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惨めに大敗しても大満足……周囲の反対を押し切った家康が「負け戦」にわざと出陣してまで得たかったもの

プレジデントオンライン / 2023年1月23日 9時15分

狩野探幽筆「徳川家康像」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

徳川家康は、「忍耐」の男だったというイメージがあるが、本当にそうなのか。歴史小説家の童門冬二さんは「実はただ漫然と我慢していただけではないという。実はその慎重さとは裏腹に、時機をみて周囲の目をむかせる果敢な行動をとり、人間心理を巧みに操っていた」という。家康はどのように世論を味方につけ、天下を奪い取ったのか? その秘密は、「慎重」と「果敢」の絶妙なバランスにあった――。

※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し」

東照公御遺訓として、次のような言葉が残っている。

「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ
勝つ事ことばかり知りて まくる事を知らざれば 害その身にいたる
おのれを責せめて人をせむるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり」

サッと読めば、徳川家康は常に「忍耐」を旨として、何でも我慢していたのだと思いがちだ。かれは幼少年時代、織田家と今川家の人質であったために、余計そういう感を持つ。

しかし徳川家康は、なにもかも我慢をし続けていたわけではない。確かにかれは物事に対して慎重だった。しかし、やらなければならないときは、周りの人々に目をむかせるような果敢さもあった。

■「庭に放尿」で侮辱に対抗した幼少期

たとえば、かれが少年時代に今川家の人質になっていたときに、武田家から今川家に使者がやってきた。今川家の首脳部と談笑する武田家の使者は、

「そういえば、当家にはあの意気地なしの松平の小倅(こせがれ)が人質として捕われておりますな」

といった。

たまたまこのとき、その部屋の脇の廊下を少年家康が通りかかった。家康はこれをきくと、いきなり袴の前をまくって、庭に放尿をはじめた。気づいた今川家の首脳部と武田家の使者はびっくりした。

特に驚いたのは今川家の首脳部である。というのは、家康は比較的扱いのいい少年で、駄々をこねることなど全くなかった。つねに控えめで、学問に精を出し自分の存在を極力抑えてきた。それが、こんな真似をしたのである。

今川家の首脳部と武田家の使者とは顔を見合わせた。

(この少年は、勇気がある)

と感じたのである。家康にとって、なによりも大切なのが「名誉」であり「面目」である。織田家と今川家という実力者の間で生きなければならない小豪族・松平家は、苦悩の連続だ。これは運命がそうさせたのであって、松平家の実力云々ではない。大国の間に挟まれた小国の悲劇である。

その運命を少年家康は、静かに受け止めていた。

(逆らっても、現実がこういう状況ならば、どうすることもできない)

静かに、状況の変化を待つ以外ない。だから慎重に生きてきた。

しかし、そういう中でも、どうしても譲れないことがある。今回の侮辱はその例だ。だから、少年家康は庭への放尿という行為によってその侮辱に対抗したのだ。

■家康の信条は「世論重視」

今川義元が織田信長に殺された後、家康は故郷の岡崎に戻った。岡崎城に入ると、かれは城下町に奉行を置いた。

このとき、奉行に命じたのは一人ではない。三人いた。それも、それぞれ性格の違う人間を組み合わせた。

これは、かれが徳川幕府を開いてからもつねに用いた方法である。すなわち、ひとつの管理職ポストに対して、必ず複数の人間を任命する。これは、のちに幕府首脳部である老中、若年寄、大目付はじめ諸奉行に対してもおこなわれた。これらの役職者たちは、「月番」といって、一カ月単位で仕事をおこなう。そうなると、

「今度の月番のお役人より、先月のお役人のほうがよかった」

という評判が立つ。家康にすれば、まるで部下をドッグレースに追い込んだようなものだ。

これはかれの性格による。かれは慎重と果敢の絶妙なバランスを保つことができた。そして、そのバランスを保つ柱や台になったのが、「忍耐心」である。しかしかれの忍耐心は単なる「我慢」ではない。はっきりいえば、その忍耐心を支えていたのは「世論」だった。戦国時代の武将で徳川家康ほど世間の評判を気にした人物はいない。

日本庭園
写真=iStock.com/t_kimura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/t_kimura

■世論が自分を支えるまで、じっと待つ

かれが天下人への道を歩いてゆく過程を見ていると、必ず世論によって決断を下している。

つまり、世論が自分を支えてくれるまでは、静かに待つ。慎重に待つ。そして、世論が自分の方向に風向きが変わったと見れば、たちまち果断な行動に出ていく。その間、この慎重と果敢の間にあって、ヤジロベエのようにその振り子を支えるのが、忍耐心であった。

そして、その世論を形成するためには、ときにかれは常軌を逸した行動にも出る。つまり他から見ると、

「あの行動は、少し慎重を欠くのではないか。果敢といっても、あれでは猪突だ」

といわれるようなこともおこなう。たとえば、三方ヶ原の合戦だ。

■大敗して、世論を勝ち取る

元亀三年(一五七二)、都を目指す武田信玄の大軍が、徳川家康がその頃拠点としていた浜松城のはるか北方を通過しようとした。

これを知った家康は、攻撃しようとした。部下たちは反対した。また、不時の備えとして織田信長が派遣した応援の将たちも反対した。

信長自身も、

「いま、家康が打って出れば必ず粉砕される。そうなると、家康が敗れた後、おれは、上方の反信長軍と信玄の挟み撃ちになる」

と警戒していた。家康はそんなことは百も承知だ。しかし、このときは打って出た。

案の定、かれは大敗してしまった。この敗走するときの情けない表情の肖像画が現在も残っている。

しかし、敗れても家康は満足だった。というのは、このときから世論が沸いたのだ。それは、

「律義な徳川殿」

という評判であった。律義な徳川殿というのは、

「たとえ敗れても、徳川殿は織田信長殿との同盟を守り抜いた。負けるとわかっている戦いにも勇敢に打って出ていった。見事だ」

という賞讃の声である。家康はほくそ笑んだが、信長は苦笑した。

(タヌキめ、やりおるわ)

とつぶやいた。

風力方向インジケータ
写真=iStock.com/photo_world
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/photo_world

■新しい世論を生み出した家康の大勝負

その織田信長が明智光秀に殺された。その後、誰が天下人になるかで武将たちの争いになった。結局、なんだかんだといいながらも策を弄して、信長の部下だった羽柴秀吉が天下人になった。

しかし、出身身分の問題があるのでかれは武士の最高職である征夷大将軍になれなかった。だから公家の職である関白そして太政大臣になった。秀吉は豊臣と姓を変えた。

秀吉は、自分への忠誠心を求めるために全国の大名に対して、

「天皇への忠誠を誓うために大坂城に来い」

と命じた。全国の大名は大坂城に参集した。行かなかったのは徳川家康だけである。家康にすれば、

「秀吉は、(信長の同盟者である)おれから見れば家来筋に当たる。そんなやつに、忠誠を誓いに行く義理はない」

と突っ張っていた。

これは家康が慎重さの果てに選択した果敢さである。かれはここで大勝負に出た。勝負の目的はなにかといえば、ここでまた新しい世論の形成を促すことである。

つまり、

「織田信長と同盟者だった徳川殿は、ここでも豊臣秀吉に臣従することを潔しとしない。気骨ある人だ」

という評判を打ち立てたかった。

■タイミングを推し測り「負けて勝つ」

この評判は目算通り、日増しに高まっていった。秀吉は焦った。そこで、すでに亭主持ちの妹を離縁させ、ちょうど妻のいなかった家康の後妻に押し込んだ。

それでも家康は動かない。秀吉はさらに、自分の母親を、「嫁にいった娘に母が会いたがっている」という口実を設けて岡崎城に送った。人質である。ここまでやられると、家康の慎重さもほころびる。つまり、

「信長殿に義理立てする律義な徳川殿」

の評判は、すでに高まり、はちきれんばかりになっている。このまま強情を張れば、今度は世論はクルリとひっくり返る。

「豊臣秀吉があそこまで意を尽しているのに、まだ頑張っている徳川殿は、あまりにもこだわりすぎるのではないか」

と変わってしまう。この絶妙なタイミングを家康は推し測っていた。かれは部下にいった。

「大坂城に行く」

部下はびっくりしたが、人質にとった秀吉の母の居館の周りに薪を積上げ、なにかあったらすぐ焼き殺すような手配をした。当然こんなことは秀吉の耳に入る。秀吉はくちびるを噛んだ。

木製のシーソー
写真=iStock.com/MicroStockHub
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MicroStockHub

■家康が味方につけた「世論の力」

大坂にやってきた家康を、秀吉はひっそりとその宿舎に訪ねた。そして、

「わざわざ恐縮です。明日は、挨拶の中で多少あなたのことに触れますが、ご勘弁ください」

と根回しをした。家康は、

「どうぞご随意に」

と、すでにまな板に上がった鯉の貫禄を見せた。翌日、秀吉はまず家康に怒鳴った。

「徳川家康、このたびの挨拶、まことにご苦労である!」

眼から憤りが飛び散った。しかし家康は平然と頭を下げた。かれにすれば、決してこれは負けたのではない。むしろ逆に勝ったのだ。世論はすでに徳川家康の味方をしている。

〈慎重に慎重さを重ねた徳川殿も、豊臣秀吉のあそこまでの好意を無にすることができず、情にかられて臣従の誓いを立てたのだ。胸のうちは、推察するにあまりある〉

と、むしろ同情の声を立てた。

■タヌキ親父の忍耐心

「徳川家康はタヌキ親父だ」といわれる。

しかし、かれが積極的に他人を騙すようなことをしたことは一度もない。大坂の陣でも、実際に豊臣方を騙したのは、かれの部下だった本多父子だ。

最初の冬の陣で大坂城を丸裸にしてしまったのは本多の仕業である。一応、家康は知らないことになっている。

今でいう、

「あれは部下がやったことだ」

という口実をはじめから用意していた。現在の政治家たちと違うのは、徳川家康の場合は部下が進んでそういう申し出をし、ドロをひっかぶったことである。はじめから、家康には累が及ばないような仕掛けをしていた。

童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)
童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)

大坂の陣の直前に、かれは隠居して征夷大将軍職を息子の秀忠に譲った。しかし駿府城に引っ込んだかれは、幕府運営の“ブレーン(頭脳)”の部分を担当した。ここに多彩なブレーンを集め、政策をひねり出させた。それを息子の運営する江戸城の幕府に実行させる。つまり、

「政策立案機関と執行機関」

とに二分してしまったのである。だから、この頃の政治を“二元政治”と呼んだ。

武田信玄は「風林火山」という言葉を好んだ。徳川家康も武田信玄流にいえば、「林と山のような慎重さを保ち、そして行動するときは風や火のように果敢だった」といっていいだろう。そして、その絶妙なバランスを保ち得たのは、あくまでもかれの世論重視の忍耐心であった。

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童門 冬二(どうもん・ふゆじ)
歴史小説家
東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。

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(歴史小説家 童門 冬二)

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