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ハンバーガーは210円→65円に…そんな無謀な価格競争が今の飲食業界に残した"痛すぎるツケ"

プレジデントオンライン / 2022年12月31日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ziga Plahutar

平成の外食産業では「ハンバーガー65円」のようななりふり構わぬ価格競争が起きた。なぜそんなことになったのか。日経ビジネス記者の鷲尾龍一さんは「バブル崩壊でファストフードやファミレスが低価格競争に走った。こうした平成の安売りは日本国民に『外食は安い』というイメージを植え付けてしまった」という――。

※本稿は、鷲尾龍一『外食を救うのは誰か』(日経BP)の一部を再編集したものです。

■バブル崩壊で始まった「外食デフレ」

1991~93年にかけて起こった日本経済のバブル崩壊の影響を受けて、外食産業も停滞期に入る。そこで進んだのが「外食デフレ」だ。

その予兆はバブル期の真っただ中にあった。日本マクドナルドが87年にセット価格390円の「サンキューセット」を打ち出し、ファストフードで低価格競争の口火が切られたのだ。同じ年にロッテリアが「サンパチトリオ」を導入して対抗し、競争はファミレスも巻き込んでいく。

80年代に「元祖ファミレス」の成長が鈍り、専門性を高めた業態を増やしていたすかいらーくは92年に「ガスト」1号店を出店した。「ハンバーグをすかいらーくの開業時の390円で売ったらどうなるか」(創業者の横川竟氏)という着想からファミレスの革新に挑んだ。

■「引き算の改革」で客単価800円でも利益を出した

すかいらーくは、成長路線に戻そうともがいている間に、メニュー数が大幅に増えていた。ガストではメニューを大胆に絞り込み、ほとんどの商品はコンベヤー式の熱効率が高いオーブンに流せば短時間で調理できるようにした。ベルシステムやドリンクバーを導入したことで、来店客に呼ばれるまで席へ行かずに済む。店員のユニホームや店内に置く植木もやめるなど、コストを徹底的に削減。客単価800円でも利益が出るようにした。これで、マクドナルドなどファストフードに対抗できるレベルになった。

単に原材料のレベルを落とすのではなく、最新の厨房機器の導入や、必要な店舗機能の絞り込みなど「引き算の改革」によって低価格を実現したガスト。それは「ファミレスのコストパフォーマンスの次元を変えたイノベーション」(外食産業の歴史に詳しい香雪社の齋藤訓之氏)だった。

■財布のひもが固い消費者を狙った「ガスト化現象」

横川竟氏は「すかいらーくの3店に1店をガストにして、お客さんが使い分けできるようにしたい」と社内で主張したと振り返るが、すかいらーくは猛スピードでブランドを入れ替える戦略を選んだ。ガストの利益がすかいらーくを上回ったためだ。さらに94年に低価格和食の新業態「夢庵」を出して追い打ちをかけた。

すると、ほかのファミレス企業も低価格業態の開発に注力するようになる。これらは「ガスト化現象」と呼ばれ、外食デフレの潮流を確たるものにした。居酒屋業界でも「つぼ八」のフランチャイズ店運営からワタミやモンテローザが卒業し、財布のひもが固くなった消費者に向けたより手ごろな居酒屋チェーンの展開を始めた。バブル崩壊による都心の地価下落が外食産業の低価格戦略を支えていた。

■マクドナルドは「価格破壊」でシェアを拡大

日本マクドナルドの藤田田氏は、95年を「マクドナルド強襲の年」と位置付け、商品の価格を大幅値下げする手に打って出た。デフレ経済で勝ち残るために、「価格破壊」で他社に体力勝負を仕掛けるという決断だった。現代ではソフトバンクグループが得意とするような「肉を切らせて骨を断つ」戦略だ。低価格攻勢で市場シェアを拡大し、定着した頃に収益化を図るというやり方は、創業者の覚悟があってこそなのかもしれない。

この戦略でマクドナルドは他社を圧倒した。95年にハンバーガーを210円から130円に値下げし、96年にはハンバーガー80円セールを実施。21日間で5000万個を売り上げたという。

ハンバーガーを59円に値下げしたマクドナルドの店舗=2002年8月6日、東京都千代田区富士見町
写真=時事通信フォト
ハンバーガーを59円に値下げしたマクドナルドの店舗=2002年8月6日、東京都千代田区富士見町 - 写真=時事通信フォト

さらに98年には65円にするセールを実施。このときは通常店の近くに低コストの「サテライト店」を出して、薄利「多売」を追求した。次々に攻めの戦略を繰り出すマクドナルドに他社はついて行けず、今もファストフード業界ではマクドナルドの一強が続く。

