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NHK大河ドラマとはまったく違う…史料に書かれている2代執権・北条義時の本当の死因

プレジデントオンライン / 2022年12月24日 13時15分

小栗旬氏。富士通のスマートフォン「arrows」シリーズ新商品、新CM発表会。東京都港区(写真=時事通信フォト)

鎌倉幕府2代目執権・北条義時の死因はなんだったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料には、体調不良による病死と書かれている。NHK大河ドラマで描かれたような毒殺だとは考えにくい」という――。

■ドラマの主人公・北条義時の最後の言葉

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回「報いの時」(12月18日放送)では、主人公・北条義時の死が描かれました。

義時はどのような死を迎えるのか? ネット上でも推測が飛び交っていました。が、結果は、妻・伊賀の方(ドラマでは「のえ」)による毒殺でした。

のえは、義時の嫡男・泰時ではなく、自分が産んだ義時との子・政村に家督を継がせたい。それが動機だと描かれました。

終盤、毒によって弱った義時と姉・北条政子が会話するシーンとなります。

義時は2代将軍・源頼家(母は政子)を謀殺したことを、政子の前でうっかり話してしまいます。

さらに、後鳥羽上皇の血を引く帝を殺害する意向をも示します。「まだ手を汚すつもりですか」と驚く政子に対し「この世の怒りと呪いを全て抱えて、私は地獄に持っていく。太郎(泰時)のためです」と悲愴な決意を表明します。

身体の自由がきかない義時は政子に薬を飲ませて欲しいと求めますが、政子は薬が入った小瓶を捨ててしまう。

「私はまだ死ねない。まだ…」と這って、薬(液体)が溢れたところに向かう義時。義時が薬を口に含もうとした瞬間、政子が袖で、薬を拭いとってしまうのです。

もがき苦しむ義時に、泰時が立派に後を継いでくれると告げる政子。「姉上」が義時最後の言葉でした。政子は絶命した弟に「ご苦労さまでした。小四郎(義時)」と労いの言葉をかけ、物語は終幕するのです。

「鎌倉殿の13人」では、主人公・義時は数々の陰謀・謀略に加担し、政敵を葬ってきました。毒殺~政子との会話までの展開は、最終回の題名「報いの時」に相応しいシーンだったと思います。

大河史に残る素晴らしい最終回でしたが、義時は本当に毒殺されたのでしょうか?

■史実に残された義時の本当の死因

1224年6月13日、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時は、この世を去ります。62歳の生涯でした。

義時の死について記された鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』を見ていきましょう。

■病の義時の前に集まったのは政子ではない

まず、死の前日(6月12日)、この日は雨が降っていたのですが、その午前8時頃には、義時は既に「病惱」、つまり、病になっていました。とはいえ、この日に急に病気になったわけではなく、前から少し体調不良であったようです。

が、重病でどうしようもないというわけではなかったとのこと。それが、6月12日の朝になって、急に重症となったのでした。

義時の病にどのように対応するのか? 現代ならば、病院に行き、医師に診察してもらったり、薬を貰ったりするでしょうが、当時は違いました。陰陽道に基づいた呪術を行う陰陽師が招集されたのです。

陰陽師といえば、平安時代の安倍晴明が有名ですが、義時の病の時は安陪國道・安陪知輔・安陪親職・安陪忠業・安陪泰貞らが呼ばれたのでした。

安倍清明判(あべのせいめいはん・あべせいめいばん)は、日本の家紋「安倍清明判紋」の一種である。五芒星ともいい、ペンタグランマと同様に魔よけの意味を持つ。土岐氏の血縁の一族において桔梗紋の代用としても用いられ、「清明桔梗」とも呼ぶがこちらの図案は多少、線が太く描かれる。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
安倍清明判は、日本の家紋「安倍清明判紋」の一種である。五芒星ともいい、ペンタグランマと同様に魔よけの意味を持つ。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

彼らはまず、占いをします。その占いの結果は「義時の病は大したことはなく、午後8時頃になれば良くなってくる」というもの。そんな結果を出した上で、彼ら陰陽師は祈祷を始めます。

天地災変祭(天災地変をはらうために行なう祭)、三万六千神祭(災いを祓う祭り)、属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)、如法泰山府君祭(泰山府君は中国古代の神。仏教の閻魔大王と習合し、人間の寿命を支配するとされた)を行いました。さらに、五種類の形代(馬、牛、男、女、着物)も用意されました。形代に災いを移し、義時を助けるためです。

陰陽師の懸命な祈祷が進められますが、義時の病状は悪化するばかりでした。そして、いよいよ運命の日(6月13日)を迎えます。

■「日頃から脚気を患っていた」

この日も雨が降っていました。義時は、いつ亡くなってもおかしくない状態だったようです。

寅の刻(午前4時頃)に出家をし、巳の刻(午前8時~午前10時)に、義時は息をひきとりました。

義時を死に至らしめたものはなんだったのか?

