1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「カネの切れ目が命の切れ目」と言わんばかり…「軽症」のはずのオミクロン株が過去最悪の死者数を出した理由

プレジデントオンライン / 2022年12月28日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gorodenkoff

■今年ほど「死」について考えさせられた年はなかった

12月12日、1年の締めくくりとして世相を象徴する漢字一字、いわゆる「今年の漢字」が発表された。選ばれた「戦」という一字に賛同できるか否かは別として、「違うな。私ならこの一字だな」と思う人も少なくないのではなかろうか。

ちなみに、私の選んだ今年の漢字、それは「死」の一字だ。年の瀬、そして新年を前にして暗すぎだとか、縁起でもないとの意見もあるかもしれない。毎年毎年多くの人が亡くなるのだから、わざわざ今年の漢字として選ぶものでもないではないかと言う人もいるだろう。たしかにそうかもしれない。

だが今年ほど「死」、そして命の軽重、命の格差について改めて考えさせられた年はなかったというのが、私の率直な感想である。なぜなら在宅医療をする立場として、経済格差が命の格差につながる現実を、嫌というほど実感させられたからだ。

■「軽症」のはずが、死亡者はむしろ増えた

今も収束が見えないコロナ禍であるが、今年は感染者の急増で幕を開けた。2021年夏の怒涛(どとう)の第5波の後は、10月から12月まで私たち医療現場の人間も文字通り「ひと息」つけていたのだが、オミクロン株の出現以降、急速な感染拡大が起こり、年初から始まった第6波は過去最多の感染者と死亡者を数えるに至った。そしていったんピークアウトし、新年度から5月そして6月と束の間の平穏の後に訪れた第7波。これも過去最多の感染者と死亡者を生じさせてしまったのである。

オミクロン株というと、「軽症」「カゼのようなもの」との印象を持たれている方も少なくないだろう。事実、第5波の時のような重症者が次々に外来に訪れるという事態とはならなかった。しかし感染者の急増に伴い、命を落とす人はむしろ増えたのだ。本稿執筆時点でわが国の新型コロナによる累積死亡者数は5万5000人を超えているが、その6割の3万5000人以上が、オミクロン株発生以降、すなわち今年に入ってからの死亡者なのだ。

■「老衰」扱いされているケースが少なくない

新型コロナ上陸前の直近数年の季節性インフルエンザによる死者は年間2000~3000人(間接的な影響も含めた推計でも約1万人。ちなみに2009年の新型インフルエンザを直接死因とした死者は198人)だ。これらと新型コロナによる死亡者数とを単純に直接比較することは適当でないにしろ、この今年に入って3万人超という数字がいかに大きなものかは理解できよう。しかもこの数字は、新型コロナを直接死因としない人も含んではいるとはいえ、けっして過大評価されたものとは言えないのだ。

例えば、感染しても高熱が出ないなど症状が軽微であって、急性期症状も落ち着き、療養期間が明けたにもかかわらず、感染をきっかけに急速に食欲が減退し衰弱死してしまった高齢者、彼らの死亡診断書の死因は「老衰」とされ、書類を作成する医師によっては、直接死因の経過に影響を与えたものとして「新型コロナウイルス感染症」に罹患(りかん)したことさえも記載されぬまま、真実が文字通り“葬られて”しまうこともあるのだ。

これらの人は、新型コロナの流行がなく、新型コロナに罹患さえしなければ亡くならずに済んだであろうはずなのに、これらの数字にさえ反映されないのである。

厚生労働省は今月7日、この第7波の7~8月、自宅での死者が全国で少なくとも776人いたと発表したが、これは第6波を上回るものであった。半数以上は80歳代以上、7割が基礎疾患ありとのことだが、死亡直前の診断時の症状は「軽症・無症状」が41.4%と最多であったという。つまり軽症だからといって命に関わらないとは限らないのだ。

こうして適切な医療にたどり着けないばかりか、十分なフォローアップさえされずに自宅死となる人が多数発生している一方で、元首相経験者や首長などは、軽症であっても当然のように入院して手厚い治療に難なく到達しており、命の格差をまざまざと見せつけられた。

■戦死者が野ざらしにされる一方、荘厳な国葬が行われた

「3年ぶりに、緊急事態宣言等の行動制限を行わずに、今年の夏を乗り切れたのは、国民の皆様お一人おひとりが、基本的な感染対策を徹底してくださったおかげです」

これほどまでの史上最悪の死者、自宅死が相次いだにもかかわらず、10月3日の第210回臨時国会の所信表明演説において、こう述べた岸田文雄首相の言葉に私は思わず天を仰いだ。彼には、これらの死者一人ひとりの顔を思い浮かべようという気持ちはあるのだろうか。命の重みというものを本当に理解していれば、このような演説はとてもではないができないだろうと私は思う。

死者一人ひとりには、異なった名前があり、異なった顔があり、それぞれに異なった人生を歩み、それぞれに大切な人がいる。そしてその命の重みは、いかなる人でも、いかなる命の失い方をした人でも、貧富の差、身分や地位、財力の多寡にかかわらず、等しく重いことは疑う余地もない。本来は当然そうあるはずなのだが、ロシアのウクライナ侵攻でいまだに多数の戦死者が野ざらしになったままである一方で、女王や首相経験者には荘厳な国葬が執り行われるという「命の格差」を見せつけられたのも、この一年であった。

■数々のお看取りを経験してきた身として

この命の重みは、たとえ凶悪犯罪を犯した死刑囚のものであっても、けっして軽いものではない。しかしそれをこともあろうに所管する法務大臣が、ウケ狙いのジョークような扱いで語っていたことも明るみに出た。

