日本に「本物の城」は12しかない…城めぐりを楽しむ人たちに伝えたい姫路城と小田原城の決定的違い【2022下半期BEST5】
プレジデントオンライン / 2022年12月29日 10時15分
■往時の姿を見せる城は全国にわずかしかない
空前の「城ブーム」が続いている。コロナ禍で減少した観光客を呼び戻すための切り札として、多くの地域が城に期待をかけている。
天守が現存する城は、いまでは日本に以下の12しかない。
それでも、日本全国には天守が建つ城が60ほどある。城、とりわけ天守は権力の象徴であるとともに、城下町のシンボルでもあった。だから、天守が建つ城を訪れるのは、歴史を知る旅の目的地としてうってつけのように思うのではないだろうか。
ところが、現存する12天守以外、すなわち近現代を迎えてから建てられた天守の多くは、残念ながら、元の姿とは異なって歴史の「理解」どころか「誤解」を助長しかねないシロモノが多いのである。
■焼夷弾で焼き尽くされた「国宝」
江戸時代に存在していた天守の多くは1873(明治6)年、城を封建時代の遺物と断じた明治政府がいわゆる「廃城令」を出したのち、取り壊されるなどして姿を消した。それでも1945(昭和20)年を迎えるまでは、全国に20の天守が残っていた。
しかし、城は軍の駐屯地であったりして、米軍の空襲の標的になりやすかった。直接の標的にはならなくても、米軍は密集する市街地に焼夷弾攻撃を繰り返したので、火はあっという間に城にまで燃え広がった。
焼夷弾とは、火のついた油脂をまき散らして、あたり一面を焼き尽くすもので、米軍はこれを人口密度が高く木造家屋が密集する市街地に落とした。飛び出した油脂は90メートルも飛んだので、あっという間に火の海に囲まれてしまった。
まず5月14日に名古屋城天守が焼け落ちた。有名な金の鯱を避難させようとして組んであった足場に焼夷弾が引っかかり、そこから火が上がって城全体が火だるまになったという皮肉な話が伝わる。
続いて、6月29日に岡山城天守(岡山県)、7月9日に和歌山城天守(和歌山県)、7月29日に大垣城天守(岐阜県)、8月2日に水戸城御三階櫓(事実上の天守、茨城県)、終戦1週間前の8月8日に福山城天守(広島県)が焼失した。
史上最大級だった尾張徳川家の名古屋城天守、信長や秀吉の天守をモデルに関ヶ原合戦以前に建てられた岡山城と広島城の天守、天守の完成形といわれ、守りが弱い北側の壁面に鉄板が張られていた福山城天守……。旧国宝で、残っていれば間違いなくいま国宝に指定されていた日本の至宝だった。
ちなみに、広島城天守(広島県)は焼けたのではなく、8月6日に落とされた原爆の爆風で、一瞬にして倒壊した。
戦争で失われたのはこれら7つで、終戦時には13の天守が残っていた。
その後も1949(昭和24)年未明、役場の当直室からの失火が原因で松前城(北海道)が焼け落ち、残るのは12になってしまったのだ。
■外観を復元していない「外観復元天守」
失われた天守は、みな都市の中心部に建っていて、都市のシンボルであり、多くの市民にとって故郷の誇りだった。それだけに市民の喪失感は大きかったようだ。
だから、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した1956(昭和31)年ごろから、戦後復興の象徴として天守を復興しようという動きが、にわかに活発化する。
1958(昭和33)年に和歌山城と広島城が、翌59(昭和34)年に名古屋城と大垣城が、60年(昭和35)年に戦後焼失した松前城が、そして66年(昭和41)年には岡山城と福山城が、それぞれ鉄筋コンクリート造でよみがえった。戦争で失われた7つの天守のうち、水戸城を除く6つが再建されたのである。
だが、私は6つの再建された天守を見て「過去の威容を取り戻した」とは、言いにくいところがある。
これらの天守はコンクリート造とはいえ、外観はかつての姿を再現した「外観復元天守」といわれている。
しかし、いずれも戦前の実測図や数々の写真があるにもかかわらず、過去の姿を忠実に再現したとはいえないところがあるのだ。
名古屋城は眺望を確保するために、最上階の窓を大きくとって、かつてあった白い引き戸を省略してガラス張りにした。大垣城も観光用に最上階の窓を大きくとって大きなガラスをはめ、破風(はふ)と呼ばれる屋根の飾りに、かつてはなかった金色の金具をつけた。
広島城は窓があるはずがない場所に窓をつけるなどした。岡山城は天守台の石垣(言うまでもなくそれも文化財だ)を崩してまで、観光客の便を図って以前はなかった入り口を設置し、一部の窓の位置を変更し、屋根の勾配もゆるくした。
そして福山城は、北面に張られていた鉄板を省略し、それ以外の窓に巻かれていた銅板も再現せず、最上階は窓の位置やかたちを違う形状にしてしまった。
旧状が再現されなかった最大の理由は「観光のために」だった。
歴史を知り、過去を感じるための施設のはずなのに、訪れた人の便宜を図ったり、より立派に見せようとしたりして、姿かたちを改変してしまう。それが昭和30~40年代の意識だったのだ。
