1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

織田信長は「将軍」になっていれば、本能寺の変で自害せずに済んだ…文芸評論家が考える「歴史の別ルート」

プレジデントオンライン / 2023年1月8日 9時15分

錦絵 本能寺焼討之図(画像=楊斎延一/名古屋市所蔵/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

織田信長は1582年6月、家臣の明智光秀に突如襲撃されて49歳で自害した。日本史に残るクーデターである本能寺の変はなぜ成功したのか。文芸評論家の秋山駿さんの著書『信長』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■光秀だからこそ行き着いた破天荒な考え

ときは今あめが下(した)知る五月(さつき)哉(かな) 光秀

公然たるクーデターの決意表明である。悲劇はここから始まる。

光秀には決意の表明が必要であった。たとえその真意人に知られなくとも、自分に私心なく、クーデターは天下のためにするのだ、と。

建前ではなく本音である。逆臣とか謀反という言葉ほど、光秀の心事から遠いものはあるまい。天下のためにする。そうみずから信じ、信ずるところへ自分の心を駆った。

実際このとき、信長を倒すなどとは、破天荒な考えであった。信長が始動させはじめた時代の回転の歯車はもう停められぬ、どんな手によっても止められぬ、とは誰もが感じていたであろう。倒したとしても、信長が創始した驚くべき発明と創造の数々、いったい誰がその後を受け継ぐのか?

したがって逆説的だが、信長の打倒は、信長と積年行動を共にした者にしか考えられぬことであった。歯車の回転は良い、自分もそれは熟知している、しかしいまや操縦手が暴走を始めた、これは止めなければならぬ、と。

「あめが下(した)知る」とは、そういう意味であろう。

■剛毅な男、信長を討つのは非常に容易だった

小説的視点を採用すれば、どんな理想の裏にも、現実の上を土足で歩くための泥が付いているのであり、私は、光秀が弱年の頃、「どうすれば最も有名な人間になれるかと訊かれたのに対して『最も有名な人間を殺せばいい。』と云つた」(『プルターク英雄伝』「アレクサンドロス」)などと、言ってくれているとありがたいのだが、それは見られない。

光秀は、ただ天下のために良いことをするつもりだった。ただし、人々の喝采は当てにしていたらしい。

戦国期に傑出した武将として、光秀はどう考えたか。

信長は討つ。これは、近く信長が京都に出向くという情報を得ていれば、非常に容易なことであろう。剛毅な男の常として、彼は少数の部下と共に敏活に行動するから。

■家康と秀吉が不在の「絶妙の瞬間」

五月廿九日、信長公御上洛。(中略)御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右(いっそう)次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴(とも)これなし。さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)候て、(『信長公記』)

しかし、信長を討つ、その後をどうするのか。

このクーデターは、天下の者が広く歓迎するはずであるが、しかし、信長政権内には、断じて光秀の行為を許さぬという対立者がいるだろう。

クーデター決行に際して、光秀がもっとも怖れねばならぬ者は誰か。第一が反クーデター勢力を結集するかもしれぬ信長の嫡子信忠であり、第二が信長に次ぐ位置を獲得しつつある家康であり、第三が大国毛利を制圧しつつあるところの秀吉である。

しかるに、いま、信忠は信長と共に京都に在り、家康は大坂・堺を見物中、秀吉は毛利の大軍との決戦前夜に在る。

絶妙の瞬間である。「ときは今」とは、そういう意味であろう。

光秀が、信長討つと同時に決行しなければならぬのが、この三者の打倒である。信長の名目上の継承者としての信忠、これは京都にいるから容易に討てる。次いで家康、この東国の将と兵にいくらか得体のしれぬ不気味なものを光秀は感じていたろうが、彼はいま自己の勢力圏内を周遊中である。

■「配下随一の武将」という光秀の自負

討つ。仮に逃走したとしても、東国の軍は即座には京都へ侵攻してこないであろう。信長死す、と聞けば、北条が家康と葛藤を開始するだろう。そして秀吉、本能寺の変を聞けば、毛利がいっせいに反攻を始めるだろう、混乱する秀吉軍の背後を衝(つ)けば、打倒は可能である、と。

光秀の武略がある。

明智光秀画像
明智光秀画像(画像=岸和田市 本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

京都を中心に、丹波、近江、山城を制圧してしまえば、日本の神経中枢を抑えるとともに、信長軍勢力を各個に分断できる。

そして私の推定であるが、二年前「日向守が働き、天下の面目をほどこし候」と信長から賞賛された光秀、信長麾下(きか)随一の驍将(ぎょうしょう)であるところの光秀は、自分に等しい実力を持つ者としては、ただ家康、秀吉の二人しか認めなかったに違いない。

