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「親子の時間を増やせば虐待はなくなる」と思い込んでいる…日本の"児童虐待防止対策"の根本的な間違い

プレジデントオンライン / 2023年1月19日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kieferpix

なぜ児童虐待はなくならないのか。精神保健福祉士の植原亮太さんは「多くの人は『親であれば、自分の子に無関心のはずがない』と思い込んでいるが、現実はそうではない。親子の時間を増やすことで、虐待が悪化するケースもある。虐待を減らすには、親子関係のあり方を問い直す必要がある」という――。

■現行の「児童虐待」の対策は間違っている

幼少期に実の両親などから身体的・精神的虐待を受けてきた“虐待サバイバー”の話をカウンセラーという立場で聞いていると、私たちが考える児童虐待関連の対応や支援は、大きく間違っているのではないのかと思うことがあります。そのせいで、実は私たちこそが、彼らの自立や精神的回復の足を引っ張っていることすらあるのではないのかとも感じます。

なぜ良かれと思った支援が逆に彼らを自立から遠ざけてしまうのでしょうか。

まず大前提として、児童虐待の多くは親と子の「愛着関係の不成立」によって起きます。

■多くの親子は「愛着関係」が成立している

愛着関係とは、イギリスの精神科医であるジョン・ボウルビイ(John Bowlby、1907~1990)が提唱した概念です。簡単に説明すると、「母親(あるいは代理母親)との暖かい、持続的関係」(注)のことを言います。

(注)『ボウルビイ 母子関係入門』(星和書店)

こういった愛着関係が成立している親子が、この社会ではほとんどでしょう。おそらく、私もそこに属しています。大多数の人々は、虐待とは縁遠い「普通の」親子関係の中で生きているのです。それが、児童虐待を見落としてしまったり被虐待者の「生きづらさ」を助長させてしまったりするひとつの要因だと思うのですが、この説明はまた後にするとして、話を愛着関係に戻します。

児童虐待とはどういうものかを理解してもらうために、次にいくつかのエピソードをあげていきます。どれも、ごく一般的な家庭で成育してきた立場の感覚では、とても信じられないものだと思います。

ある男の子は、真夏の日差しで焼けるように熱いマンホールのうえに素足で立っているように父親から命じられていました。少しでも動くと、足首を両手で押さえられていました。
同居する母方祖父から性的虐待を受けていた女子児童がいました。“それ”が行われるのは、決まって祖父の部屋の押し入れの中だったそうです。「おじいちゃんに変なことされる」と母親に訴えましたが、「生活の面倒を見てもらっている身分がわからないのか! わがまま言うな!」と聞く耳を持ってもらえませんでした。中学生の時に祖父が亡くなるまで“それ”は続きました。
何かのきっかけで急に怒り出した母親によって服を脱がされ、全裸のまま家から締め出されてしまった女児がいました。住んでいる公営団地の1階にある郵便ポストの隅にうずくまっているのを祖母が見つけてくれましたが、「お盛んね」と言われて通り過ぎてしまいました。これを見ていた住民が異様な事態に気付き、児童相談所へ通報しました。それから一時保護所に入ることになりましたが、結局は“家庭復帰”となりました。家に戻ってきても祖母と母親から虐げられる暮らしは何ひとつ変わりませんでした。
庭にある犬小屋で寝かされていた女の子がいました。その子は大人になってから私に、「先生、知っていますか? 冬の犬の毛って、ふわふわで温かいんですよ」と笑いながら話しました。
ある男性は、「親が3日くらい帰ってこない日が何回もあって、インスタントラーメンの袋の内側をなめて飢えをしのいでいました。水道も止まっていたので、喉が渇いたら公園に水を飲みに行きました」と、子供の頃のことを聞かせてくれました。

(個人が特定されないように配慮しています。)

押し入れ
写真=iStock.com/miura-makoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/miura-makoto

■一般的な感覚からは虐待エピソードを信じがたい

聞く耳を疑ってしまうような異常な出来事の数々です。私は当事者たちが「家で起きていたことを他人に話しても、『親がそんなことするはずがない』『親が子供を愛していないわけない』って、よく言われてきました」と異口同音に話すのを聞いたことがあります。親との愛着関係が成立している一般的な世界で生きてきた人たちの立場からでは、こんなことが実際に起きるなんて想像することが難しいのです。

ちなみに私の経験では、虐待する親への理解度は、一般の方と専門家の間とで、あまり差はないように思います。この理由に関しても、順に述べていきます。

いずれの虐待も、親が子との愛着関係を築くことができれば決して起こりません。

では、なぜ愛着関係が不成立となってしまうのでしょうか。

■虐待の背景には必ず親の「一方性」「無関心性」がある

その最たる要因は、親側が「共感」や「推察」といった能力が欠如しているか著しく乏しいという精神科領域の課題を抱えているためです。子供が怖がろうが、痛がろうが、苦しもうが、関心を寄せずにいられるのです。そして、その後にどんな傷を心身に残すのかを考える力も弱いので、通常では起こり得ないような事件や事故につながることもあります。

幼児が両足を骨折していることに長期間気付かなかったり、車の座席に放置したまま飲み歩いていたりという出来事の背景には、親側の「一方性」と「無関心性」が必ず存在しているのです。

ゆえに子との愛着関係を築くことは、かなり難しいのです。

■無理に親子の接点を増やすと虐待が悪化することもある

まとめると、

①児童虐待には親側の発達障害(特に“軽度”知的能力障害)が関係している場合があり
②本人の努力やがんばりによって「改善」できる問題でもなく
③かつ、支援者からの「働きかけ」で余計に虐待が悪化することもある

という厳しい現実が、こうした悲惨な児童虐待の多くにあるのです(注)。子育て支援やカウンセリングで子との愛着関係を促進するのは困難で、代わりに子との接点を減らしていく環境調整が有効です。

(注)『ルポ 虐待サバイバー』第5章で詳述

ところが実際には、親と子の接点を増やし、愛着関係が促進されることが解決であると思われている節もあります。実は、私が最もお伝えしたかったのは、これによる“実害”が意外にも少なくないということです。

私たちは暗黙に、親は無条件に子のことを愛すものだと思ってしまっているようです。これは、次の理屈によって説明することが可能です。

■なぜ子は親を信用するようになるのか

私たちには「内的作業モデル」というものがあります。簡単に説明すると、「人間関係のひな型」のようなものです。

親と豊かな愛着関係を築けた人は、親(人)を信頼するところから人生を始めることができました。おむつが汚れて不快で泣いていても、空腹でミルクが欲しくて泣いていても、親が世話をしてくれました。2〜3歳になって自分の足で歩けるようになり、行動範囲も広がりました。自分の意思でやりたいことがいっぱいです。

叱られることもありましたが、褒められることもありました。そこにはきちんとした親の養育態度の一貫性があるので、子の側からすると、どんなときに叱られ、褒められるのかを理解することができます。ですから、子は親のことが怖くありません。こういった親の元に生まれた子供の、「親が自分のことを嫌いになることはない」「決して見捨てることはない」という確たる信念には、いつも驚かされます。

親も子を理解し、子も親を理解する。そして相互の情緒的な交流がある。以上が愛着関係の本質です。

この効果によって子は、人は信用していいものだし、気持ちは通じ合えるものなのだと、幼い頃に心へインプットすることができます。そうして刻まれた体感を土台にして、親以外の他人や社会との関係性を広げていくのです。かつ、この体感は加齢とともに安定性を増し、その内容は一生涯にわたって変わることがないとも指摘されています。

この社会で暮らしている圧倒的大多数の人々は「親と子の愛着関係」に恵まれてきました。だから、これを固く信じているでしょうし、疑う余地などないかもしれません。

私たちの心は、親子といえば愛着関係があるものなのだと規定されてしまっているとも言えるのです。ですから、専門家であろうがなかろうが、この「規定」に差はないのだろうと思います。

■娘からの贈り物を「気持ち悪い」と捨てる母親

ここでひとつ例をあげます。

ある小学校に、虐待を受けている10歳の女の子がいました。その子から「お母さんに無視されているんだ」と聞いたスクールカウンセラーは、親子喧嘩が起きているのだと思い、「プレゼントを渡すといいよ」と助言しました。母の日が近かったのです。だいたいの母親は喜びつつも、娘の好意を思うときつい態度をとってしまったことに胸を痛めるでしょう。

その後、女の子と母親がどうなったのか気になったカウンセラーは様子を聞きました。しかし、予想に反して女の子は沈んだ顔をしています。助言通りにしたとのことですが、母親は「こんなのいらない」「機嫌をとろうとしていて気持ち悪いね」と言いながら、渡したプレゼントをその場で捨ててしまったとのことです。

不要な贈り物をゴミ箱に投げる
写真=iStock.com/komta
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/komta

一般的な角度からなされる「親とうまくやる」ための助言が、虐待を受けている子の家庭には通用しないことが少なくないのです。それどころか、かえって子供を傷付けることにもなり得ます。

児童虐待は、親と子の仲たがいや喧嘩とは明らかに異なっています。単なる親子喧嘩であれば、それは互いに譲歩できない部分があって膠着(こうちゃく)した関係が続いている状態です。だから解決は、互いに譲歩して「仲直り」することです。

■「親子喧嘩」と「児童虐待」は本質的に異なる

ところが、残念ながら、先の例のような親子関係に仲直りはあり得ません。そして、子が親の愛情を欲する気持ちや、子が親に歩み寄ろうとしている姿勢が親に伝わることもありません。「共感」と「推察」の能力は、持って生まれた気質的な問題によって限界があることが少なくないからです。無視をするのは興味も関心も持つことができないからで、厳しく接するのは単純に世話が面倒で虐げているだけです。

こういった内実があるのですが、被虐待児への支援は「子供と親がその相互の肯定的なつながりを主体的に回復すること」(注)が基本になっています。そうした働きかけを安易に行うことによって、子側だけでなく親側にも予期せぬストレスをかけることがあります。その結果、虐待が悪化したり親子関係が不安定になったりすることもあります。親の能力以上のことを「させようと」しているからです。

(注)厚生労働省 親子関係再構築支援ワーキンググループによる「社会的養護関係施設における親子関係再構築支援ガイドライン」

親子関係の問題の理解や解決は、あくまでも虐待を受けてきたことのない人たちの視線から考えられていることがほとんどなのです。

こうした定型的な支援に当てはめられたがために、結果的に親側が混乱してしまい、子側にストレスの矛先が向くという、言わば「支援の後遺症」に苦しんだ女性もいます(注)

(注)『ルポ 虐待サバイバー』第6章で詳述

彼女は幼少期に虐待を受けていました。支援者が介入しましたが、介入したがゆえに虐待が悪化してしまいました。大人になってから精神科に通い、過去の母親のことをカウンセラーに相談すると、「お母さんもつらかったはず」と言われてしまいました。母親の味方をされているように感じた彼女は、通院をやめてしまいました。

繰り返しになりますが、私たちは「親であれば、自分の子に無関心のはずがない」と信じています。親との間に愛着関係があり、そのうえに内的作業モデルが完成したからです。そんな私たちが考え出して用いている虐待理解や対応は、親と子の愛着関係が不成立であることによって起きている場合にはフィットしないことが数多くあるのだと思います。

■つらい子育ての背景には「我慢」がある

最後に、ひとつだけ付け加えておきます。

親側に大きな「我慢」があると、子育てに混乱を与えることがあるのも忘れてはなりません。

我慢が大きいと、自分の子供のわがままや甘えを拒否したり拒絶したりしてしまうことがあります。これは親自身が我慢しているがゆえに子のわがままや甘えを許せなくなる心理で、孤立と緊張が伴う育児を余儀なくされている状況に原因があります。その親に呼応するように子の我慢や緊張が強い場合も多く、子が幼稚園や小中学校で問題を起こすこともあります。集団行動になじめなかったり反応が鈍かったりして、発達障害に見誤られることも少なくありません。

学校からの呼び出しがかかるなどして子の問題を解決していかなければならなくなり、ますます育児の負担が重くなることもあります。

こうした事情から子育てが切迫しているので、子への態度が厳しく映り、表面上は虐待のように見えることもあります。しかし、深く話を聞くと「共感」「推察」の能力が乏しいことによって起こる虐待とは異なり、一線を画していることがわかります。

かつ、親と子の間には多少の緊張があるものの愛着関係には問題がないことも少なくありません。その場合は、子育て支援と深いカウンセリングによって、子供と豊かな愛着関係を築いていくことは十分に可能です。

特にカウンセリングの中で育児の苦労や子供への気持ちなどを語り、深いレベルで悩みが言語化できるようになると、親側の緊張が軽くなるのと並行して子との関係にも変化が表れます。そして、やがて子の問題は消失していきます。

よくがんばって育児をしていることを関係者が十分に理解するだけでも、親子共にかなりの改善が見られます。

■「寄り添う」ことと「理解する」ことは違う

私が日々のカウンセリングの中で貫いているテーマは、「“寄り添うこと”と“理解すること”は違う」というものです。正確な理解なしに寄り添ったところで、それは単に善意の押し売りになってしまうのです。

植原亮太『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)
植原亮太『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)

勉強と経験を積んでいけば知識は増えていくかもしれません。しかし、痛みは感じたことのある人にしかわかりません。彼ら被虐待者と深く関わっていくと、大切なものはいつも私の理解の範囲外にあるのだと気付かされます。そして、感じたことがない彼らの痛みを理解できるように自分の解釈へと曲解していることもわかります。

こうした自分の限界を知って「理解できていなかった」ことを少しだけ理解できるようになって、ようやくカウンセラーとしてスタートラインに立てたような気がします。

虐待問題に対しては、法律や福祉制度が見直され、直近では「こども家庭庁」の創設も進んでいます。しかし最後に見直すべきなのは、私たちの「親子概念」なのかもしれません。

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植原 亮太(うえはら・りょうた)
精神保健福祉士
1986年生まれ。公認心理師。汐見カウンセリングオフィス(東京都練馬区)所長。大内病院(東京都足立区・精神科)に入職し、うつ病や依存症などの治療に携わった後、教育委員会や福祉事務所などで公的事業に従事。現在は東京都スクールカウンセラーも務めている。専門領域は児童虐待や家族問題など。

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(精神保健福祉士 植原 亮太)

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