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中高年男性は「かわいそうランキング」が低いから無視される…「女性や子供はズルい」という声にどう応えるか

プレジデントオンライン / 2023年1月14日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/doidam10

「かわいそう」という感覚を持つ対象には優先順位がある。それは「かわいそうランキング」という言葉で表現され、とりわけ中高年男性は順位が低く、哀れみの対象にすらならないと批判されている。牧師の沼田和也さんは「聖書にも似たような記述がある。『困っている人のために行動する』というのは、簡単ではない」という――。

※本稿は、沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■コロナ禍で増えた教会への相談

わたしのもとには現在、先の見えないコロナ禍ということもあり、以前より相談の連絡が増えている。例えば、若い人であれば将来が見えないという不安。中高年の人であれば、これまでの人生の意味への問い。コロナ以前は当たり前だったさまざまなことが、制限や断念を余儀なくされる。

ひたすら走り続けてきた人が立ち止まらざるを得なくなったとき、ふと、それまで考えもしなかった抽象的な考え、極論すれば「自分はなぜ生きているのか」が頭をもたげてくるのである。もちろん、その問いかたは一人ひとり異なる。その人ごとに固有の、しかも普遍性をもった問いに耳を傾けながら、わたしもまた自分自身に対して「自分はなぜ生きて、この目の前の人と向きあっているのか」を問うことから逃げられなくなる。

ところで、「コロナで相談者が増えた」みたいな話をすると「沼田先生のところにはいろんな人が相談に来られるのですね。信頼されているんですね」と言ってくれる人もいる。まことに恐縮なことであるが、わたしは失敗もたくさんしてきた。今もしているし、これからもするだろう。むしろ失敗というか挫折というか、うまくいかないことのほうが多い。なにしろ相手は人間なのだ。そんなにうまくいくわけがない。相談者が抱えていた問題がぱあっと解決するような、そんな都合のよい美談などあるわけがない。

■「かわいそうランキング」という言葉

ツイッターで「かわいそうランキング」という言葉を知った。今では多くの人が使っているネットスラングであるが、もとはツイッターアカウント“白饅頭”こと御田寺圭氏が提唱した概念であるらしい。御田寺氏の著作『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』(イースト・プレス)冒頭には、彼の実体験として、こんなエピソードが紹介されている。

日本の道路
写真=iStock.com/Jomkwan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jomkwan

彼は学生時代、ホームレスのおじさんと親しくなった。彼の利用する駅の前でも『ビッグイシュー』を売っているホームレスが目に留まる。あるとき、彼は大学の同級生との会話のなかで、『ビッグイシュー』のことを話題にする。ところが彼の同級生は、──おそらく御田寺氏と同じ駅を利用していたにもかかわらず──ホームレスが『ビッグイシュー』を売っている光景など見たこともないと答えたのである。そのとき御田寺氏は実感したという。人はたとえ視界にホームレスが映ったとしても、見えてはいないのだと。

『ビッグイシュー』を売るホームレスは、彼と友人が暮らすような都市部であればそれなりに見かけるはずだし、その友人も見ているはずなのだが、視界に入っても見えていない。すなわちホームレスは、御田寺氏の表現によるならば「透明化された人びと」なのである。彼はこの原体験を契機として、人が「かわいそう」と感じる対象は限られているという事実を、さまざまなデータを用いて語るのである。

■追い詰められているのに同情されない人々

御田寺氏の見解には反論も多い。わたしもときに、彼のフェミニズムやリベラリズムへの厳しい批判にはついていけないこともある。しかしたしかに彼の言うとおり、ホームレスに限らず「かわいそう」という感覚をまったく喚起しない、だがじつは追い詰められている人々は存在する。

不可視化された存在として彼がおもに指摘するのは中高年男性である。わたしはそこに中高年女性も含めたい。ツイッターでの議論は、フェミニズムにしてもアンチフェミニズムにしても、若い男女のことが話題になっているケースが多いからである。

いずれにせよ御田寺氏から、わたしは自分が微塵も気にかけていない人々がいることを教わった。(※ここでは「かわいそう」という語を用いているが、必ずしも目上の者が憐れんでやるという意味のみを表しているのではなく、より広義に、他人への共感や痛みなど、他人に心を動かされること全般を「かわいそう」という日常語に託していると考えていただきたい)

■聖書も触れている「かわいそうランキング」の存在

そこで話は教会に戻ってくる。すなわち、わたしが「こんな人、教会に来て欲しくない」と、思わず拒絶反応を示してしまう人がいるし、じっさいそういう人としばしばトラブルになってしまうという話である。冒頭の悩み相談一つとってもそうである。これについて、聖書には、ぎくっとしてしまう言葉がある。

あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。
(『ヤコブの手紙』2章2~4節)

聖書にはすでに「かわいそうランキング」が言及されているのだ。そして、ここにはもう一つ大事な事実が隠されている。その“貧しい人”が、通俗的な意味での“いい人”とは限らないということである。