『吾妻鏡』は、「日者脚氣之上、霍乱計會す」と記しています。つまり、義時は日頃から脚気(かっけ)を患っていたというのです。それに「霍乱」(夏季に生ずる下痢や嘔吐を伴う体調不良)が加わる。それこそ、義時の死因だと『吾妻鏡』は記しています。

■毒殺説を書いた日記の存在

しかし、義時の死因については、病死以外の不穏なものがあるのです。そのことが記されているのが、歌人として有名な公家・藤原定家の日記『明月記』。

藤原定家の肖像画(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
藤原定家の肖像画(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その1227年6月11日条に「さっさと首を刎ねよ。そうでなければ、義時の妻(伊賀の方)が義時に盛った毒を寄越して早く殺せ」との一文が見えるのです。

これは、定家の言葉ではありません。鎌倉時代初期の僧侶・尊長(そんちょう)が発した言葉です。

尊長は、延暦寺の僧侶で、後鳥羽上皇の側近となった人物。上皇の倒幕計画にも参画。しかし、上皇の挙兵(承久の乱、1221年)は、上皇方の敗北に終わります。尊長は乱後、行方不明となります。それが、1227年6月に京都で発見されるのです。

尊長は捕縛され(『吾妻鏡』)、六波羅に連行されますが、6月8日に息絶えます。

捕縛された尊長は、前述の発言をします。周りにいた者が驚くなか、彼は「死のうとする時に、なぜ嘘を言おうか」と言い放ったといいます(ちなみに、『吾妻鏡』には『明月記』に書かれた尊長の言葉は書かれていません)。

■「尊長=義時毒殺の黒幕説」を検証する

尊長こそが、義時毒殺の黒幕だったという説もあります。

義時の死の直後、伊賀氏の変という政変が勃発します(1224年6月から閏7月)。

この騒動は、御家人・伊賀光宗と、その妹で義時の後妻・伊賀の方が、実子・政村の執権就任と、一条実雅の将軍職就任を画策したとされるものです。

一条実雅と尊長は兄弟だったことから、そうしたことから、尊長=一条実雅=伊賀氏が結び付き、北条義時を毒殺したのではないかと言われているのです。

しかし、尊長と一条実雅は兄弟といっても異母兄弟。年齢にも30もの開きがあります。しかも、尊長は承久の乱において、上皇方に味方しましたが、実雅は鎌倉方だったのです。

つまり、尊長と実雅の関係は親密とは言えません。

尊長と伊賀氏も結束する仲だったとも思えません。伊賀光宗の兄・光季は、承久の乱の際、京都守護の任にありました。上皇から加勢するように勧誘がありましたが、光季はそれを拒否。これにより、光季は、上皇方に攻められて自害しているのです。

伊賀氏にとって、上皇方は仇だったと言えましょう。上皇方の中心人物・尊長と伊賀氏が結び付くとは思えません。伊賀氏にしても、義時を殺すことにメリットはなかったと思われます。

■伊賀の方による毒殺はあり得ない

伊賀の方が我が子・北条政村を執権にしたいと考えた時、一番頼りになるのは、夫の義時だったはずです。

最大の頼みの綱・義時を毒殺することは、政村の執権就任をかえって遠ざけることにつながるといえるでしょう。余談ですが、大河では毒の入手先を義時の盟友である三浦義村としていましたが、史実ではありません。

なぜ、尊長は、伊賀氏が義時を毒殺したなどという「嘘」を言い放ったのでしょうか。尊長は、これまで見てきたように、6年もの間、潜伏生活を続けていました。そして、捕縛の際には自殺をはかっていた。捕縛されたら、死刑に処されることは一目瞭然。そうした状況にある尊長は、自暴自棄に陥り、北条氏や伊賀氏に対する恨みから、前掲の言葉を吐いたと思われます。

■義時の次男・北条朝時による証言

義時が病死だったとする説を更に裏付けるのは、中世鎌倉において形成された聖教資料『湛睿説草(たんえいせつしょ)』です。

義時の次男・北条朝時が、1224年閏7月2日に、父・義時の四十九日の仏事を行った際、仏前で読みあげられた言葉を記したもの(「慈父四十九日表白」)があります。

それによると、義時は夏の初め頃から痛みを体に感じ、床に臥しがちであったが、秋の末に亡くなったとあります。

義時が亡くなったのは6月13日で、四十九日の仏事が閏7月2日に行なわれたことは問題がないとしても、秋の末に亡くなったという記述とは食い違います。この齟齬の理由は不明です。

しかし、前掲の史料を見ると、日頃から脚気を患い、それにプラスして暑気あたりによって衰弱し、死に至ったとする『吾妻鏡』の記述と被るものがあります。痛みというのは、足の痛みを指しているとも考えられます。

私は以上のことを鑑みて、義時は伊賀の方による毒殺ではなく、『吾妻鏡』に記されたような病死だったと推定しています。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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