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日本中で繰り返される「大切な誰かのために」という言葉は、個人を窒息させる恐怖のフレーズである

プレジデントオンライン / 2022年12月30日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Berezko

いま日本では「大切な誰かのために」という言葉がさまざまな場所で連呼されている。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「『誰かのために』というフレーズには、一見、親切心やヒューマニティに溢れていそうなニュアンスがある。しかし実態は、個人の自由を奪う、脅しの言葉になっている」という──。

■「誰かのため」を乱用する利他的民族・日本人

新型コロナ騒動下で頻繁に使われた単語がある。「誰か」だ。

用法としては「大切な誰かを守る行動を心がけましょう。県をまたぐ移動は控え、マスクを着用しましょう」「あなた自身、そして大切な誰かを守るため、ワクチンの接種をしましょう」「あなたの感染対策が大切な誰かを守ります」といったところか。「大切な人」のほうが出現頻度は高かったが、「誰か」という言葉もそれに負けず劣らず用いられた。

本稿では「『誰か』とは一体、誰だ?」という視点から、現代の日本社会のありようについて共に考えていきたい。最初に言っておくが、今回、私はコロナ騒動に限定した話をするつもりはない。人々が当たり前のように口にする「誰か」の背後には、極めて日本人らしい特質や心性が隠されている。そしてこの「誰か」という視点が、いかにして日本人の発言や行動を規定し、縛り付けているか、改めて考察する必要があると思ったのである。

日本人は一体いつの間に、ここまで「誰かのため」を乱発する利他的民族になったのだろう?──私のそもそもの違和感は、これだ。

私の知る大多数の日本人の(いや、日本人に限らず、人間の)本質は「まず自分が得をすることを最優先に考える」「損はしたくない。少しでも有利な方向に身を置きたい」というものだ。どんなにキレイごとを並べたところで、そうした人間の自分本位な一面は隠しようがない。

思い出してみてほしい。限定品が発売されるとなれば「転売ヤー」が早朝から行列を作り、何らかのキャンペーンで「一杯無料」なんてサービスが始まれば大勢の人々が店に群がってきたではないか。2021年9月、かっぱ寿司で「全皿半額キャンペーン」がおこなわれた際には、20時間待ちという常軌を逸した待ち時間まで発表された。まあ、人間なんてそんなものなのである。

■マスクやトイレットペーパーを買い占めた人々

2020年3月、コロナ騒動が始まった直後には、店頭でもネットショップでもマスクの品切れが相次ぎ、開店前のドラッグストアには高齢者を中心にして長い行列ができた。程なく「トイレットペーパーが不足する」という言説までも登場し、人々はさらに行列を長くして、トイレットペーパーをせっせと買い占めていった。小売店の棚からあらゆるトイレットペーパーが消え去り、「入荷未定」なんて貼り紙だけがむなしく揺れている……そうした異常な光景を覚えている人も少なくないだろう。

これらはまったく「誰か」に配慮をしていない行動だ。人々が行列に並ぶに当たって意図したのは、あくまで「自分の安全・安心・快適」だけである。本当に「誰か」を大切にするのであれば、以下のような行動をとるはずではないか。

〈オレ、山田甚五郎は開店の4時間前、午前6時にドラッグストアに並び始めた。運よく、列のいちばん前だ。

そして開店40分前の9時20分、店員が「お一人様、マスクは一箱までとなっています。本日の入荷分と店内在庫は58点……こちらの方の分までで終了です。これ以上は並ばないでください」と告げた。マスクにありつけなかった客が騒然となる。59番目に並んでいた男は「えーっ!」と悲痛な声を上げ、いまにも泣き出しそうな勢いだ。

そこにさっそうと声をかけるのが、行列の先頭にいるオレ、山田だ。「いま『えーっ!』と言ったそちらのあなた、どうぞどうぞ。私は行列から外れますので、先頭にお越しください! あなた様のためにマスク、お譲りします。礼? 礼には及びませんよ!」〉

