実朝の母・北条政子も上洛したおりには、頼仁(よりひと)親王を養育する卿二位兼子(後鳥羽の乳母)と面会し、交渉を進めたようです。兼子は、頼仁親王に皇位についてほしいと願っていましたが、それがもしかなわないならば、鎌倉で将軍となってもらいたいと思っていたとのこと。その心の隙間にうまく入り込むことに成功し、実朝の後継として、頼仁親王と雅成(まさなり)親王の兄弟どちらかを鎌倉に下向させる話が進んでいました。

実朝からすれば、後鳥羽上皇の親王を後継将軍として鎌倉に迎えることで、幕府に「公家政権」の権威を取り込むことができると考えたのでしょう。そして、自分は将軍職を退き、自由に振る舞える、京都に上り、後鳥羽院やその近臣たちと交流し、好きな和歌を詠み合うことができると思っていたでしょう。しかし、その実朝の夢は暗殺により、無惨にも打ち砕かれます。

■もし実朝が生きていれば…

実朝暗殺は、朝廷と幕府との関係に暗雲をもたらします。幕府は、すぐに後鳥羽院の皇子を鎌倉に下してくれるよう要求。が、後鳥羽院の結論は、親王のうち、どちらか1人はいずれ鎌倉に下向させようが、今すぐには無理というものでした。というより、親王を下向させるつもりはありませんでした。

鎌倉時代初期の僧侶・慈円の史論書『愚管抄』には、後鳥羽院の言葉「どうして将来に、この日本国を二つに分けるようなことができようか」を載せています。

実朝が生きていれば、公武(朝廷と幕府)の融和が図られて、親王を下向させても良いが、実朝が殺された今、親王を下向させることはできない。親王を幕府に取り込まれて、利用されてしまう、そうなれば、日本国が分裂してしまうと考えられたのでしょう。

何より、将軍が殺されてしまうような物騒なところに、自分の皇子をやれるかとの親としての想いもあったと思います。

結局、後鳥羽院は親王の下向を許可せず、摂関家の子ならば良いだろうという「妥協」をします。九条道家と西園寺公経の娘・掄子(りんし)の子として生まれた三寅(後の4代将軍・藤原頼経)、2歳を下向させることにするのです。この三寅を後見したのが「尼将軍」北条政子でした。

もし、実朝が生きていたら、予定通り親王将軍が誕生し、朝廷と幕府の協調は続いたでしょう。承久の乱(1221年)が起こることはなかったと推測されます。承久の乱勃発の遠因は、実朝の死と言えます。

■もうひとつの「もしも」

さらに、後鳥羽院は、三寅の下向さえも、本心では反対していました。後鳥羽院は、幕府(武士)を思うようにできないことに不満を募らせていたのです。

後鳥羽院は、近臣・藤原忠綱を弔問の使いとして鎌倉に派遣していますが、その時、摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭を免職し停止するように、北条義時に要求しています。

摂津国豊島郡(豊中市)の長江荘は、後鳥羽院の愛妾・亀菊に与えられていました。長江荘の地頭は、義時でした。

後鳥羽院としては、実朝死去早々に、幕府の出方を見てきたといえましょう。また、この要求を呑めば、親王将軍を認めてやるぞくらいに思っていたかもしれません。が、後鳥羽院の要求は通りませんでした。幕府は「頼朝の時、勲功の賞により与えられた所領(地頭職)は、罪もないのに改めることはできない」という結論に達したのです。

これは、幕府としては当然の結論でしょう。しかも、幕府は、北条時房に千騎の軍勢を率いて上洛させ、地頭改補を拒否。親王の下向を求めたのでした。自分(後鳥羽院)の意向に従うどころか、武威をちらつかせ圧力をかけてくる。(何たることだ)と後鳥羽院は怒りと失望をにじませたはずです。そして「幕府(武士)を思うようにできない」ことへの不満をさらに募らせたと思います。

この幕府の対応もまた承久の乱の導火線となったように感じます。

後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵]
後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵・伝藤原信実筆]〔写真=『原色日本の美術 21 面と肖像』(小学館)収録/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

もし、幕府が後鳥羽院の要求を受け入れていれば、院も気を良くして、幕府への不満を高めることはなかったでしょう(念のために言っておくと、私は別に後鳥羽院の要求を呑まなかった幕府が悪いとか良いとかの話をしているわけではありません)。

■後鳥羽上皇の怒りの正体

承元元年(1219年)7月には、源頼茂(摂津源氏・源頼政の孫)が「自分が次の将軍になるべきだ」と考え挙兵。追討の院宣が発せられ、在京の武士により、頼茂は討たれることになります。しかし、その過程で、大内裏が焼けてしまうのです。

