「あの大将首を獲った武将をクビにしろ」部下管理のプロ・家康が大手柄の猛将を即切り捨てた納得の理由
プレジデントオンライン / 2023年1月11日 9時15分
※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■リーダーとしての三人の差はどこにあるのか
信長・秀吉・家康の三人の性格をいい伝えた言葉に、有名な「鳴かないホトトギス」に対する川柳がある。
秀吉:鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス
家康:鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
これは、天下人としての、歴史に対する役割分担を表しているものだという説もあるし、また、いや、三人の性格をいい表したものだという説もある。性格説に従えば、信長は短気であり、秀吉は自信家であり、家康は忍耐家であるということになる。一般に、この性格説が行き渡っているので、リーダーにたとえると、次のようになるといわれている。
秀吉:手柄を立てた者には、金や褒美を惜しまないので、下の者の受けがいい。いってみれば、巧妙なオダテ型リーダーである。
家康:子どもの頃から苦労しているので、部下思いだ。我慢強く慎重で、多少複雑なところがあるが、家臣団の結束力は、信長や秀吉のそれに比べると最も強い。
三人は本当にこういう言い伝えどおりの人間だったのだろうか。
それを覆す、あれっ、と思うようなエピソードがある。そのいくつかを拾ってみる。
■信長の人間的温かさ
ある年の春、信長は出陣した。尾張国を通過中、畑の脇を通りかかると、ポカポカ暖かいので、一人の農夫がいい気持ちで草の上で寝ていた。これを見た信長の部下が怒った。
「あの農夫はとんでもない奴です。ご領主様が、この国に住む人間のために戦(いくさ)に出掛けるというのに、見送りもせず大の字に寝て、高鼾(いびき)をかくとは許せません。血祭に斬ってしまいましょう」
と息巻いた。ところが、信長は笑ってこう応えた。
「止(や)めろ。俺の国では農民がいつもああいうように、高鼾で寝られるようにしたいのだ。それが俺の願いだ」
この言葉は、戦争好きといわれる信長が、実は日本に一日も早く平和をもたらしたい、という志を持っていたことを示すものだ。かれは、同時代人のニーズをよく知っていた。特に民衆が、
「一日も早く戦国を終わらせて、生命や財産に安心感が持てるような世の中にしてほしい」
と願っていることを知っていた。かれが、集団戦法や科学兵器を導入して、戦争終結のスピードアップをしたのはそのためだ。
■「この金で、この男に家を建ててやれ」
信長が、岐阜城を出て、京都に向かったことがあった。美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)との境にある山中というところを通過したとき、一人の物(もの)乞(ご)いがいた。まるでサルのような姿になって、信長に手を差し出し、何かくれといった。信長はその男に聞いた。
「なぜ、こんな山の中でおまえは物乞いなどしているのだ?」
男は応えた。
「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剝ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります。その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました。おそらく、天の罰が当たったのでしょう。ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」
この時、信長はただそうかと頷(うなず)いただけで、通り過ぎた。が、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は付近の村人を全部集めた。持っていた金を出してこういった。
「この金で、この男に家を建ててやってくれ。そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてくれ。この男は殊勝な気持ちの持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」
■嬉しそうに笑った信長