各社が競うように値下げを繰り広げていた97年、日本の外食市場規模は29兆円に上った。後から振り返れば、これが日本の外食産業のピークだった。

■人口減少と中食の台頭で外食市場は減少傾向に

1997年をピークに縮み始めた日本の外食市場は2000年以降も緩やかに縮小を続けた。理由の一つは人口の伸びが止まったこと。1960年に9300万人だった人口は、67年に1億人を超え、84年に1億2000万人に到達した。その後、伸び率は鈍化し、人口は2008年にピークを迎える。もう一つは外食率が天井に達したことだ。1997年に39.6%でピークを迎えた外食率はその後減少傾向が続き、2010年には24年ぶりに35%を下回った。

人口の減少と外食比率の低下が組み合わさって成長力を失う中、外食産業は混迷の時代に入っていく。ただし、外食の代わりに「自炊」が増えたわけではない。

外食に加えて持ち帰りの弁当や総菜などを含む「食の外部化比率」は外食率と似たペースで伸び、1997年に44.5%に達していた。その後は外食率が下がる一方で、食の外部化比率は同水準を維持している。単身世帯の増加を背景に、持ち帰って食べる「中食」が外食市場を侵食したと言われるゆえんだ。個店とチェーン、外食と中食といった枠組みを超えた生存競争が始まった。

■「外食は安いというイメージを植え付けてしまった」

90年代後半に始まった価格競争はさらに激しさを増し、「外食デフレ」が深刻化する。サイゼリヤは99年11月に「ミラノ風ドリア」を480円から290円に引き下げ、マクドナルドは2000年にハンバーガーの定価を65円に下げた。

01年には吉野家が牛丼(並盛り)を280円に下げ、キャッチフレーズを「うまい、はやい、やすい」から「うまい、やすい、はやい」に変更。「やすい」を格上げした。松屋やすき家なども価格を400円から200円台後半に設定。その値下げ競争は「牛丼戦争」と呼ばれた。リンガーハットも00年に長崎ちゃんぽんを380円まで下げるなど、大幅な値下げが各分野に広がった。この消耗戦が各企業の体力を奪っていく。

そんな時代を横川竟氏はこう悔いる。「平成の時代に安売りをして、外食は安いというイメージをお客さんに植え付けてしまった。外食業界は付加価値を高める挑戦を怠り、低価格という楽な方に走った」

■外食企業の消耗戦が与えた影響

外食企業による消耗戦は経営の余裕を奪い、様々な問題を誘発した。07年には、不二家の工場でシュークリームの原料として消費期限切れの牛乳を使用していた問題が明らかになった。不二家は外食産業の黎明(れいめい)期にサービスの質の高さや店舗数で隆盛を誇った歴史を持ち、ロイヤル創業者の江頭氏が1955年に「不二家をしのぐ」との目標を掲げるほどの存在だった。

当時の報告書によると、廃棄がためらわれる環境にあったことが原因だった。牛乳自体は超高温で殺菌されており、食べた人の健康に影響を与えることはなかった。とはいえ、会社の方針としてコストダウンが強く打ち出されており、品質管理が二の次になっていたことは否めない。

鷲尾龍一『外食を救うのは誰か』(日経BP)
鷲尾龍一『外食を救うのは誰か』(日経BP)

同じ07年、高級料亭の船場吉兆が商品に別の高級産地のラベルを付けて販売した産地偽装問題が発覚する。さらに船場吉兆の外食店舗でも、客が手を付けなかった料理を別の来店客に提供していたことが明らかになった。著名企業や老舗が起こした不祥事で、消費者の外食産業に対する信頼は揺らぎ始めた。

13年には阪急阪神ホテルズでメニューと異なる食材を使用する偽装表示問題が起きた。同社は当初「誤表示」と説明したが、最終的に偽装だったと謝罪。初期対応のまずさで傷を深くした。不祥事を起こすだけでなく、原因を追究しないままごまかそうとする姿勢は外食産業全体の未熟さを象徴していたとも言えそうだ。

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鷲尾 龍一(わしお・りゅういち)
日経ビジネス記者
1986年、兵庫県生まれ。2008年京都大学法学部卒業、読売新聞大阪本社入社。4年半の地方勤務を経て経済部へ。10年近くにわたり、大阪や東京で小売りや電機、インフラ、金融、スタートアップなどの業界を取材した。19年8月から日経ビジネス記者。総合商社の動向や企業買収の現場、外食業界などを重点的に取材している。

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(日経ビジネス記者 鷲尾 龍一)

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