その衝撃は、後鳥羽院をひと月も寝込ませるほどでした。大内裏焼亡も、もとはと言えば、幕府の将軍職をめぐる争いに端を発するもの。それに朝廷が巻き込まれて、最終的には大内裏が燃え、由緒ある宝物までもが焼けてしまった。後鳥羽院からすれば(もういい加減にしてくれ)と思うと同時に、幕府(その実質的支配者である北条義時)へのいら立ちをさらに強めたことでしょう。

大河ドラマで後鳥羽上皇を演じる俳優の尾上松也さんは「鎌倉や武士に対する怒りというよりは、ピンポイントで義時の自分を敬ってこない態度に怒りと野望を募らせていくというのが肝かなと思います」(後鳥羽上皇役・尾上松也さんインタビュー。「鎌倉殿の13人」ホームページ)と述べていますが、これまで見てきたように、敬ううんぬんの問題だけが、上皇挙兵の要因ではないでしょう。

■朝廷側の挙兵の言い分

そしてついに、後鳥羽院は、北条義時追討の院宣(院に仕える院司が、院の意向を受けて発給する命令書)を出すのです(1221年5月)。そこには、院が義時を討とうとするに至った心が吐露されてします。院宣にはこうあります。

「3代将軍・源実朝が亡くなった後、御家人たちは、後鳥羽上皇の判断を仰ごうと申していた。北条義時は、鎌倉の主人として誰がふさわしいか考えたが、3代将軍の後を継ぐ人は鎌倉にはいないと言い、さまざまな注文をつけて、摂政の子・三寅を次の将軍として鎌倉へ下向させた。しかし、三寅はまだ幼く何も分からない。

義時はそれを良いことに、野心を持ち、権威を持とうとした。これをどうして許すことができようか。よって今後は、義時の奉行を停止し、後鳥羽上皇の命令により決すべし。もしこの決定を受け入れず、反逆しようというのならば、早くその命を落とすが良い。功績があるならば、褒美をとらそう。この命令を知らしめよ」と。

この院宣には、後鳥羽院の意思に義時が反していると書かれています。院方としては、そのように主張し、多くの御家人を味方に付けようとしたのでしょう。

しかし、承久の乱は、後鳥羽院の思ったようにはなりませんでした。後鳥羽院と義時のパワーゲームの結末は、院方にとって悲しいものとなるのです。

■義時を「悪人→善人」にした魂の大演説

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第47回「ある朝敵、ある演説」では、承久の乱を前にした有名な北条政子の演説が描かれていました。

北条政子像〈菊池容斎画〉
北条政子像〈菊池容斎画〉(図版=PD-Japan/Wikimedia Commons)

鎌倉のため自分の首を差し出すという弟・義時を制し、政子が御家人たちの前に立って魂の大演説をしたのです。が、義時が朝廷に自分の首を差し出そうとしたとの事実はありません。

ドラマ上のこの描写によって、策謀を巡らせてきた陰険な「悪人」義時が、一瞬にして、命を懸けて鎌倉を守ろうとする「善人」義時に変化したように感じました。

ドラマにおける政子の演説も、最初は「右大将(頼朝)の御恩は、山よりも高く、海よりも深い」という有名な言葉も出てきましたが、途中からは、スピーチ原稿を見ずに、自分の言葉で語りかけていました。

■史料に残る政子の行動

鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、政子の演説の言葉が掲載されていますが、自ら語りかけたわけではありません。安達景盛(頼朝に仕えた安達盛長の子)に代読させています。政子は御簾の中にいたと思われます。

ドラマの政子演説であったような「この人(義時)は生真面目なのです。すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません」「選ぶ道は二つ。未来永劫(えいごう)、西のいいなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか。ならば、答えは決まっています」との文句は『吾妻鏡』には当然ありません。

「鎌倉殿の13人」では、姉・政子が弟・義時を守るため、演説したようにも見えましたが、そんなことはなかったのです。ドラマは、政子と義時を主軸としてきましたので、あえて、そのようなフィクションを交えて、姉弟の情愛を描いたのでしょう。

『吾妻鏡』における政子演説の軸は、源氏将軍の御恩を説き、御家人を感奮・出撃させ、院方の首謀者である藤原秀康、三浦胤義(たねよし)らを討ち取ることにありました。

そこで、弟・義時の命うんぬんの言葉が出てきたら、おそらく、御家人たちは白けてしまった可能性もあります。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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