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実は愛知、静岡ではない…NHK大河『どうする家康』で漁夫の利を得る家康、信長、秀吉の墓がある都市

プレジデントオンライン / 2023年1月15日 11時15分

NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

NHK大河ドラマは毎回、舞台となる都市が街おこしに躍起になる。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳さんは「今年の『どうする家康』は家康ゆかりの愛知県、静岡県が盛り上がりそうですが、その他にも恩恵を得る都市があります。そこでは“三英傑”と呼ばれる家康、信長、秀吉の墓所を巡ることができます」という――。

■「どうする家康」で儲かる自治体はどこか?

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が、今月8日から始まった。主役、徳川家康を演じるのは松本潤。大河で家康が主人公を飾るのは40年ぶり3回目となるが、今回の脚本はなかなかユニークだ。戦国時代における群雄割拠の中で「どうする?」と逡巡する、“やや頼りない”家康の立ち居振る舞いが見どころのようだ。

大河ドラマの主な舞台は家康ゆかりの愛知県や静岡県で、街おこしの起爆剤になることが期待されるが、京都も恩恵を受けそうだ。というのも、家康をはじめ信長や秀吉(三英傑)といった登場人物の墓所があるからだ(ちなみにドラマ内では信長役は岡田准一、秀吉役はムロツヨシが演じる)。私は過去に「三英傑」の墓所を巡ったことがあるが、その規模感で勝るのは意外な武将であった。

信長、秀吉、家康の三英傑は喩え歌「鳴かぬなら 殺してしまえ(信長)・鳴かせてみせよう(秀吉)・鳴くまで待とう(家康)ホトトギス」や、落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」に詠まれているように、わが国を代表する武将たちだ。なかでも家康は江戸幕府を開き、その後260年あまりにわたって15人の将軍が君臨する超長期安定政権を樹立させた。日本史のなかでも特に傑出したリーダーであった。

■家康の墓

その家康の墓所の所在地は、多くの方がご存知だろう。日光東照宮である。実は神社の境内に墓が造られること自体が、とても珍しい。武将の墓であれば、通常は仏式の戒名が付けられて菩提(ぼだい)寺に祀られる。家康が神社に祀られているのには理由がある。家康の臨終時に時間を遡りたい。

家康は臨終を前にして、側近の天海らを呼び寄せた。そして、こう遺言を残した。

「私の遺体は静岡の久能山に安置し、葬式を増上寺で執り行い、位牌(いはい)は三河の大樹寺に祀ったうえで、一周忌を済ませれば日光の輪王寺に仏堂を建てて改葬せよ。京都の金地院にも仏堂を造って、京都所司代ら武家たちに参らせよ」

遺言のように、日光東照宮はもともとあったわけではなかった。一周忌を期に、現在の日光東照宮に隣接する輪王寺の境内地に墓が建てられた。同時に、家康を神として崇めるお宮(日光東照宮)が造られたのだ。

当時は神仏習合の時代。寺と神社が共存していることが普通であった。それが明治初期の神仏分離によって、輪王寺と日光東照宮が切り分けられ、現在に至っている。

現在、家康の遺骸が埋まる墓所は、日光東照宮の最奥部にある。奥社宝塔(重要文化財)と呼ばれている。8角5段からなる基礎石の上に、青銅製の基壇と唐銅(金・銀・銅の合金)でできた高さ5メートルの宝塔が置かれている。

日光東照宮にある家康の墓
撮影=鵜飼秀徳
日光東照宮にある家康の墓 - 撮影=鵜飼秀徳

実はこの家康の墓は3代目。当初は木造でその後、石造に改められた。だが、1683(天和3)年の地震で壊れ、第5代将軍徳川綱吉によって現在の宝塔に造り替えられている。

ちなみに、3代将軍家光の墓は隣の輪王寺にある。他の将軍は、最後の将軍慶喜を除き、東京の増上寺と寛永寺に分けて祀られている。

輪王寺の家光墓所
撮影=鵜飼秀徳
輪王寺の家光墓所 - 撮影=鵜飼秀徳

家康の墓は日光東照宮にのみ存在すると思い込んでしまいがちだが、実は各地にある。死後も家康の威光を得て庇護されたいとする寺院が現れ、各地に分祀されたのだ。たとえば、高野山の徳川家霊台には家康と第2代将軍秀忠が祀られているし、京都府の圓光寺や、愛知県岡崎の大樹寺、大阪府堺市の南宗寺、福岡県久留米市の善導寺などにも墓所がある。

善導寺の墓の下には家康が愛用した甲冑(かっちゅう)が納められているという話も残る。いずれの家康の墓も、徳川幕府の祖らしく、豪壮な墓である。

福岡・久留米にある善導寺の家康の墓
撮影=鵜飼秀徳
福岡・久留米にある善導寺の家康の墓 - 撮影=鵜飼秀徳

■信長の墓

次に織田信長の墓はどうか。大河ドラマでは、家康にとって脅威でもあり、兄のように慕う存在として描かれている。その信長は明智光秀に本能寺で暗殺され、遺骸は発見されていないとされている。では墓はないのか? 否、信長の墓は全国に少なくとも15カ所以上もあるのだ。数の上では家康を凌駕する。

私は過日、富山の名刹(めいさつ)、瑞龍寺に赴いたが、その境内地の片隅にも織田信長の墓を見つけた。石造りの廟(びょう)の中に、宝篋印塔と呼ばれるタイプの石塔が納められている。脇には信長の戒名「総見院殿泰巌浄安大居士」が掲げられていた。家康の墓標に比べてかなり質素だ。ここには信長の遺骨が分骨されているというが、実際のところは定かではない。石廟は信長の他にも、息子の信忠や前田利家ら5基が並んでいる。いずれも富山県指定文化財になっている。

富山・瑞龍寺の信長の墓
撮影=鵜飼秀徳
富山・瑞龍寺の信長の墓 - 撮影=鵜飼秀徳

信長の墓は暗殺された本能寺にもある。しかし、なかでも信憑性が高いとされているのが京都・寺町通りにある阿弥陀寺(浄土宗)だ。阿弥陀寺の規模はさほど大きくはなく、一般的な檀家(だんか)寺である。

なぜ阿弥陀寺に信長の墓があるかといえば、開創の清玉上人が織田家と親交があったことに由来する。清玉上人は本能寺の変後、本能寺に駆けつけ、信長と信忠父子、さらに森蘭丸などの腹心の遺骸を見つけて自坊に埋葬したと伝えられている。

その墓は実に質素で、看板がなければ通り過ぎてしまうほどである。だが、卒塔婆や生花がたくさん立てられ、いまなお、多くのファンたちによって愛されていることがわかる。墓こそ、武将の偉業を今に伝える最大の遺物だと思った。

阿弥陀寺にある信長の墓所(右)
撮影=鵜飼秀徳
阿弥陀寺にある信長の墓所(右) - 撮影=鵜飼秀徳

■秀吉の墓

家康と同じく天下人となった豊臣秀吉の墓の存在は、地元の京都人でも知る人は少ない。その実は、秀吉の墓こそが驚愕(きょうがく)なのだ。

秀吉の墓は京都市東山区の阿弥陀ヶ峰と呼ばれる山中にある。この秀吉の廟所は「豊国廟(ほうこくびょう)」という。徒歩圏には清水寺や三十三間堂、京都国立博物館などの観光名所が点在しているが、豊国廟まで足を延ばす観光客はほとんどおらず、地元民がちらほらいる程度である。

豊国廟の墓域への入り口は、京都を代表するお嬢様大学、京都女子大学(通称、京女)正門の脇を抜けた山手にある。大鳥居をくぐるとその先には、ピラミッドのようにそびえる急峻(きゅうしゅん)な石段が目の前に立ち塞がっている。階段は489段もあり、普通に上がると15分ほどかかる。健脚ではない限り、階段を一気に上るのはかなりつらい。