葉梨康弘法相が所属する岸田派のパーティーの席上で、自らの職務に関して「朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」などと発言した。法務大臣の職務を軽んじた発言ということで結果的に更迭となったが、職務以前に、彼が人として「死」そして命の重みをまったく理解できていないことに私は驚愕とともに、底知れぬ恐怖を覚えた。

私は医師という仕事柄、そして在宅医療という分野で高齢者や末期がんの患者さんと日々接するなかで数々のお看取りを経験してきたこともあり、「死」と接する機会が非常に多い。多くの人にとっては非日常である「死」が、私にとっては日常の一部にすらなっており、ややもすると「死」というものに対する感覚が鈍麻してしまっているとさえ言えるかもしれない。しかしそれを迎える一人ひとりにとってすれば、人生で唯一の、最大かつ最後のイベントであることに変わりない。それだけは常に意識している。

患者の手に手を重ねる医師の手元
写真=iStock.com/Chinnapong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chinnapong

■経済的な苦しさから我慢を続けてきた患者さん

在宅医療をしていると、じつにさまざまな疾患を持つ患者さんに接するのだが、とくに自分よりも若い方の終末期、さらに最後まで苦痛が取りきれなかった方に対する過去の診療経験を思い出すたび、今でも胸が痛くなる。詳細については差し控えるが、他院から紹介されて私が訪問診療を開始したときにはすでに、ある呼吸器疾患の終末期であった。

数年前に医師から「もう治らない病気」と言われてしまったことから、「もう通院しても仕方ない」と諦めて受診しなかったところ、医師から治療する気がないとみなされて匙(さじ)を投げられてしまったようだ。前医との具体的なやりとりまでは分からないが、両者の認識に行き違いがあったことは間違いないようだった。

そしてその残念な経緯から、彼の心の中には少なからず「医師への不信」が存在していると考えられた。常時酸素吸入をしないと呼吸困難に陥ってしまう状況であったが、経済的にも苦しいとのことで、ギリギリまで訪問診療の回数も増やさず我慢されていた。

しばらくは小康状態だったが、その後急速に呼吸状態が悪化。ついには入院もやむなしとの局面となったものの、それでも最後まで自宅にとどまることを選択されたため、こちらとしても在宅のままで可能な限り苦痛を軽減しようとすべく薬物治療を行い続けた。しかしけっきょく最後まで苦痛を緩和しきれなかった、という事例である。

■経済的な事情で選択肢が狭められてしまう

この方に経済的な問題がなかったら、どうだったであろうか。死は早晩訪れたであろうが、もう少しきめ細やかに最後の苦痛を緩和できたのではなかろうか。

いや、たとえ入院できたとしても、完全に苦痛が除去できたかといえば極めて困難だったであろうし、昨今のコロナ禍で家族とも頻繁に面会することもできず、家族に看取られることなくたった一人、病室で亡くなることになったかもしれない。経済的な理由よりも、仮に苦痛に喘(あえ)ぎながらでも、住み慣れたわが家で家族に見守られて最後を迎えたいというのが、入院を拒んだ理由であったのかもしれない。

ただ経済力さえあれば、もう少しきめ細やかな治療やケアを行えたのではないかと思われる事例は、残念ながら実態として少なからず存在する。経済的な事情によって選択肢が狭められてしまうという事例には、それこそ日常的に遭遇するのだ。医療や介護にかかる自己負担金は、現在でも少なくない家庭に大きな負荷となっている。それにもかかわらず、政府はその個人に課する負担をさらに増やしていこうとしている。それが今の日本の現状なのだ。

■「カネの切れ目が命の切れ目」と言わんばかり

まさに「カネの切れ目が命の切れ目」、経済力のある人とない人の「健康格差」「医療格差」すなわち「命の格差」は、このまま命の重みを理解できない、理解しようとしない為政者に政治を任せていけば、いっそう開いていくことになるのは目に見えている。私たち一人ひとりが、この国の政治を司る者たちの「命」や「死」に対する考え方や言動、それに基づいた政策を常に厳しくチェックし、正していく必要があるだろう。

「生」の数と同じだけ存在する「死」。誰にでも訪れるものだが、その「死」の訪れ方はさまざまだ。温かい布団の中で大切な人たちに囲まれて見送られる人もいれば、誰にも気づかれずに孤独に息を引き取る人もいる。まったく予期せぬタイミングで他者によって突然人生を断ち切られてしまう人、自ら命を絶ってしまう人、守ってくれるはずの国家によって死に追い詰められる人もいる。

こうして「死」というものに日常的に接し続けている私ではあるが、「不幸な死」と「幸せな死」の境界がどこにあるのか、そもそもそれらの境界など存在するのかさえも、正直のところ分かってきたとはとても言えない。ただ、これからも「死」に接し続けていく者として、少なくとも「不幸な死」を迎える人がこれ以上増えることがないよう、常に「死」と「命の尊厳」について初心、原点に立ち返って見つめ直し、来年以降も発言し続けていきたいと考えている。

----------

木村 知(きむら・とも)
医師
医学博士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。1968年、カナダ生まれ。2004年まで外科医として大学病院等に勤務後、大学組織を離れ、総合診療、在宅医療に従事。診療のかたわら、医療者ならではの視点で、時事・政治問題などについて論考を発信している。著書に『医者とラーメン屋「本当に満足できる病院」の新常識』(文芸社)、『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)がある。

----------

(医師 木村 知)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください