死の間際でも彼女は美しかった…信長の妹・お市の方が「天下一の美人」と言われる歴史的根拠
プレジデントオンライン / 2023年1月13日 14時15分
※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「清須会議」で柴田勝家との再婚が決定
お市の方は、天正元年(一五七三)の浅井家滅亡ののちは、浅井長政後室として、実家の織田家の庇護をうけ続けていた。それは本能寺の変まで、ほぼ十年にわたるものであった。
その間に、お市の方が兄信長の命によって、他者に再嫁することはなかった。理由はわからないが、すでに三十歳をすぎていたから、よほどのことがない限りは、再婚が考えられることはなくなっていたのだろうと思われる。
ところが、本能寺の変後の「清須会議」による、新たな織田体制の構築にあたって、家老筆頭の柴田勝家に再嫁することになった。ではどうしてそのようなことが考えられることになったのであろうか。
■秀吉もお市の方と再婚したがっていた?
お市の方がどうして勝家と結婚することになったのか、その理由を示してくれる当時の史料は一つも存在していない。これについてこれまで、羽柴秀吉がお市の方との再婚を要望していたとか、柴田勝家がお市の方との再婚を要望していて、「清須会議」後の織田家での主導権確保を狙う織田信孝と柴田勝家による画策である、といったことが取り上げられている。
この話は現在、ドラマや小説でも必ず取り上げられるエピソードといえるであろう。しかもこれは決してドラマや小説での創作ではなかった。元になる話が存在している。ただしそれは当時の史料によるのではなく、江戸時代前期後半に成立した史料にみえているものになる。
その一つは、「村井重頼覚書」である(『大日本史料十一編一冊』八二五〜六頁)。これは織田家有力家臣であった前田利家の晩年の近臣で、利家の家老・村井長頼(一五四三〜一六〇五)の子であった村井重頼(一五八二〜一六四四)による覚書とされている。
成立年代は判明していないが、その晩年におけるものとみられている。作者の村井重頼は、天正十年の生まれであるから、その時期についての内容は、後年に誰かから伝えられたものであることは間違いない。
■「なじみの女」がいない勝家に軍配
そこには、
とある。すなわち、秀吉と勝家はともにお市の方に想いを寄せていたところ、織田信雄と同信孝との間で主導権争いがあり、信孝が、秀吉にはすでに妻(「なじみの女」)がいるので、お市の方を侍女にするつもりかと言って秀吉の申し出を退け、対して勝家には妻がいないうえに、若い時期から織田家に忠功をはたらいていると主張し、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚した、という。
ここでは秀吉と勝家がともに、お市の方に想いを寄せていたこと、信孝が信雄との主導権争いを優位にするために、勝家を味方につけるため、秀吉の意向を退け、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚することにした、という内容になっている。
■江戸中期の史料にも同じエピソードが
もう一つの史料が「祖父物語」である(『史籍集覧』十三巻三二七頁・前掲書八二六〜七頁)。同史料については、これまでは慶長年間(一五九六〜一六一五)頃の成立とみられていたが、文中の表記内容などから、江戸時代中期くらいの成立と考えられる。
そこには、
とある。すなわち、お市の方は「天下一の美人」の評判であったため、秀吉はお市の方との結婚を要望したが、勝家はそれに対抗して、岐阜城にいって城主の織田信孝とはかって、お市の方を自身のもとに迎えて、妻にした、という。ここにお市の方が「天下一の美人」と記されていることが注目されるが、それについては後ほど取り上げるので、ここで取り上げることはしない。
ここでは、秀吉と勝家の主導権争いは、互いの威勢を争ったものとも、お市の方をめぐるものであったともいう所伝を伝えて、後者について、秀吉がお市の方と結婚することを要望していて、勝家はそれに対抗するために、織田信孝を味方に付けて、お市の方との結婚を実現させた、という内容になっている。
■物語を盛り上げる低俗な憶測の可能性が高い
いずれにおいても、おおよそ、秀吉・勝家ともにお市の方に想いを寄せていて、織田信孝のはからいによってお市の方は勝家と結婚した、とするものになっている。話の流れはほぼ共通しているので、おそらくは元になる話があったのであろう。しかしだからといってそれが事実であったかどうかは別である。
そもそもそれらの史料の成立は、江戸時代前期後半以降のものであること、元の話があったとしても伝聞によったであろうこと、しかも秀吉と勝家の権力抗争についての理由を見いだそうとするなかでのものであることからすると、他者ないし後世の人による、興味深い内容にするための、いわば低俗な憶測の可能性が高いと思われる。
そもそも実際に起きたと推定される事実との間に矛盾がみられている。お市の方と柴田勝家の結婚は、「清須会議」で取り決められたものとみられ、それは勝家が長浜領を請け取ることと一体のこととみなされた。したがってその後にみられた、秀吉と勝家の主導権争いのなかで生じたことではなかった、とみなされる。
とくに「祖父物語」では、「清須会議」によって岐阜城主となった織田信孝のもとに、勝家が訪れて、お市の方との結婚を実現したように記していたが、そもそも信孝が岐阜城に入る以前に、お市の方と勝家の結婚は取り決められていたと考えられるから、そのような事態は生じえなかった。
それらはおそらく、お市の方と勝家の結婚が「清須会議」での取り決めによることが忘却されたなか、秀吉と勝家の権力闘争の理由を、興味本位で認識しようとして生み出されたものであったように思われる。
■「天下一の美人」という評価は本当か
次に、お市の方に関する著名なエピソードについて検証しておくことにしたい。それはお市の方が「天下一の美人」と評されていたことについてである。現在、それはお市の方の代名詞ともなっているといってよい。そのため本書(『お市の方の生涯』)でもそれを無視することはできない。あらためてそのことを検証しておきたい。
お市の方を「天下一の美人」とする直接の典拠は、先にも引用したが、「祖父物語」である。そこに「天下一の美人の聞こえ有りければ」と記されていた。さらにそこには続けて、それゆえに秀吉がお市の方と結婚することを望んでいた、という話に展開している。
これまでは、同史料の成立は慶長年間頃とみられていたため、比較的に信憑性のある話として受けとめられてきたが、そこで記したように、同史料の成立は、江戸時代前期後半以降とみなされる。そのためその評判が、当時からのものであったのかは不明ということになる。
■死の間際に「ことの外御うつくしく」
しかしながらお市の方は、やはり当時から「美人」と認識されていたことがうかがわれる。それを示すのが「渓心院文」(国立公文書館内閣文庫所蔵)になる。
賤ヶ岳合戦で勝家軍に勝利した秀吉軍は、勝家の本拠の北庄城を攻め囲んだ。勝家はお市の方に北庄城から退去することを勧めたが、お市の方は勝家とともに自害することを決意し、長女・茶々、次女・初、三女・江を秀吉に託すことにした。
この北庄城で三人の娘を秀吉に引き渡すにあたって、お市の方が「三の間」まで出てきた際のこととして、「ことの外御うつくしく御とし頃より御若かに御廿二、三にもみえさせられ候」と記している。
この認識はおそらく、三人の娘に供奉した侍女らによるものであったと思われる。ここに「とても美しい」とあることから、お市の方が当時において「美人」と認識されていたことは確かとみてよいであろう。
そしてその「美人」とは、年齢が若くみえ、二十二、三歳のようだった、というから、実際の年齢よりも若く見えたのがその理由であった。
■「美人」と認識されていたことは間違いない
とはいえ、この年齢よりも若く見える、というのが具体的に何を指してのことかはわからない。お市の方はこの時、三十四歳くらいと推定される。そうすると実際の年齢よりも、十一、二歳若く見えた、というのであるから、およそ一回りほど若く見えた、ということになる。ではそれはどのようなことを想定できるであろうか。
お市の方が「三の間」に出てきたのは、おそらく深夜のことであったろう。いうまでもなくかがり火など以外の明かりはなかったし、お市の方もまた化粧を施していたことであろう。そうしたなかで若さを認識できるとすれば、髪の毛の色艶や肌の張りくらいのように思われる。
実際にどうであったのかはわからない。しかしお市の方が、当時から「美人」と認識されていたことは間違いないといえるであろう。しかしそれが、「天下一の美人」と認識されていたのかどうかといえば、わからないとしかいいようがない。それを記す「祖父物語」は、少なくともそれから一〇〇年ほど後の成立になるからである。
■人々がお市の方に関心を持ち続ける理由
憶測をたくましくするなら、死後から一〇〇年ほどのなかで、秀吉と勝家の抗争は、お市の方をどちらが獲得するかが原因にあり、両者の抗争は織田家での主導権をめぐるものであったから、それは「天下」を争うのと同意であり、その争いの原因であったお市の方の美人さは、それゆえに「天下一」のものであった、と考えられていったのかもしれない。「祖父物語」はそのような認識を書き留めたものかもしれない。
とはいえお市の方がそのように、江戸時代半ばの時期に、「天下一の美人」と表現されるようになったことが、その存在を、後世に記憶させ続けた大きな理由であったことは間違いないであろう。
それは現代のドラマや小説にも引き継がれ、そのため現在においても、お市の方は戦国女性のなかで、一、二を争うほど著名な存在であり続けるものとなっている。そしてそれにともなって、お市の方への関心が引き続いて作り出され続けているといえるであろう。
■戦国時代の「美人」とは何か、は興味深い
かくいう本書も、まさにその恩恵に浴したものになる。お市の方に関する当時の史料は、ほとんどみることができない。その限りでは、ほぼ空想の世界の存在ということになる。しかしにもかかわらず、断片的な史料、さらに後世成立の史料をもとに、お市の方について一書をなすことが可能だったのは、お市の方の著名さにもとづいており、それは彼女が江戸時代に「天下一の美人」と評されたことによっている。
おそらくそれがなければ、お市の方は、せいぜい信長の妹の一人、国衆・浅井長政や柴田勝家の妻、さらには茶々ら三人の娘の母、といった程度でしか認識されることはなかったであろう。それがお市の方として、一人の歴史的人物として認識され続けてきたのは、「天下一の美人」という表現によって、個性が確立されていたからである。
ただし研究者の立場からすると、お市の方が「天下一の美人」であったのかどうかは、どうでもよい問題にすぎない。それが当時の認識ではないと考えられるからだ。ただ当時においてもお市の方は、「美人」と認識されていた。
これについては、当時の認識において「美人」とは何についていっていたのか、が気にかかる。それは人に対する認識が、時代や社会の変化にともなってどう変化していくのか、を認識することにつながり、ひいてはそのことが現代社会の有り様を相対化するための足がかりになるからである。
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歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。
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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)
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