■虐げられた人が「助けたくなる人」とは限らない

わたしたちはドラマなどの影響により、貧しく虐げられた人のことを無垢(むく)で純粋な人、あるいは貧しさから抜けだそう、夢を追いかけようと努力している人としてイメージしがちである。そして、そういう“貧しい人”を支援したいと思うものだ。だが、ここに落とし穴がある。

わたしのもとにやってくる人のなかには、複雑な生い立ちを背負わされた人も多い。なかには幼少時からつねに、まわりの大人たちから裏切られ続けてきた人もいる。ニュースになるような、警察が逮捕できる暴力だけが子どもを傷つけるのではない。小さな裏切りの膨大な積み重ね。そんな裏切りを浴び続けてきた人はときに、「世界のすべては自分の敵である」と思っている。

■苦しい経験を経てきた人の難しさ

いや、思っているというのは正確ではない。野良猫があなたの目の前で寝ているところを思い浮かべて欲しい。あなたがわずかでも近づけば、猫は飛び起きる。飼い猫とは違って、野良猫は熟睡することがない。つねに世界に対して警戒を怠らない野良猫は、寿命も短い。世界のすべてが敵であるという、いっときの安心も許されない、常時緊張を強いられる生活。

新宿歌舞伎町
写真=iStock.com/B_Lucava
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/B_Lucava

そんな生活を何十年も続けていれば、すっかり消耗してしまう。疲れ果て、「もう生きていられない」と感じた人が、この孤立状態からなんとか抜け出したい、牧師ならなにか教えてくれるかもしれないと、わたしのもとへやってくるのである。

だが、そもそもその人は、誰かから無条件に愛されたり、誰かを無条件に信頼したりした経験がない。わたしを信用しようとしても、信用とはなにかが、分からない。

そういう人のなかには──すべての人がそうだというのでは決してない──わたしに高い理想を見いだし、わたしを絶賛し、頻繁に連絡してくるなど、急激に距離を詰めてくる人もいる。ところが、わたしがその人の理想像に反した言動をするや一転、わたしを激しく憎み、罵るようになってしまうのだ。なかには「沼田牧師に傷つけられた!」とふれてまわったりする人もいる。

■牧師でさえも怒りに駆られてしまうとき

そんな人と向きあったとき、わたしもまた怒りに駆られてしまう──勝手にそっちから来ておいてなんだその態度は。昼夜かまわずさんざん話につきあって、感謝されるならまだしも、なんでこんなに憎まれなきゃならないんだ。そんなことだからあなたは、けっきょく誰のところに行ってもまともに相手にされないんだよ──そこまで毒づいて、はっと気づく。これこそ「かわいそうランキング」そのものではないか。

同じように相談に来た人がとても礼儀正しくて、なんだったら「些少ですが献げさせてください」とばかりに高額な献金までしてくれて……じっさい、そういう人もおられたのだが、その人を相手にしたときのわたしの態度はどうだった? 向きあうわたしの表情も声色も、ぜんぜん違うよね?

■性産業で働くある女性の誇りと傷

ある性産業に従事している女性と話す機会があった。彼女は自分の仕事を誇りに思っており、慈善家が「性産業の犠牲になっている女性たちを救うためには、性産業そのものがない世界を築かなければならない」と主張することに憤っていた。

「わたしのことを『かわいそうだ』と言う前に、店に来てみろってんだ。わたしのフェラチオがどれだけうまいか、味わってから『かわいそう』かどうか判断したらいい」

彼女の凛としたもの言いに、わたしは感銘を受けた。ふと、彼女のノースリーブから露出した腕が目に留まった。肩から上腕にかけて、偶然ついたとは思えない幾つもの傷痕が刻まれている。精神科医で嗜癖の専門家である、松本俊彦氏の著作で読んだことがある。自傷は、つかみどころのない苦しみを現前化する行為でもあると。

この人が自分の仕事に誇りを持ち、喜びを感じながら従事していることに、おそらく偽りはないだろう。それは彼女の口調からもいきいきと伝わってくる。だがその一方で彼女は、わたしには決して分からない苦しみを抱えているのかもしれない。このときもわたしは聖書のある一節を思い出していた。

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
(『マタイによる福音書』18章12~13節)

■「迷子の羊」という言葉に何を思うか

わたしは聖書のこの箇所を、園長をしていた折には幼稚園児たちに、そして卒園生の子どもたちにも、繰り返し語り聞かせたものだった。

「イエスさまはね、迷子になったかわいそうな仔羊を、いっしょけんめいさがしてくれるんだよ。仔羊はきみたちだ。きみたちがひとりぼっちになって泣いていたら、すぐにイエスさまがさがしにきてくれるんだよ」

わたしはその話をする際に、自動的に脳内変換していた。羊の群れから迷い出た一匹の羊を、かわいらしい仔羊としてイメージしていたのである。まるで捨てられた仔猫のように、心細そうに鳴いている一匹の仔羊。仔羊のため懸命に岩場を探し歩く、頼もしい羊飼いイエス・キリスト……。

だがわたしの話には、羊を探す羊飼いからの視点しかない。迷い出た羊が見ている光景がないのである。あるいは羊の心情を「カナチイ、タチュケテ」と単純化しているといってもよい。

■自らの意思で群れから離れる「厄介な羊」

ところで、群れから迷い出た羊は、ほんとうに「かわいい仔羊」だったのか? そもそも羊が「迷い出た」というのも、羊飼いからはそう見えたということである。

沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)
沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

幼稚園の園長をしていたときのことを思い出す。子どもたちのなかでときおり、朝礼や終礼時になにがなんでも集まらないで、独りで遊んでいる子どもがいた。「さあ、こっちにおいで」と子どもたちが集まっているほうへ促そうとすると、ものすごい力で抵抗したり、大声で泣き叫んだりする。クラス担当の先生は慣れたもので、そういう子は無理に動かそうとしない。独り遊びをさせつつ、目の前の子どもたちと、独り飛び出した子どもとの両方に目配せしながら、見事に仕事をやってのける。

先述した女性と、羊とを重ねて考える。「迷い出た」と羊飼いに思われた羊は、発見した羊飼いの喜びをよそに、「ちッ、キモいな。また見つけてくれちゃって。放っておいてくれないかな。マジ、群れるのがウザいんだよ」と鳴いているかもしれない。

一方で、羊飼いの側はどうだろう。こんなトラブルが一度きりなら、羊を見つけられてうれしいと感じるかもしれない。だが、捕まえても捕まえても繰り返し群れから脱走する、厄介な羊だったとしたら?

「もう知らんッ。勝手に野犬にでも喰われちまえばいいんだ」。本気ではないにせよ、思わず愚痴をこぼしたくもなるだろう。ただでさえ重労働のなか、それに加えて行方不明の羊を探して回らねばならないのだから。そんなことを繰り返された日には羊飼いも、堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。

■相手から罵倒されてもかかわり続けられるのか

かかわられることを拒む人。そういう人を前にしたとき、「そっとしておこう」「人それぞれなのだから」。そう考えるほうがずっと理にかなっているのかもしれない。かわいそうだ? 余計なお世話だ! こっちは誇りをもって生きているんだよ!──だが、もしもその人が心で血を流しているのだとしたら?

でも、その人にかかわっても「ありがとうございます。あなたのおかげで助かりました」とは決して言ってもらえず、むしろ罵倒されるのだとしたら? それでもわたしはかかわろうとするのだろうか。パターナリズムと批判されようが、その人に余計なお節介をし続けるのだろうか。

■「困っている人のために行動する」ことの難しさ

わたしは相手の話を聴く。基本は傾聴することが、相談者を前にしてわたしのなすべき第一の仕事である。だが、聴くということは、動かされるということである。相手の話が深刻であればあるほど、「そうですね、たいへんですね」とうなずいておしまいとはいかなくなる。背中がむずむずしてくる。はらわたの据わりが悪くなってくる。なにかをせずにはおれなくなるのである。それで、専門家の窓口に繋いだり、その窓口へ向かう本人に同行したりする。

だが問題は、相手がそんなことをこちらに求めているか否かである。わたしが具体的に行動を起こすのは、相手との信頼関係ができたと思うときである。なぜなら、わたしが行動することによって生じるなんらかの変化を、相手が恐れることもあるからだ。

今、つらい。つらいから牧師に話しに来た。だけど、現状を今すぐ変えたいわけではない。ただ話を聴いてもらいたかっただけ。今はなにかを変えることさえしんどい。どんな方向に変わることができるのか、イメージする気力もない……そんな状態の人に対してこちらが勝手に動いてしまったら、相手の不信を招き、むしろ傷つけてしまうだけである。そもそも、今こそその時と思い行動を起こしてみたら、信頼関係ができたと思っていたのはわたしだけだった、ということさえ少なくない。

■「共生社会」というきれいな言葉を超えて

パラリンピックのニュースを毎日なんとなく観ていた。障害を乗り越える。障害を生きる力そのものとする。スポーツにみなぎる命のすばらしさ。街頭インタビューでは、

「共生社会について考えた」
「障害なんて関係ないと思った」

というような意見が聞かれる。インタビューに答える人に、わたしは意地の悪い質問をしたくなる。

わたしが出遭う人のなかには、幾重もの壁に阻まれ、そもそも頑張るとはなにかという問いさえ途方もなく、つねに不機嫌で、みなぎるなにかというイメージからは程遠い人も多いんですよ。そういう人が、あなたのそばにもいませんか。共生社会について考えるなら、一流のアスリートを見るのもいいけれど、まずは「この人、ほんとうに嫌な人だな」という感情を避けられない人とどうやって生きていけばいいのか、そこから考えてみませんか。障害なんて、ほんとうに関係ありませんか。当事者みんなが自分の障害を前向きに捉えていると思いますか。わたし独りでは、よい知恵が浮かばないのです。

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沼田 和也(ぬまた・かずや)
牧師
1972年生まれ。兵庫県神戸市出身。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。Twitterはこちら

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(牧師 沼田 和也)

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