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なぜ全員同じ字を書かせるのか…冬休み宿題「書き初め」は教育的に問題だと言える納得の理由

プレジデントオンライン / 2023年1月2日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

冬休み恒例の学校の宿題といえば「書き初め」だ。何枚も練習した上で、学校に提出したものが校内で掲示され、優秀作は表彰されることが多い。現役小学校教員の松尾英明さんは「書き初めはそれぞれが新年の抱負などを書けばいいのに、学校が課題の文字を決めるのはおかしい。また、仕上げた作品を全員分並べて掲示し、評価することに強い違和感を覚える」という――。

■正月の「書き初め」宿題はほんとうに必要なのか

小学校では冬休みの宿題の定番として「書き初め練習」がある。たいていの場合、「必要量」が指定されて、20~30枚以上、多いと50~100枚という場合もある。学校の狙いは、「書き初めで字を上手に書けるようになって、いい一年のスタートにしてほしい」なのだろう。

だが、あくまで書き初めの「練習」であるにもかかわらず、一番よくできたものを「清書」として選んで担任教員に提出し、それが「校内掲示用」「コンクール提出用」などに使われる。これがどうも筆者には納得がいかない。そんな考えを共有する現役教員も増えている。

そもそも冬「休み」に大量の宿題を出すということ自体、家庭教育に踏み込んで子供の時間を管理し、学校教育をし続けるのもいかがなものか。学校側の熱心な“親切心”によるものだが、かえって子供の自主性を損なう可能性もある。

ここには現代の教育における本質的問題が隠れているように感じる。「納得いかない無意味とも思える苦痛にも耐えよ」「やれと言われたことをやれ。その意味を考えるな」「みんながやることには従うしかない」「比較されることは仕方ない」……。そんな教え、もしくは暗黙の圧力が見え隠れしている。

「書き初め」の意味を改めて辞書で引いてみると「新年に初めて文字を書くこと」とある。

正月二日にするのが習わしであるようだが、本来はめでたい詩歌などを書く。つまり、練習し続けた字を書いてコンクールに出すようなものではなく、一律に与えられた課題でもない。上手でも下手でも、心をこめて自分で選んだ新年の抱負などを書き、決意を新たにすればいいのである。

ところが、「練習」として正月に書いた時点で、実は既に「書き初め」としての役割を終えている。本来の意味からすると、本末転倒である。

また書き初めを学校教育として行うのならば、「清書」は「校内書き初め大会」などの学校教育の場で書いたもののみを認めるべきである。家で書いたものを「清書」として出すのは、コンテスト実施の平等性を欠いている。

もっと言えば、書字に筆と墨を用いない現代において、冬休みに家庭でわざわざ書き初め練習をするという宿題内容自体を問う必要がある。年賀状すら、パソコンでプリントアウトが主流の時代だ。墨を用意して筆を用いて字を書く、というのは、多くの家庭においてかなりの「特殊状況」である。

■上手な子は毎年表彰され自己肯定感が上がるが……

過去にこれを学校教育に取り入れてきたことには、意味がある。かつては全てにおいて筆を用いて字を書いていたのだし、妥当性も大いにある。しかし、現代においてこれを「全家庭」「一律」に課す必要があるかと問われれば、明確に「NO」である。

とはいえ、現代における習字の習い事や、書道の価値を否定するものではない。これらは非常に価値がある。書道は伝統的な言語文化であり、芸術の一分野である。

ただし、学校で通常行っている「書写」の指導の目的は、これとはかなり異なる。ずばり「書き写す」の文字通り「字形を整えて書くこと」に尽きる。学習指導要領にも「各教科等の学習活動や日常生活に生かすことのできる書写の能力を育成することが重要」とある。

つまり、芸術としての「書道」とは明確に異なる位置づけである。

また、校内書き初め大会で書いた「書き初め」に限らず、普段の習字作品でもそうだが、一律の文字を全員分並べて掲示することには、強い違和感を覚える。ここについては自著『不親切教師のススメ』(さくら社)にも詳しく書いた。

当然だが、日常から習字教室に真剣に通っている子供の字は、際立って立派である。文句のつけようもないぐらい、輝いている。しっかり止め、払い……堂々たるものである。たとえ習字教室に通っていなくても、本当に情熱を注いで練習してきた子の字も同様に躍動し、輝いている。言うなれば、切磋琢磨(せっさたくま)してきた者同士の競演である。

それら努力の結果を掲示することには、教育的価値があると言えるだろう。

しかしである。教室に通わず、美しい字を書くことに特にこだわりのない子はどうだろう。

そんな興味もないし、比較しやすい同じ字を並べて掲示されるなんて、苦痛以外の何ものでもない。そんな児童も多いに違いない。ましてや両隣が立派な字である場合、なおさらである。

そしていつも褒められるのは、毎年同じ子供の作品である。コンクールで「金賞」や「特別賞」をもらうのも同様。得意な子供は何年に進級しても、やはり得意である。筆者のように習字が苦手な子供たちが、いつもより多少努力したぐらいでは到底及ばない。そして、多くの子供にとって、習字に対して高いモチベーションは、ない。

書き初め
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

習字に限らず、好きこそものの上手なれで、それぞれが得意なことだからこそがんばれるのである。好きでもないことは「最低限やる」「とりあえず課題を消化する」という程度しか努力できない。

苦手なことをひたすらやらされるというのは、苦痛でしかない。それはたとえるなら、運動が苦手でやりたくないのに親の趣味で行かされるダンスとか、別に好きでもないのに親の方針で通わせ続けられる音楽系とかの習い事、あるいは無理矢理塾に行かされ続ける子供の状態である。それによって得られる結果は「多少ましになった……かな?」程度だろう。

■正月から「100枚書かされる」子供の苦痛

本当に好き、あるいは目的意識のある人の出す結果とは、比較にならない。つまりは、「書き初め練習100枚」は、現代において改めるべき「冬休みの宿題」の一つである。多様性が認められる今の時代、ここにこれほどいらぬ負荷をかける妥当性はない。

家で書き初めを書く子供
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

繰り返すが、100枚練習すること自体が悪いわけではない。書くことへのモチベーションが高い子供、高みを目指す子供にとっては意味がある。その子供は「100枚書かされる」のではなく、「100枚以上書く」のである。

松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら舎)
松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら舎)

問題は、書かされる子供たちである。家の環境的に、到底それをやれるような状態にない子供もいる。家に書き初め用紙を広げて、集中して何時間も書き続ける、というのは、けっこう手間のかかる作業である。

そもそも、冬「休み」にわざわざ「宿題」を出してあげようというお節介な親切心からしてそろそろ見直すべきである。正月というのは、本来家族のみんなが休む時である。そのためにお節料理だってある。

ただでさえ短い冬休みなのだから、宿題から解放してあげてもよいのではないか。やがて受験生になればこの時期も勉強するしか選択肢がないのだし、休める時には休ませてあげればいい。そして当の受験生にとっては、学校の宿題による親切なぞ「邪魔」にしかならない。目の前の試験など、やるべきことに集中すべき時である。

せっかく「師走」の忙しい時期を駆け抜けたのだから、新年ぐらい、ゆったりと構えて迎えたいところである。

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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。

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(公立小学校教員 松尾 英明)

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