信長の優しい気持ちにほだされて、村人たちは、必ずそうしますと誓った。一年後、信長がまた山中を通過したとき、辺りは見違えるようになっていた。そして、慈(いつく)しみ深い表情をした一人の中年者が走り出て、信長の前に手をついた。
「誰だ?」
聞くと、男は、
「あのサルの物乞いでございます」
といった。信長は驚いた。
「見違えたぞ。いったい、何が起こったのだ?」
「あなた様のおかげでございます。村の人たちが大変温かくしてくださり、いまはこうして村のためにいろいろと働かせていただいております。それと、いつかお話しした私が物を盗った女性が、この間たまたまここを通りかかりました。私は、あの時のことを詫びて、盗った物を全部返しました。女性は、そんなことはもう忘れたといってくれましたが、気持ちがスッキリいたしました。そんなこんなで、私の気持ちが洗われ、もう一度人間に戻ることができました。有難うございました」
これを聞くと、信長は嬉しそうに笑った。そして男に、
「よかったな」
といった。
■信長の国では強盗も人殺しも出ない
信長が治めた岐阜や安土は、道路や橋が整備された。今でいえば、都市基盤が整備された。
それだけではなかった。信長の治める国では、絶対に強盗や人殺しが出なかったという。だから、夏でも住む人々は窓や戸を空け放したまま寝ることができた。また、旅人が木の陰で寝込んでしまっても、持っている荷物を盗む者は誰もいなかった。
こんなところにも、信長の意外な優しい一面がうかがわれる。かれが若い頃、その“うつけ”ぶりを発揮していたのを悲しんで、傅役の平手政秀が諫死した。信長はひどく傷付き、事あるごとに空に向かって政秀の霊に、「政秀、元気か?」などと呼びかけた。これも、かれの意外な一面である。
信長は本当はそういうふうに優しい一面を持っていたが、何しろかれが歴史に対して果たさなければいけない役割は、「日本の古い価値観の破壊」だったので、ゆっくりしていられなかったのだろう。かれは時代の疾走者であった。そのため、いろいろ誤解が生まれた。
■意外に冷たい秀吉
巧妙なオダテ型リーダーであり、人情家であった秀吉に、意外と冷たい面があった。
かれの出身地は尾張の中村だ。天下人になった時、出身地である中村の住民たちが、秀吉のところに、大根と牛蒡(ごぼう)を持って来た。大根と牛蒡は中村の名産品である。秀吉は喜んだ。
「これからも毎年、年頭の祝い物として大根と牛蒡を届けてくれ。その代わり、中村に対する税は免除しよう」
といった。農民たちは喜んだ。その後秀吉が関白太政大臣になった時、農民たちは悩んだ。
「人民として最高の位に就いた秀吉様に、今度の正月の祝い物が、相変らず大根と牛蒡でいいのか?」
ということである。相談した村人たちは、結局、「大根と牛蒡を止めて、今年からは越前の綿をお持ちすることにしよう」と決めた。越前の綿は当時大変な貴重品だったからである。
早速、越前に走って高い綿を買い、秀吉のところに届けた。すると、秀吉は顔色を変えた。怒ってこういった。
「馬鹿者、なぜ越前の高い綿など俺のところに持って来るのだ。いまの俺は、日本中欲しい物は何でも手に入る。俺が欲しかったのは、土だらけの大根と牛蒡だ。生まれ故郷である中村の素朴なおまえたちの気持ちだ。それを、俺が少し偉くなったからといって、変な勘繰りをし、こんな品物を持って来る。それだけの余裕があるのなら、今年からは他の村と同じように税を課する。いいな?」
その時の秀吉の顔はまさに鬼のようで、中村の農民たちは震えあがった。そしてつくづく自分たちの心得違いを悟った。が、秀吉は許さなかった。その後、生まれ故郷である中村も例外としないで、普通の税を掛け続けた。
■秀吉が批判した信長の欠点
信長が死んだ後、秀吉は信長についてこういっていたことを振り返りたい。
「信長様は、勇将ではあったが良将ではない。いったん他人を憎むと、その恨みは最後まで続いた。その人間だけでなく、家族も根絶やしにしなければ気が済まなかった。信長様は人から恐れられはしたが、愛されることはなかった。明智光秀が反乱を起こしたのもそのためだ」
秀吉は、信長に発見されたからこそ天下人への道を辿れた人物だ。信長を絶対の主人と考え、信長の履く草履を胸に抱いて温めるほどの忠義ぶりを尽くした。あれだけ側(そば)にいて、信長の全人格を知り尽くしているはずなのに、こういう批判を加えている。ということは、信長の温かい面が、やはり秀吉にも完全には理解されていなかったことを物語る。ということは、逆に秀吉の人間洞察力にも限界があったということである。