なるほど、柴田勝家や滝川一益も強剛ではあるが、武略において自分の方が上であり、またこの二者に、時代回転の歯車の回せるわけがない。クーデターが成功すれば、日ならずして、この二者とは不即不離の関係というか、敵意を秘めた共存状態に入ることも可能だ、と光秀は考えたろう。

どだい、勝家の当面の敵手上杉が、滝川への潜在的な敵手である武田残党・上杉・北条が、この二者の軍を容易には動かさせないであろう。天の時は我に利ありだ、と。

■太政大臣・関白・征夷大将軍という三択

ここで、『信長公記』が記してはいない事柄に触れておこう。

無冠の信長への、朝廷による「三職推任」である。

「すなわち、天正十年三月甲斐の武田勝頼を滅し、関東を鎮定した信長が安土に凱旋(がいせん)すると、翌四月二十二日朝廷は直ちに勧修寺晴豊(はれとよ)を勅使として下向せしめ、戦勝を祝賀した。二十五日になると、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官させる旨の朝議を決定し、京都所司代村井貞勝と相談の上、上臈佐五の局と大御乳人阿茶の方に晴豊を付けて安土へ行かせることにした。

三つの官のどれでもというところに、辞官以来の朝廷の困惑が依然として続いている様子がみえる。

使者は五月四日に安土に到着しているが、(中略)晴豊は『関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし』と述べている。かくして、朝廷の意志が将軍任官・幕府開設をすすめるところに集約されたことが明らかとなった。」(朝尾直弘『将軍権力の創出』)

■なぜ信長は「将軍」にならなかったのか

信長は、何の返答も与えなかったという。

もっとも、この朝廷側が申し入れた「征夷大将軍」への推任のところ、最近の晴豊公記の研究によれば、村井貞勝つまり信長側が朝廷に要請したとも読めるようで、将軍職任官をめぐっての信長と朝廷との力関係について、解釈が分れるようである。

しかし私は、両者のどちらが申し入れても、それほど意味の違いはないと思う。なぜなら、天下のことが定まったこの時、信長が将軍に任官して幕府を開設することが、信長政権内の多数の者にも朝廷側にも、一致した要請であったろう。そうなれば、信長が始動させた時代回転の歯車が、伝統の秩序とも合体して、理解し易いものになる。「天下布武」の到着点はそうであって欲しい、というのが、光秀などの強い希求であったろう。

信長の行動はただ一つである。決して「将軍」などにはならない。彼は弱年のとき、予備研究として、将軍義輝を訪問した。また、実証として、将軍義昭と現実の政治上で角逐を行なった。信長は考察した、将軍とは何であろうか? この点については、頼山陽の評語に従っておいてもよかろう。

「信長、尾張より起り、常に四方を平定するを以て志となす。虚美(きょび)を喜ばず。廷臣或は征夷大将軍たらんことを勧む。信長曰く、『吾れ何遽(なん)ぞ室町の故号を襲ぐをなさん』と。」(『日本外史』)

■「本能寺の変が起きないルート」の可能性

しかし、将軍になって幕府を開く、ということをしない信長。彼は何者か。理解不能と化した漢(おとこ)が起っている。桶狭間の前夜、何もしないために理解不能と化したこの漢を、人々は「大たわけ」と呼んだが、もはやそれでは済まない。いまや彼は絶大な力を有し、ほとんど日本の運命を手中にしている。

いったい何を考えているのか。これは不気味な思いのする想像であろう。急速に、天下布武の前途が暗くなる。その道の果てには深淵(しんえん)が口を開けているのではあるまいか。

もしかすると、「三職推任」に対する信長の返答が、家康の接待であったり、梅若大夫の能に対する叱責(しっせき)だったのかもしれぬ。その意味が、見える人には見えたであろう。

私は考える。もし信長が将軍に任官していれば、光秀のクーデターなぞ在り得ないことであったろう。

■「天下のためのクーデターは支持されるはず」

六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主(しゅ)となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老(おい)の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。(『信長公記』傍線引用者)

光秀は部将達にクーデター計画を打ち明ける。信長を討つ、それは百パーセント成功する。しかし、その後をどうするのか。彼はさだめし、クーデターは天下のために行なうのであり、したがって天下の無言の支持があるはずであり、信忠、家康、秀吉、勝家、滝川の情況を分析して、武略としても成立する、というような時局認識というか現実判断を説いたのであろう。

私には、光秀に「天下の主」となる強力な意志があったとは思われない。彼の希(ねが)いは、時代の歩みを一瞬留め、現状をゆっくり改良していくことであろう。だが、部将や兵は、天下の事などどうでもよく、自分の武力の増強だけを考えるリアリストである。とてもそんな説得で足りたとは思われぬ。ただし、ただ一つの真実だけを視ていた。自己の命運を賭けた一個の漢の貌(かお)を。