■設計者を怒らせた小田原市のわがまま
この時代(その後もその流れは続いたが)、明治期または江戸時代に天守が失われた城についても、地域のシンボルとして天守を復興しようという動きが活発化した。そして、こうした天守にも観光優先の発想は貫かれてしまった。
たとえば1960(昭和35)年に復興された小田原城天守(神奈川県)。明治期に撮られた解体中で骨組みだけが残った写真や、3つ残る模型などを参照し、可能なかぎり綿密に検討したうえで再建されたのだが、最上階にかつてはなかった高欄つきの廻縁(ベランダ状の回廊)がついてしまっている。
![2012年2月25日、小田原城](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/8/1200wm/img_3870e8b1df2d12d04be1ef1e1a4852f9473518.jpg)
当時の小田原市当局が、観光用にどうしてもつけるように要求したもので、設計した藤岡通夫氏はのちに「遺憾の限り」と記した『城と城下町』(中央公論美美術出版)。
■デザインだけでなく場所も以前と異なる城
こうした例は枚挙にいとまがない。1959(昭和34)年に再建された岡崎城天守(愛知県)も、古写真などを基に江戸時代の外観を復元したものだが、小田原城と同様、かつてはなかった廻縁がつけられてしまっている。
同じ年に再建された小倉城天守(福岡県)は、各階の屋根に破風と呼ばれる飾りがひとつもないのが特徴だった。ところが、飾りがなくては地味だという理由で、たくさんの破風で派手に飾られてしまった。1980(昭和55)年に建った今治城天守(愛媛県)も、かつて存在した天守は破風がなかったことがわかっているのに、別の櫓の跡地に破風だらけで再現された。
1961(昭和36)年再建の岩国城天守(山口県)は、昔の絵図を参考に建てられたが、もともとあった位置から有名な錦帯橋からの眺められる場所に、30メートルほど移動されてしまった。
1954(昭和29)に建てられた岸和田城天守(大阪府)は、かつて存在した天守が5層だったことが絵図などからわかっていながら、3層で再建された。
それどころか、平戸城(長崎県)は1962(昭和37)年に、中津城(大分県)は1964(昭和39)年に、唐津城(佐賀県)は1966(昭和41)年に、それぞれ鉄筋コンクリート造で天守が建てられたが、これら3つの城のいずれにも、かつて天守は存在しなかった。
![2008年4月6日、唐津城](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/e/1200wm/img_1e1bf7f239711066ed39828233136526481666.jpg)
観光客を誘致するために、ランドマークとして天守を建てる。その発想自体が否定される必要はない。しかし、誘致した観光客が歴史を誤解することになるなら、その建築は罪つくりである。ある城にもともと天守がなかったなら、そこには歴史的な理由があるのだ。
■史実にそぐわない天守は壊したほうがいい
明治政府を主導した人たちに教養がなかったからだろうか。日本の建築技術の粋を集めて建てられ、すでに200~300年の歳月を経ていた文化財の数々を、単なる封建時代の遺物と決めつけて破壊してしまった。私はそのことがはなはだ残念で、かつての姿を正確に再現できるなら、歴史的景観をよみがえらせてほしいと願う。
一方、天守がなかった城に建つ天守は、むしろ壊したほうがいいのではないかとさえ思ってしまう。また、観光用にあえて姿を派手に改変した天守は、せめて改築して、歴史的な姿に近づけてほしい。
とにかく現実には、歴史的な風景かと思えば、かつて竹下登内閣のふるさと創生事業でつくられた純金のカツオ(高知県中土佐町)と変わらないようなシロモノも多いので、注意が必要なのだ。それは決して大げさな物言いではない。なぜかといえば、墨俣一夜城(岐阜県)は実際、このときの1億円を元手に歴史的事実を無視して建てられている。
■歴史をめぐる旅に必要なこと
復元されたすべての城がダメなわけではない。
たとえば平成16年(2004)に完成した大洲城天守は、古絵図や天守のひな形の模型、古写真などを基に木造で正確に復元されている。今年も福山城が、築城400年を記念して大改修を受け、8月に鉄板張りの外観がよみがえったばかりである。名古屋城も予定より大幅に遅れてはいるが、木造で再建する準備が進められている。
しかし、いまはまだ、歴史の旅として城をめぐるなら、再建された天守が歴史的な姿に近いものなのか、違うならなにがどう違うのか、事前に調べておいたほうがいい。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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