豊国廟へと一直線に続く489段の階段
撮影=鵜飼秀徳
豊国廟へと一直線に続く489段の階段 - 撮影=鵜飼秀徳

途中には唐門があり、それを抜けて最後の階段を上り詰めると、巨大な墓石が視界に飛び込んでくる。墓石の高さはおよそ10m(推定重量100トン)もある。日光東照宮の徳川家康の墓の倍の高さだ。奈良の大仏が像高およそ14mなので、どれほど大きいかが理解いただけるだろう。秀吉の墓は、日光東照宮の家康の墓よりもはるかに巨大(国内最大規模の墓石)でインパクトも、家康の墓以上に強烈だ。

墓の意匠は、「串に刺さったおでん」のような形状の五輪塔だ。石立垣で囲まれ、内部には高さ2m近い石の高炉や花立てがある。すべてがビッグサイズだ。

阿弥陀ヶ峰にある秀吉の墓
撮影=鵜飼秀徳
阿弥陀ヶ峰にある秀吉の墓 - 撮影=鵜飼秀徳

筆者が調べた限りではあるが、五輪塔では国内最大と思われる。現在のようなハイテク重機もない時代によくぞ、この巨石を組み上げたものだと感心する。

秀吉は朝鮮出兵の最中の1598(慶長3)年、この地からほど近い伏見城で死亡した。多くの武将が朝鮮半島に出征していたため翌1599(慶長4)年4月18日に、ここ阿弥陀ヶ峰にて葬儀が行われた。そこで朝廷は「豊国大明神」の神号を与え、麓に豊国神社の壮麗な社殿が造営された。遺骸は山頂に埋葬された。戒名は「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」である。

だが、徳川家康が豊臣家を滅ぼすと、秀吉の神号には廃止命令が下り、神社は破壊されてしまう。豊国廟も壊され、江戸時代は参拝者がほとんど訪れることはない廃虚となっていたという。

ところが江戸幕府が倒れた後の1868(明治元)年のこと。明治天皇が大阪へ行幸する際、「豊臣秀吉は天下を取ったが(徳川のように)幕府をつくらなかった」と評価し、豊国神社の再建を命じる。そこで、豊臣家が滅びる原因ともなった方広寺大仏殿跡地に、新しい豊国神社が建てられた。

豊国廟のほうは1898(明治31)年、秀吉没後300年忌事業として、再建されることになった。豊国廟の設計を手がけたのは、築地本願寺や平安神宮などを手がけた名建築家・伊東忠太である。

その工事の最中、土中に埋まった秀吉の甕棺が発見された。それは最高権力者の棺には似つかわしくない粗末な備前焼であったため、破壊時に入れ直されていたと考えられる。棺の中には秀吉が、西向きに座っていた。遺骸はミイラ化しており、すぐにバラバラと崩れてしまった。秀吉の遺骸は桐の棺に入れられ、この墓に祀りなおされた。

豊国廟の完成当初は、ここから京都市全域が一望でき、遠くは大阪市内まで見渡せたという。現在では樹木が高く生い茂っており、眺望はさほどはよくない。だが、廟所北側は清水寺が眼下に俯瞰(ふかん)できるロケーションにある。

豊国廟から俯瞰する清水寺と京都市街地
撮影=鵜飼秀徳
豊国廟から俯瞰する清水寺と京都市街地 - 撮影=鵜飼秀徳

補足になるが、秀吉の御霊を祀る豊国神社は、先述のように方広寺の大仏殿跡地に再建された。社殿の直線上には豊国廟があるので、阿弥陀ヶ峰に登る体力のない人はここから遥拝することが可能だ。

豊国神社と秀吉の像
撮影=鵜飼秀徳
豊国神社と秀吉の像 - 撮影=鵜飼秀徳

なお、豊国神社と隣接して、現在の方広寺がある。方広寺境内はかなり規模が縮小しているが、現在でも国内最大規模を誇る梵鐘(高さ4.2m、重さ83トン)があるのでぜひ、ご覧いただきたい。梵鐘に刻字された「国家安康」「君臣豊楽」が大坂の陣の引き金となったと言われている。権力構造を変えたその文字も確認することができる。

「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた(白枠)方広寺梵鐘
撮影=鵜飼秀徳
「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた(白枠)方広寺梵鐘 - 撮影=鵜飼秀徳

戦国時代を生き抜いた三英傑の墓は、その栄華と滅亡を無言のままに伝えている。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

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