■「部下の私があなたをクビにするのです」
秀吉に、「主人は一年、部下は三年」という言葉がある。これは、秀吉にいわせれば「主人が部下を駄目部下かどうかを見抜くのは一年、反対に部下が主人を駄目主人かどうかを見抜く期間は三年だ」ということである。
秀吉は若い頃浜松に行って、松下嘉兵衛という今川家の部将に仕えた。要領のいい秀吉は間もなく、会計責任者になった。ところが、これに嫉妬した古い松下家の部下たちが、
「秀吉は金を盗んだ」
と噂を立てた。困った松下は秀吉を呼んで、
「噂が噂だということは知っている。しかし、自分は古い部下たちも大事にしたい。悪いが、おまえは新参だ。退職金をやるから出ていってくれ」
といった。この時秀吉はこう応じた。
「出ていきますが、あなたが私をクビにするのではありません。部下の私があなたを駄目主人とみなしてクビにするのです。退職金はいりません」
これは、主人が部下を選ぶ権限があるのと同様に、部下の方でも主人を選ぶ権限があるということをいったものだ。つまり、“下剋上”の思想を、秀吉もはっきり持ち、実行していたことを物語るエピソードだ。
■家康が「手柄を立てた武将」をクビにした深いワケ
部下思いの家康に、こんな言葉がある。
「水はよく船を浮かべる。しかし、またよく覆す」
鋭い言葉だ。水を部下、船を家康に置き換えると、意味がはっきりしてくる。つまり、家康にとっては、「部下というのはそれほど油断のならないものなのだ」ということだ。かれの部下管理法は、人情一辺倒だったわけではない。相当に知的な工夫が凝らされている。
ある合戦で、ある大名の旗本が敵の大将の首をとって、真っ先に家康のところへ見せに来た。
家康はその旗本を誉めた。が、こんなことを聞いた。
「おまえが敵の大将と戦っている時、おまえの主人は何をしていたのだ?」
旗本はちょっと考えたが、
「さあ、戦いに夢中になっていてわかりませんでした」
と応えた。家康はそうかと頷いた。旗本が去ると、家康は使いをやってその大名を呼ばせた。そして、
「さっき自分のところに首を見せに来た旗本をクビにしろ」
といった。
大名はビックリした。
「あの男は大変な手柄を立てて、あなた様からもお誉めの言葉を頂戴した者です。これから重く用いたいと思いますが」
「いや」
家康はクビを振った。
「旗本というのは、どんなことがあっても必ず主人の側(そば)にいて、守らなければならない役割を負っている。それを乱戦になったからといって、自分から敵の大将の首を取りに行くような旗本では役に立たない。もし、その間にあなたが殺されたらどうするのだ? そんな旗本は自分の責任を放棄しているのだ。クビにしなさい」
大名はいまさらながら家康の厳しさに背筋を寒くしたという。
■家康の硬軟使い分けの妙
家康が岡崎城主だった頃の話だ。夜になると城には宿直者が泊まった。三人で一組だった。ところが、三人は相談して、一人が残り、二人は近くの花街へ遊びに行く慣わしにした。
ある夜、いつものとおり二人が花街に行ってしまうと、家康が入ってきた。残っていた一人はビックリした。真っ青になった。家康は「他の二人はどうした?」と聞いた。家康はすでに、宿直者の三分の二が遊びに出掛けていることを知っていた。嘘がつけず、残っていた宿直者は、実はこうこうだと白状した。
家康は、その宿直者の肩を叩いてこういった。
「おまえは馬鹿だな。なぜ、一緒に遊びに行かないのだ? 今夜は俺が宿直をするから、おまえも早く行って遊んでこい」
真っ青になった宿直者は、遊びに行った二人のところに飛んでいった。二人も真っ青になって帰ってきた。家康は、しかしニコリと笑うと、
「これからは気をつけろよ。まだまだ油断ができない世の中だからな。今夜のことは忘れよう」
といった。
こういうように、硬軟使い分けをするところが、家康の人情の機微に触れた心憎い管理法だったのである。
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歴史小説家
東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。
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(歴史小説家 童門 冬二)
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