「誰かのため」を真に実践したいのであれば、このように献身的、利他的な姿勢を見せるべきなのである。超難関大学に合格したのであれば「補欠となった誰か」のために合格を辞退すべきであり、キャンペーン限定の豪華賞品が当たった場合には、メルカリやヤフオクで転売するのではなく、落選したことをツイッター上で嘆く人に連絡を取って「着払いでよければお送りしますよ!」と譲ってあげるべきだ。PS5といった希少ゲーム機を入手できたのであれば、店の外で「買えなかった~」と泣く子に無料であげるべきである。

■「誰かのため」に隠された欺瞞

人間はまったくもって「誰か」のために生きていない。自分本位でしかない。それが性根だ。「誰かのため」などとうそぶく連中は、あくまでも社会で「常識」や「暗黙の了解」とされる行動様式に盲目的に従っているだけ。「悪目立ちしたくない」「本当はイヤだけど、周囲から浮いてしまうのは怖い」「攻撃されたくない」と考え、自分を押し殺し、ひたすらに「常識人」「善良な人」とまわりから見てもらえるよう立ち振る舞う。なんと欺瞞(ぎまん)的な生き方だろうか。

ツイッターユーザーの「ポン・コツオ」氏は2022年12月19日、こうツイートした。電車内を換気するため、誰かが窓を開けた件についてだ。

「大切な誰かをマスクで守ると言いながら、電車内の見ず知らずの誰かに寒い思いさせてどうするんだよ。そんなに外気がほしいならトロッコ列車の沿線行きなよ。」

これは鋭い指摘である。結局「マスク着用」と「ワクチン接種」、そして「移動の自粛」が有効性の有無にかかわらず「誰か」のためになる尊い行為であり、それを励行しない人間は「誰か」を大切にできない自分勝手な人間という空気になってしまっただけなのだ。

しかもタチの悪いことに、これら3つを実践すれば「自分は社会のために役立っている」「他人を大切にできる善良な人間である」と世間から認めてもらえるかのような空気まで醸成されてしまった。それだけにとどまらず、実践しない人間のことを一方的に「反社会的勢力」扱いし、差別する正当性すら与えられたかのように振る舞う連中までも出現させてしまった。

■日系エアラインはいまやマスク警察の急先鋒

以前、当連載でも指摘したとおり、差別は快感である。車内換気にしても、これが社会の役に立つと思っているのだろう。しかし、今年の日本の12月は猛烈に寒い。大切な誰かが電車内に吹き込む冷気により風邪をひいたらどうするのだ。結局、昨今やたらと目に付くようになった「誰かのため」「利他的であれ」に類する価値観は単なる風潮でしかなく、なんとなく社会のコンセンサスのようになってしまった見当違いの行動様式に過ぎない。

思えば、コロナ騒動の初期の頃、専門家は換気の重要性を説いた。それを受けて、航空会社は「機内の空気は3分で完全に入れ替わるから安心」と声高にうたっていた。だが、いまや日系エアラインこそ、マスク警察の急先鋒である。これも「マスクをすることが誰かのためになる」という珍妙なコンセンサスに従った結果といえるだろう。

飛行機内でマスクを着用する人々
写真=iStock.com/Kiwis
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kiwis

搭乗前の待合スペースや機内では「他のお客さまへのご不安解消のため、常にマスクをご着用ください」などと再三アナウンスするくせに、「機内の空気は3分ですべて入れ替わる」ことはほとんど強調されなくなってしまった(少なくとも、私がいつも利用しているスカイマークはそうだ)。むしろ乗客に訴えるべきは「機内の空気は清浄に保たれているので、過度に神経質にならなくても大丈夫ですよ」「こちらからマスク着用を強く求めることはしません。個々人の判断でご対応ください」といったことだろう。そうすれば乗客も安心感を抱けるだろうし、快適に過ごせるようになると思うのだが……。

■「思いやりワクチン」という謎のアジテーション

ワクチン接種を推奨するポスターやチラシなども「誰か」や「大切な人」に類する言葉のオンパレードである。

たとえば、福岡県が作ったポスターの「思いやりワクチン」というコピーは実に象徴的だ。

Covidワクチン後のハグ
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

日本が世界一の陽性者数を2022年7月から10週間連続でたたき出すまで、政府や医療業界は「ワクチンには感染防止効果がある」という設定でとにかく突き進んだ。これが「思いやりワクチン」の根拠になっていたわけだが、その後、陽性者数の増加に歯止めが効かず、ワクチンの有効性に疑問が持たれるようになると、ワクチンを激推しした人々はその事実をシレッとなかったことにし、「重症予防効果がある」「ワクチンが300万人の命を救った」などと言い始めた。

ちなみに、日本は2022年12月中旬、今度は陽性者数7週連続世界一を記録している。「日本は検査数が多いからだ!」なんて指摘が即座に飛んできそうだが、たとえば2022年12月23日、人口846.8万人のニューヨーク(NY)市の検査数は2万9897件で陽性者は2720人(陽性率8.7%)だったのに対し、人口1404万人の東京都における同日の検査人数は2万2022.3件(7日間移動平均)で、陽性者数は9890人(陽性率40.0%)である。

NY市と東京都でデータの取りまとめ方、数字の算出方法などが微妙に異なる可能性があるので、あくまで参考比較ではあるが、少なくとも「NY市は東京よりも数多く検査をおこなっている」「NY市よりも東京のほうが圧倒的に陽性率は高い」ということはできそうだ。

■コロナワクチンのPRに横行する「誰かのため」論法

もっとも、具体的な数字をいくら挙げたところで、ワクチン推進派はこれまでまったく聞く耳を持たず、「いいから打て! とにかく打て‼」の大合唱である。一度振り上げたアジテーションの拳は、そう簡単に下ろせないのだろう。ワクチン推奨ポスターを見ると、コピーから必死感すら伝わってくる。

「自分のために。みんなのために。#打ち勝とう #FUKUOKA」(福岡県)
「自分を、患者さんを、そして大切なひとを守りたい。だから#私たちは打ちました」(こびナビ)
「新型コロナ ワクチン接種をぜひご検討ください あなたと、大切な人を守るために」(宮崎県)
「あなたと大切な人を守るため ワクチン接種を考えよう あなたのため わたしのため あしたのため」(長野県)
「正しく知って『新型コロナワクチン』 ワクチン接種は自分だけでなく、誰かの命を守るんだよ。『自分は若いから』、『かかっても軽症だから』と言って油断してはいけないよ!」(岡山県真庭市)
「なぜワクチンを打ったほうがいいの? ・感染したとしても重症化しにくい ・人にうつす可能性を減らす ・ワクチンを接種することで、ワクチンを接種していない人も守る効果がある」(同)

最後の真庭市の呼びかけは、若者に対して完全に「お前ら、自分のことだけ考えているんじゃねー。どこかの誰かを守るためにワクチン打て! その人は誰かにとって大切な人なんだよ」と押し付けたいだけである。

■「誰か」の範囲が明らかなケース、不明なケース

それにしても、この「誰か」という言葉は、げに便利である。「誰かに迷惑をかけるかもしれないから○○をしてはいけない」という言い回しは反論を許さない。ただ、ここで改めて思うのだ。「『誰か』って、誰だよ?」と。

2005年、奈良県生駒郡に出現した「引っ越しおばさん(騒音おばさん、と呼ばれることも)」がテレビやネットで話題になった。布団たたきで布団をバシバシとたたきながら、近隣住民に向かって「引っ越し、引っ越し、さっさと引っ越し、しばくぞ!」とヒップホップ風の軽快なフレーズを、鬼の形相で叫ぶ老婆である。

この場合、明確な被害者は近隣住民である。これは「誰か」ではなく、住所も名前も把握されている人々である。たとえば自転車泥棒が発生した場合なども、明確に被害者が存在する。ならず者が山にゴミを不法投棄した場合であれば、私有地なら土地の所有者に、公的な場所なら役所など所管する組織に迷惑がかかる。投棄の結果、景観が悪くなる場合には、近隣住民にも迷惑がかかることになる。ゴミの処分に公金が投入されるとなれば、ならず者の尻拭いで税金が無駄遣いされる形なので、その自治体に住む住民にも迷惑がかかる。これらの事案は被害者の範囲が明らかなパターンだ。

粗大ゴミの不法投棄
写真=iStock.com/gyro
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一方、ゴミのポイ捨てや、かんだガムを路上に吐き出す行為は「誰か」に迷惑をかけることとなる。雨の日、スーパーの床に濡れたビニール製の傘袋を放置したら、滑って転ぶ人が出るかもしれない。これも迷惑を被るのは「誰か」だ。このような事案においては、「誰か」という表現は用法的に正しいといえる。なにしろ、誰が迷惑・被害を被ったのか、判然としないのだから。

傘袋の事例でいうと、仮に不届き者に同行者がいたのであれば、その同行者が「誰かが転ぶかもしれないだろ! 横着せず、ちゃんとゴミ箱に捨ててこい」と注意をするべきである。これらは明らかに「悪事」だからだ。ゆえに「誰か」のためを思って、厳に慎まなければならない。

別の例を挙げるなら、ある属性の人を差別するような発言を耳にした場合、「おい、やめろよ。そんな発言を聞いたら、誰かが傷つくかもしれないだろ」と周囲の人は指摘することもあるだろう。これは「偶然耳にして傷つく人がいるかもしれない」という意味で、「誰か」という大づかみな表現をされても違和感をおぼえない。

■英語に置き換えてみると「誰か」の範囲が捉えやすくなる

悪行だけでなく、善行においても「誰か」という表現は用いられる。年末、市役所のポストに【寄付】と書かれた1000万円入りの匿名封筒が突然届けられたりすることがある。そこには「困っている方のために使ってください」なんて手紙が添えられているわけだが、これはすなわち「市内の知らない誰か」のために使ってほしいと送り主が考えていることを示している。さらに言うと、この送り主に対しても「どこの誰かはわからないが、親切な人がいるものだ」という感想が向けられることになる。

電車で高齢者に席を譲ることもある。この場合は「誰か」ではない。「目の前で杖をついている、座りたいであろう老人」だから、匿名性は薄れる。「誰か」ではなく、明確に存在する「電車内に立つ高齢者」なのだ。

英語で「誰か」を指す単語といえば、まず「anonymous」が思い浮かぶが、ニュアンスとしては「匿名」の意味合いが強い。日本語における「誰か」はもう少し広い範囲に使われるから、英語で説明するなら「someone who might get involved in(もしかして関与するかもしれない想像上の人物)」や「someone you may harm(あなたが被害を与えてしまうかもしれない想像上の人物)」といったところか。ちなみに英語でsomeoneを用いる場合は、もう少し対象が特定されていたように思う。「someone you loved(あなたが過去に愛した人)」や「not you, someone else(あなたのことではない。別の人だ)」、「someone like you(あなたみたいな人)」のように、会話をする者たちのあいだでは「誰か」の匿名性は低いといえるだろう。

■タクシー運転手から釣り銭を受け取らない理由

善行に関連した「誰か」については、もうひとつ例を挙げておきたい。かつて、ジャーナリストの勝谷誠彦氏(故人)と一緒にタクシーに乗った時のことだ。当時、タクシーの初乗り料金は660円だった。ワンメーターで降りたのだが、勝谷氏は「お釣りはいらないです」と1000円札を渡して、タクシーを降りた。私がこの行動の理由を尋ねたところ、勝谷氏は次のように説明してくれた。

「淳ちゃんさぁ、あの運転手さん、今日だってイヤな客を相手にしたかもしれないだろ。そんななか、たかが340円だけど、あの運転手さんが少しでもよい気持ちになってくれたら、こちらもうれしいじゃないか。それで次の乗客に対して、丁寧に接することができるかもしれない。そうすれば乗客も気持ちよくなり、客先での会議でよい時間が過ごせるかもしれない。そんなふうにして、みんながちょっとした“よい気持ち”をつないでいくことができたら、きっと社会はよくなっていくと思うんだ」

この話を聞いてから、私も少しだけ勝谷氏の考え方を実践するようにしている。なんの手間もコストもかけていないが、たとえば「横断歩道を渡るとき、ちゃんと一時停止をしてくれたクルマには頭を下げる」といったことだ。横断歩道を渡ろうとする歩行者がいる際、クルマは一時停止をして歩行者の通行を妨げない──これは当然の交通ルールなのだが、あまりに破るドライバーが多い。だから、しっかり止まってくれたドライバーには感謝の意を伝え、その人がその後も一時停止をする気持ちになればいいと思っている。また、単純に相対評価として、一時停止した人はそれだけで「いい人」と思ってしまう面もある。

いずれにせよ、ほんの少しの気遣いで相手が気持ちよくなってくれるのであれば、安いものだ。とはいうものの、匿名で寄付をする人、勝谷氏のようにタクシーの釣りを乗務員に渡す人、横断歩道でちゃんと一時停止するドライバーとその行為に感謝する人は世間的には少数派だろう。

■定義も範囲もあいまいなまま乱用され続ける「誰か」

ここで「誰か」と愚行・善行についての関係性に話は戻る。「誰か」に対しての言動は、愚行の場合はハードルが低くなり、善行の場合だとハードルが高くなる。「どうせ自分とは関係のないヤツが困るだけだし、オレがやったとバレないからな」とポイ捨てをするのは簡単だ。一方、1000万円もの寄付金をポンッと差し出して、見知らぬ誰かを救うような善行をするには、よほどの金持ちではないと難易度が高い。

「誰か」という言葉は、このように考えれば考えるほど袋小路に入ってしまう、解釈が非常に難しい単語なのだが、コロナ騒動では安易に使われ過ぎた。専門家やお上が誘導したり、指定したりした「よいこと」「人助け」「誰かを助けるための社会貢献」の文脈で盛んに「誰か」は持ち出され、定義や範囲もあいまいなまま乱用され続けた。私は「だからー! 『誰か』って一体誰なんだよ⁉」と混乱するしかなかった。

ここまで述べてきたような、禅問答的な思考の積み重ねを経て見えてきたのは、本来、「誰か」が指しているものの多くは「被害者になる可能性がある人」だった、ということだろう。一方で、見知らぬ「誰か」から善を受け取ることができた人はとても少ない。

それなのにコロナを経て、あまりにカジュアルな「誰かのために」という言説が日本社会にはびこり、定着してしまったのだ。実際問題として、善行が自然にできる人間など滅多にいない。にもかかわらず、ワクチンとマスクが「誰か」を守り、挙げ句の果てには「ワクチンを打つ人はヒーロー」という言説まで登場した。単語の用法や意味合いが時勢に即して変わることは自然な現象だが、ワクチン・マスクを含めたコロナ感染対策は「誰か」という言葉の意味を急激に変えてしまった。「誰かのために利他的になれ! 善行をしろ! それができないヤツはまともな人間ではない!」という道徳的規範かつ、バイオテロリスト予備軍撲滅キャンペーンになったのである。

■自分にとっては善行でも、相手はそう思わないこともある

さらに、日本人には特殊な行動様式がある。「誰かにむしろ迷惑をかけてしまうかもしれない、かえって気を使わせてしまうかもしれないから、善行ができない」というものだ。これが事態をますます複雑にする。

その端的な事例が、電車の席を譲ること、そして飛行機で背の低い女性の荷物を収納スペースから取ることだ。高齢者に席を譲ろうとすると「いいです」と迷惑そうに返されることが少なくない。特に高齢男性に多いのだが、ろくに言葉も発しないまま仏頂面で手を顔の前で振り、拒否の意思だけを無愛想に示すのだ。飛行機の場合、明らかに背の高い男性が荷物を取るほうがラクだし早いのに、拒否される。コロナ絡みで「他人に自分の荷物を触られたくない」という忌避感が強まり、この善行のハードルはいっそう高くなった。

「高齢者、ケガをしている人、体調の悪そうな人、妊娠中の人、幼い子供を連れている人には席を譲りましょう」「困っている様子の人を見かけたら、荷物を取ってあげましょう」といったことは、社会通念上「よいこと」だとされている。でも、迷惑そうに拒否されることもある。もちろん相手には相手の都合や感情があるから、拒否されたとしても仕方がない。素直にこちらの提案を受け入れ、感謝してくれる人もいれば、「放っておいてくれ」「構うな」と明確に距離をとったり、否定したりする人もいる。つまり、どんなに自分にとっては善行であろうとも、相手がそれを受け入れないケースはあるということ。

皆、そんな意識のすれ違いや価値観の食い違いは「日常生活でよくあること」と理解しているはずである。なんなら「善行を押し付けてくるな」「オマエが善行をしようとするのも自由だが、こちらがそれを断るのも自由だ」などと、本来はポジティブな振る舞いであるはずの善行を認めず、それを断ったり否定したりすることを正当化するような論調すら存在する。「そうした個々人の感情を察するのも、大人の作法」「世の中にはいろいろな考え方の人がいる。そういうものとして、うまくこなしていくしかない」──大多数の人はそんなふうに考えて、世の中をまわしてきたはずだ。

■存在するかわからない「誰か」に感謝なんてできない

そうした当たり前のスタンスが、コロナ騒動を経た日本では通用しなくなってしまった。「マスクを着けること、ワクチンを打つことのみが正義」となり、それに従わない者は有無を言わさず「悪」と認定する。しかも、その理由として挙げられるのが「大切な誰かを守るため」なのだ。まったく意味がわからない。何度でも言うが「誰かって、誰だよ?」としか思えないのである。

まったく接点のない人のためにマスクをし、ワクチンを打つ。それは善行だという。私は混乱する。「本当にそんなものが存在するかどうかわからない『ぬえ』のような『大切な誰か』のために、なぜまったく納得できていない自分が我慢や不自由を強いられなければならないのだ」と。「お天道様は見ているよ」とでも言いたいのだろうか。

果たして、常にマスクを着けている97%(あくまでも体感値)の人、ワクチンを打った約82%の人は、そうしたことで他人から感謝されたのだろうか? 少なくとも、マスクやワクチンを無視してきた私は、どちらにも感謝しない。なぜなら、私自身、両方の効果を一切信じていないからである。「感染対策を徹底してきた自分たちに、非常識な連中は感謝しろ」とでも言いたいのかもしれないが、それこそ知らない「誰か」に感謝しなくてはならないいわれはない。「お前らが自身の判断の下、専門家と政治家とメディアの言うことに一切疑問を抱くことなくマスクを着け、ワクチンを打っただけだろ? トイレットペーパーを買い占めるために行列を作る連中と同じだ」と、自己中心的な人々にしか思えないのだ。

ましてやワクチンについては「オレ様みたいな高額所得者の納めた公的なカネを使って、余計なものをタダで打ちまくりやがって!」「しかも、世界一の陽性者数を延々と記録し続けているだけで、まったく感染予防になっていないじゃないか」「おまけに、5回目接種を始めるとか、8回目接種まで準備するとか、一体どういうことだ?」「無料キャンペーンに並ぶような情弱に同情なんてするかよ」など、さまざまな感情が沸き立ってしまう。だから、感謝する気持ちが一切持てないのだ。

マスクとワクチン
写真=iStock.com/Michaela Dusikova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Michaela Dusikova

■「ワクチンを打っていない『誰か』が悪い」という設定

「大切な誰か」「大切な人」という言葉は、あまりにも範囲が広すぎる。家族・友人・親戚・同僚・上司・いつも行くコンビニの店員・いつも利用する駅の駅員・年金を受け取る際に対面する役所職員・スーパーで子供たちにおまけをあげるサンタクロース……。「大切な人・大切な誰か」という言葉は個々人の解釈に委ねられてしまう。

「いや、私にとって『大切な人・大切な誰か』は妻と友人、そして仕事仲間以外、存在しません。私自身は別にコロナ感染してもいいですし、重症化しても構いませんので打ちません」――これが私の本心だ。いたって正論だと思うのだが、日本社会では猛烈なバッシングが寄せられてしまう。「自分勝手」「公衆衛生の敵」「自己中心的」「バイオテロリスト」「殺人鬼」「協調性がない」などと評され、陽性者が出た場合には私も含め、マスクやワクチンを受け入れない人々のせいにされる。コロナが第8波になり、ツイッターなどのSNSではやたらと医療従事者が忙しさに悲鳴を上げているが、ここでも蔓延の理由として超少数派であるワクチン非接種者に矛先が向けられている。もはや、単なる八つ当たりではないか。ここでは有無を言わさず、「ワクチンを打っていない『誰か』が悪い」という設定こそ正義になっているのだ。

たとえば今年12月中旬、ワクチンに懐疑的なアカウント(A氏)と、マスクやワクチンの効果を言いはやす医師アカウント(B医師)とのあいだで、次のようなやり取りが発生した。本当は実際のツイートを引用したかったのだが、A氏の当該ツイートは削除されてしまったので、要点をかいつまんで紹介する。

〈A氏「『新型コロナを5類にすべき』と主張する人たちに向けて、『5類にしたらコロナを診てくれる病院がなくなるぞ』などと脅してくる医師がいる。でも『5類にすべき』とまともなことを言う人々は、コロナ程度で病院になんて行かない」〉

〈B医師「それなら、未接種者が軽症にもかかわらず救急車を呼ぶケースをなんとかしてほしい。やたらと多いのだが」〉

B医師の発言の根底にあるのは、専門家・政府・自治体が言い立てた「あなたと大切な人、どこかの誰かのためにワクチン接種を!」が100%真理である……という凝り固まった考え方だろう。要は「救急車の出動回数が多いのは未接種者のせいだ」と主張したいのだ。そしてこのツイートは暗に「誰かのためにワクチンを打たなかった反社会的な連中は、病院を受診するな」と訴えているのである。

■「誰かのため」は強権的、全体主義的な恐怖のフレーズ

だが、このB医師の発言は本当なのだろうか? 何しろ非接種者(「未接種」ではない。なぜならわれわれは打つ気がないから)は少ない。第6波以降、2回以上接種した人の陽性率が非接種者よりも高いというデータをまず無視している。さらに、非接種者は軽症で病院など行かない。コロナ陽性者にされたらたまったものではないことを理解しているからだ。ましてや救急車なんて呼ぶわけもない。

救急車を呼ぶ人間は圧倒的に高齢者が多い。それはデータ上も明らかだ。総務省が発表した2021年度の統計によると、救急車搬送人員の年齢区分別構成比は、新生児0.2%、乳幼児3.8%、少年2.9%、成人31.1%、高齢者61.9%である。ワクチン3回接種済みの高齢者は91%を超えているわけで、B医師の述べた「未接種者が軽症であるにもかかわらず、やたらと救急車を要請するから迷惑」という話に対しては「あなたの感想ですよね」としか思えない。

こうした現象を振り返ってみると、「誰か」という言葉は個人の自由を奪う、脅しの言葉なのだとしか思えなくなっている。「誰かのために」というフレーズには、一見、親切心やヒューマニティに溢れていそうなニュアンスがある。しかし実態は「善行」「社会的によいとされること」に対して反論を許さず、差別を正当化するにも等しい「強要」と「理不尽な管理」の言葉だったのだ。さらに言うと、個々の価値観に基づく反論、思想は一切許さず、全体主義を加速させるフレーズでもある。実に強権的であり、恐怖しか感じない。

■「他人と同じであれば安心」という思考はあまりに幼稚

「誰か」と似た言葉に「みんな」がある。小学生はいつの時代も、親に「みんなNintendo Switchを持っているから、僕にも買って!」なんてことを言うものだ。そこで親が「みんなって誰?」と問えば、「山口君と田中君と近藤君……多分クラスで10人くらい」と子供はトーンダウンし、「みんな」と言えるほどの所有率ではないことが明らかになる。親は「別にみんなが持っているわけじゃないでしょ」「ウチは山口君の家じゃない。イヤなら、山口君の家の子になればいい」と返す。まあ、お約束の展開だ。

この「みんなガー!」という発言の背後には「うらやましい」「自分も当事者になりたい」といった感情のほか、「他人と一緒であることこそ至高」という考え方も隠されていることが多い。未熟な子供であれば周囲に過度に流されてしまうのもやむを得ないといえるが、そうした感性を大人になっても抱えているとしたら、あまりに幼稚ではないか。