■部下たちが光秀の計画に従った理由

次の外国人の推測、意外に本当であろう。

「一同は呆然自失したようになり、一方、この企画の重大さと危険の切迫を知り、他面、話が終ると、彼に思い留まらせることも、まさにまた、彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを見、感じている焦慮の色をありありと浮べ、返答に先立って、互いに顔を見合わせるばかりであったが、そこは果敢で勇気のある日本人のことなので、すでに彼がこの企てを決行する意志をあれほどまで固めているからには、それに従うほかはなく、全員挙げて彼への忠誠を示し生命を捧げる覚悟である、と答えた。」(フロイス『日本史5』傍線引用者)

夜半、一万三千の光秀軍が出立する。このあたり、繰り返しになるが、頼山陽の名調子が欲しい。

「夜、大江山を度(わた)り、老坂(おいのさか)に至る。右折すれば則ち備中に走(おもむ)くの道なり。光秀乃ち馬首を左にして馳す。士卒驚き異しむ。既に桂川を渉(わた)る。光秀乃ち鞭を挙げて東を指(ゆびさ)し、揚言(※揚の偏が手ではなく風)して曰く、『吾が敵は本能寺に在り』と。衆始めてその反(はん)を知る。」(『日本外史』)

行く手の方角違いに不審を抱く士卒には、「立派な軍容を信長に見せるのだ」とか、信長の命で「家康を討つのだ」とか思わせた(フロイス)というが、偶然がすべてをこれほどお膳立てしてくれたクーデターはあるまい。

■信長は「油断」していたわけではない

信長は、五月二十九日午後四時頃、小姓衆二、三十人を召し連れただけで本能寺に入った。

家臣団を率いていないので、信長の「油断」を指摘する向きもあるが、それは当らない。そういう油断をしない男、つまり用心する男に、桶狭間以前の信長の戦争が可能なわけはない。ただ、彼は剛胆な漢なのだ。

「剛胆とは、大きな危難に直面した時に襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、恐怖などを寄せつけない境地に達した、桁はずれの精神力である。そして、英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても己れを平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この力によるのである。」(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳)

そんな剛胆を、絶えず日常の中で持ち歩いていた漢を、努めて想像してみよう。あるいは、こう言ってもいい。

自分の死について、信長はそんなことを考えもしなかったろうが、聞かれれば、カエサルと同じように答えたろう。

「どういふ死に方が一番いいかといふ話になると、カエサルは誰よりも先に大きな声で『思ひも懸けない死だ。』と云つた。」(『プルターク英雄伝』「カエサル」)

■そばにいたがる女房たちを追い出し、自害

翌六月一日、信長は、前(さきの)太政大臣近衛前久、関白一条内基ら訪れてくる多数の公家衆と歓談、茶会を開いた。

六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道(かいどう)なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出(しいだ)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何(いか)なる者の企てぞと、御諚(ごじょう)のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。

…………

信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵(やりきず)を被(こうむ)り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸(なんど)の口を引き立て、無情に御腹めされ、(『信長公記』)

「大日本名将鑑」より「織田右大臣平信長」
「大日本名将鑑」より「織田右大臣平信長」(画像=月岡芳年/ロサンゼルス郡美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■本能寺の変で完成した非凡な生涯

信長の最期である。四十九歳。

秋山駿『信長』(朝日文庫)
秋山駿『信長』(朝日文庫)

戦いつつ死ぬ。これ以上信長にふさわしい死はない。「明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候」のあたりは、ギリシア悲劇の一節である。

信長の運命は非凡である。この最期によって、彼の生涯が悲劇として完成した。あるいは、奇蹟(きせき)的な意味を持つ一つの存在と化した。天の配剤があったという他はない。

最後の言葉――「是非に及ばず」は、あまりにも信長式に簡潔過ぎるから、裏にナポレオンの言葉を刻んでおこう。

「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。」(『ナポレオン言行録』)

----------

秋山 駿(あきやま・しゅん)
文芸評論家
1930年東京生まれ。早稲田大学卒業。60年「小林秀雄」で群像新人文学賞、90年『人生の検証』で伊藤整文学賞、96年『信長』で野間文芸賞と毎日出版文化賞、2003年『神経と夢想 私の「罪と罰」』で和辻哲郎文化賞を受賞。2013年逝去。著書に『知られざる炎 評伝中原中也』(講談社文芸文庫)、『砂粒の私記』(講談社)など多数。

----------

(文芸評論家 秋山 駿)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください