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NHK大河ドラマでは描きづらい…「癒やしキャラ」の和田義盛が北条義時に受けたむごい殺され方【2022下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2022年12月28日 18時15分

和田義盛(画像=『前賢故実』/菊池容斎/PD-Japan/Wikimedia Commons)

2022年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。歴史部門の第2位は――。(初公開日:2022年10月16日)
鎌倉幕府を支えた13人の有力御家人の一人、和田義盛とはどんな人物なのか。歴史評論家の香原斗志さんは「NHK大河ドラマでは『癒やしキャラ』としても人気だが、政権を争う北条義時の挑発にのってしまい、一族もろとも滅ぼされてしまった。その殺され方はむごいものだった」という――。

■癒やしキャラ和田義盛の壮絶な最期

陰謀渦巻き、権謀術数あふれ、要人が次々と命を奪われていく『鎌倉殿の13人』は、歴代のNHK大河ドラマのなかでもとりわけ暗い。そんななかで癒やしキャラを一身に引き受けているのが、横田栄司演じる和田義盛である。

まるで達磨のようにあごひげを生やし、常に着物の袖や裾をまくり上げて、朴訥として田舎者丸出しだが、それが「かわいい」と評判なのだ。

ドラマのなかでも、3代将軍実朝が気分転換に出かける先は、和田義盛邸と決まっている。

そして、実朝に「親しみを込めて『武衛(宮城の警備を司る兵衛府とその官職の中国風の呼び名)』と呼んでいいですか?」と、間抜けな問いかけをし、実朝から、武衛とは親しみを込めて呼ぶ呼び名ではないし、それに自分の官職は「いまはそれより上の羽林(近衛府の中国府の呼び名)だ」と言われると、さっそく「参りましょう、ウリン!」と応じる。

そんな、観ていてつい微笑んでしまう場面が多い。だれもが疑心暗鬼になっている鎌倉で、義盛だけが唯一、清涼剤と呼べるような存在として描かれ、視聴者を「癒やし」ている。

しかし、その「かわいい」と評判の「癒やしキャラ」が、謀略の末に殺された比企能員や罪もないのに滅ぼされた畠山重忠と比較にならないほど、凄惨(せいさん)な最期を遂げるのだ。

■北条義時に警戒されたきっかけ

きっかけは承元3年(1209)5月、和田義盛が実朝に、上総介(上総国の国司筆頭、つまり長官。他国では“守”が長官だが、親王が守を務める上総で“介”が長官)に推挙してほしいと願い出たことだった。

実朝から相談を受けた政子は、源氏以外の御家人が国司になることは、頼朝の時代から禁じられているからと反対した。しかし、納得がいかない義盛は、大江広元にも嘆願書を出している。

たしかに頼朝が決めたことは重い。とはいえ、義盛が上総介への任官を望むのも、反対されて納得がいかないのも、わからないではない。北条一族は時政が遠江守になったのを皮切りに、義時は相模守、時房は武蔵守になっていたのだ。

将軍の縁戚とはいえ源氏ではない北条が続々と国司に任命されているのに、頼朝の挙兵以来、長く幕府のために働いてきた自分に、その権利がないわけがない。義盛がそう思っても不思議ではない。

義盛にはコンプレックスと裏返しの自負もあったはずだ。自分が属する三浦一族の総領は、ひと回り以上年下と思われる三浦義村だが、侍所別当として長年、御家人を統括してきたのは義村ではなく自分である。そして、そんな自分が北条に対抗するには、上総介になるしかないと考えたのだろう。

だが、実朝がためらっているうちに、後鳥羽上皇に仕える藤原秀康が上総介に任命されてしまい、義盛の望みはかなわなかった。結局、義盛が上総介への推挙を願い出たことは、北条義時に警戒心を抱かせただけで終わってしまった。

■クーデターに和田義盛の息子と甥の名

それから4年近く経った建暦3年(1213)2月、大きなクーデターが発覚した。千葉成胤が、謀反への参加を呼びかけてきた安念という信濃の僧を捕らえ、義時に差し出したのだ。

安念が白状したところでは、首謀者は信濃国の御家人、泉親衡(親平とも)。頼家の遺児(一幡や公暁の異母弟の栄実か)を将軍に立てて義時を討つという計画で、主な参加者が130人余り、協力者は200人を超えるほどの大規模なクーデターだった。

その後、関係者が続々と捕縛されていくが、そのなかに和田義盛の息子の義直と義重、そして甥の胤長がふくまれていたのだ。

そこで3月8日、上総にいた義盛は鎌倉に駆けつけて実朝に直談判している。息子らを赦免してくれるように頭を下げられた実朝は、義盛のこれまでの功績に免じて2人の息子を釈放した。

すると翌日、義盛は一族98人を引き連れて御所を訪れ、甥の胤長の釈放を願い出た。これほど大挙して押し寄せるというのも、かなり強引だが、今度は実朝も拒んだ。甥の胤長は首謀者のひとりとみなされたため、おいそれと釈放できないというわけだ。

この状況を利用したのが義時だった。すでに述べたように、上総介への推挙を願い出た時点で、義時は義盛を警戒していた。つぶすならいまだと思ったのかもしれない。

義時の家人が二階堂行村に胤長を引き渡す際、縛り上げた胤長をわざわざ、98人もの和田一族が並ぶ前を歩かせたのである。

■追い込まれた和田義盛がとった行動

一本気の義盛が、義時に強い憤りを覚えたのは当然だが、話にはまだ先がある。陸奥に流刑になった胤長の屋敷を義盛が強く所望した。そして、その願いはかなえられ、3月25日に胤長邸は義盛に与えられたが、わずか1週間後の4月2日、一転して義時に与えられることになり、義時は胤長邸に入っていた義盛の代官を強引に追い出している。

義時にすれば、警戒していた和田一族が大規模な謀反に関わっていた以上、もはや義盛と対決するほかないと腹をくくって、挑発行為を繰り返したのかもしれない。

4月15日には、義盛の孫の朝盛が出家して京都に向かっている。朝盛は実朝の和歌の会の常連で、実朝と義盛のあいだも、事実上、朝盛が取りもっていたのだが、もはや祖父の挙兵は避けられないとみて逃げたようだ。ただし、朝盛は武勇にも秀でていたので、義盛は強引に鎌倉に連れ戻すのだが。

■幕府転覆の最大の危機

そして5月2日午後4時ごろ、いよいよ義盛は義時を討つべく150騎で挙兵した。まず実朝の御所と義時邸を包囲している。取り囲まれた実朝の御所は、義盛の三男の義秀が門を破り、その後、火を放たれてすべての建物が焼失したという。義時邸でも家臣たちに多くの死傷者が出た。

しかも、比企の乱などの局所的な争いとは異なり、この和田合戦では鎌倉の市街が広く戦場となった。しかも2日にわたって戦われ、鎌倉が甚大な被害に見舞われただけでなく、幕府が転覆するかどうかの紙一重だった。それを引き起こしたのが、かわいいと評判の癒やしキャラの男だったのだ。

馬に乗った武士
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

むろん、義盛は実朝を殺そうとしたのではない。将軍の身柄を確保して、戦闘を有利に進めようとしたのだが、先に実朝を確保したのは義時側だった。

というのも、起請文(誓約書)まで義盛に渡していた三浦義村が義盛の挙兵後、すぐに寝返って義時側についたからだ。義盛は同じ一族の義村は当然、自分に味方すると思ったのだろうが、義盛と義村は三浦一族の総領の地位をめぐってもともと仲が良くなかったのだ。

しかし、もし義村が寝返ることなく、義盛が実朝の身柄を確保できていたら、義時側が勝利を収めたかわからない。事実、翌3日に鎌倉に集まってきた軍勢も、両者の戦いが拮抗(きっこう)してどちらが勝つかわからないので、義時側への参加を一時躊躇したほどだった。

義時は義盛を挑発して挙兵させたはいいが、下手をしたら逆に自分が討たれていた危険性もあったということだ。

■「合戦に励むのは無益である」

しかし、3日の午後6時ごろ、特にかわいがっていた四男の義直が討ち取られると、義盛は「長年かわいがってきた義直の出世を願っていた。今となっては、合戦に励むのは無益である」と、泣き悲しんだという。そして、あちこちを迷走した挙げ句、相手方の家臣に討ち取られた。66歳だった。

その後、五男義重、六男義信、七男秀盛以下が死に、長男の常盛らは逃げるが、結局、追われて自殺するなどしている。豪傑の三男義秀のみ安房(千葉県南部)に逐電して、行方が知れないという。

■和田を利用して出世した2人

和田合戦が鎮圧されると、5月5日に義時は、義盛が長く務めてきた侍所別当に就任した。つまり政所別当と侍所別当を兼務し、政治と軍事の大権を掌握したのだ。

そして6日には、義時の家人にすぎない金窪行親が侍所所司、すなわち次官になっている。自分の家人に御家人を統括させるということは、義時は一般の御家人よりも確実に上位に昇ったということだ。

また、当然ながら、幕府では三浦義村の存在感が高まっていく。要するに、素朴な「癒やしキャラ」を挑発した男と寝返った男が、力を増したのだ。とりわけ北条氏の覇権を決定的に確立する契機が、北条と肩を並べたいと願った和田義盛の行動だったのは、歴史の皮肉だといえよう。

■川にさらされた234の首

ところで、合戦の鎮圧後、義時は金窪行親らに命じて義盛以下の首を集めさせ、さらに甲斐国などで自殺した和田方の首も鎌倉に届けられ、片瀬川の河畔に並べられた和田方の首は、義盛以下234に及んだという。

頼朝の挙兵以来、苦楽を共にしてきた和田義盛の首を、一族もろとも川べりにさらす。その非情さがあってこそ、北条の覇権は確立された。しかし、「癒やしキャラ」の首がさらされるのは、視聴者にはいたたまれないことに違いない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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