「誰か」という謎のパワーワードに引きずられて自主性、主体性を失い、多少の疑問や違和感があっても、なんとなく周囲に合わせて動いてしまう。実に情けない話だ。もはや日本人の8割は本気でマスクの効果など信じていないだろうし、4回目のワクチン接種率の低さを考えても、公言しないだけでワクチンをこれ以上打つ気がない人がマジョリティになりつつある、と私は捉えている。

ワクチンまたはノーワクチン
写真=iStock.com/Albina Gavrilovic
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■「誰か」のために生きて、人生が毀損されるリスク

マスクとワクチンについて言えば、最終的には多くの人が「結局、あれってなんだったのだろう」「意味なんてあったのか?」という懐疑的な感情に至ると思っている。そう、海外の国の多くが2022年初頭にこの結論へとたどり着いたように。そして「誰か」のために行動した結果、どれだけ自分が苦痛だったか、人生が毀損(きそん)されたか、面倒くさかったか……という自分本位な感情に行きつくはずだ。

マスクに猛烈に反対した人は、最初はシンプルに「長時間マスクを着けるのが苦痛だった」だけともいえる。とはいえ、意味のある我慢であれば、仕方なく我慢することもしただろう。私ですらコロナ騒動の初期には、求められる場面であればマスクを着用していた。

しかし、時間の経過とともに各種データが明らかにされ、マスクの効果に疑問符が付くようになった。だから「これ、意味あるの?」と臆することなく主張した。すると「自分勝手」「異常者」「非常識」「人殺し」扱いされるようになった。大多数より先んじて「我慢しても無意味」「自分の人生を毀損されたくない」「理不尽な苦痛を強いられたくない」と主張しただけなのに、まるで犯罪者のごとく扱われることになるとは。

■自分の人生を主体的に生きるために

通勤中や仕事中、ずっとマスクをして過ごさなければならないとしたら、苦痛を感じて当たり前である。いや、たった10分でもキツいと感じる人はいる。

しかし「自分は花粉症だし、マスクをするのに慣れているから、長時間着けていてもぜんぜん平気」「マスクをすると落ち着く」「最初は違和感があったけど、もう慣れてしまったからそれほど気にならない」「メイクをしないでいいから楽」「ヒゲをそらないでいいから便利」といったことを安直に語り、「マスクくらい、ゴチャゴチャ言わずに着ければいいじゃないか」と私のようなマスク否定派に着用を促してくる人は非常に多い。

何が苦痛か、何が快適かは、人により異なる。それを理解しようともせず、マスクとワクチンを「大切な誰か」のために装着・接種するべきであると強要してくる人間は、実は極めて自己中心的であるといえる。私は何があろうとも「ゴキブリが怖い」と震えている人に向けて「ゴキブリが怖いなんて変だね。あんなもん、ただの虫じゃん」なんてことは言わない。コロナ騒動における「『大切な誰か』論法」は、こうした個々人の自由意思や個性を尊重せず、「感染対策のためならば人としての尊厳を毀損してもいい」とする、実に人権無視の論法だったのだ。

ワクチンに感染予防効果がないことが明らかになったいま、2021年に猛威を振るった「大切な誰かのために」という論法は崩壊した。そのプロパガンダを絶叫し続けた人々は、ほどなく「あなたたち、よくも『大切な誰か』論法で私の身体をおかしくしてくれましたね」などと、ワクチン接種後の薬害に苦しむ人から猛反撃を受けることになるだろう。そうして、コロナ騒動で蔓延した「大切な誰か」の欺瞞が明らかになるに違いない。

人間、自主性が大事である。「自分がイヤだと思うなら、やらない」──改めて、主体的に生きる姿勢を強く意識しておきたいものだ。なぜなら、あなたの人生はあなたのものなのだから。

他人の幸せのために生きる人生などまっぴらだ。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」

・コロナ騒動以降、日本では「誰かのため」「大切な誰かを守ろう」といった言説がはびこるようになった。

・「誰か」の定義はあいまいすぎる。「誰か」って、誰だよ?

・実態がわからない「誰か」のために、利他的に行動することを強要されるのがいまの日本。それができなければ排斥されてしまう。

・「大切な誰か」論法は欺瞞である。早くそれに気づき、主体的に生きるべきだ。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ライター
1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

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(ライター 中川 淳一郎)

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