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NHK大河ドラマを信じてはいけない…徳川家康が今川家の人質時代に味わった「本当の苦難」とは

プレジデントオンライン / 2023年1月15日 18時15分

徳川家康公像(写真=z tanuki/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

徳川家康は、幼少期を今川家の人質として駿府(静岡県静岡市)で過ごした。歴史学者の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマをはじめ、さまざまな作品で人質時代は不遇の時代のように描かれているが、それは違う。実際は、今川義元から丁重に扱われていたようだ」という――。

■「今川義元に収奪される三河武士」は本当か?

大河ドラマ「どうする家康」第1回「どうする桶狭間」(1月8日放送)では、若き頃の徳川家康が、人質として過ごしていた駿府から父祖の地・岡崎に一時帰還、三河衆(家臣)から饗応される場面が描かれました。

その時、家康の側近く仕える石川数正は、家康に次のような言葉をかけたのです。

「何と見すぼらしき者たち、何と貧しき膳。そうお思いでしょう。田畑の実りのほとんどを今川家に献上している三河衆にとって、あれが精いっぱいのもてなしなのでござる。私は涙が出る。

殿、お忘れあるな。あの者たちこそが、殿の家臣であり、今は今川の城代が居座るあの城(岡崎城)こそが、殿の城なのです。いつか必ず、あの者たちと共に三河一国を束ねる時が参ります。その日にお備えくだされ」と。

今川義元に収奪される三河武士――。『三河物語』などの記述もあって、これまでドラマでもそのように描かれることが多かったのですが、果たして、実態はどうだったのでしょうか。また、家康の織田・今川人質時代はどのようなものだったのでしょうか?

■6歳のときに織田家→今川家へ

家康が生まれた三河という国は、尾張と駿河という強国に挟まれていたため、常に隣国に翻弄される立場にありました。

天文18年(1549)11月、尾張国・織田信秀(信長の父)の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)は、今川家が捕らえていた信秀の子・信広との人質交換によって、駿河の今川義元の元に赴きます。

ちなみに、尾張にいた頃(1547〜1549)の竹千代は、清洲城内ではなく、熱田の豪族・加藤順盛の邸に預けられていたとの説もあります(その後、名古屋の万松寺に移されたとの説もあり)。

家康の実母・於大の方は、松平広忠(家康の父)と離縁した後、尾張国知多郡阿古居(阿久比)の豪族・久松俊勝(織田方)に嫁いでいました。

熱田は、阿古居に近いということもあり、於大は、使者を遣わし、竹千代に差し入れをしていたとも言われています。想像ではありますが、家康が熱田に預けられたのは、そうした配慮もあったのかもしれません。

■人質だった家康と信長が出会っていた史実はない

「織田家の人質時代」の竹千代にまつわるエピソードとして、小説やドラマなどではよく織田信長との交流があったかのように描かれています。

例えば、NHK大河ドラマ「秀吉」(1996年放送、主演・竹中直人)において、徳川家康(演・西村雅彦)は織田信長(演・渡哲也)に対し「言い出したら聞かぬこと、私が織田の人質となっていた時、かわいがっていただいた兄上(信長のこと)はようお分かりのはず」と述べています。

信長と家康は当たり前だが、兄弟ではないが、かつて、本当の兄弟のように仲良く接していたということをこのせりふで強調されています。信長は天文3年(1534)の生まれであり、竹千代が織田にいる頃は、13歳から15歳。元服し、初陣も果たしています(一方、竹千代は4歳から6歳の頃に織田の人質となっていました)。

信長が竹千代に会いにいくことは容易でしょうが、この頃の2人に交流があったとする史実はありません。後に同盟を結ぶことになる両者。少年期に知り合っていたとする方が、ドラマチックではあるでしょうが、史料はそのことを語ってはいないのです。

■祖母と家臣が側にいた

2年間の織田家での人質生活を終えた竹千代は、今川氏の本拠・駿府へ移ります。

最初、竹千代は少将宮町(現在の静岡市葵区紺屋町)に住み、於大の方の母・華陽院によって養育されたといいます。手習い(文字を書くこと)を教わるなどしたようです。

竹千代に従い、駿府まで来た松平家臣(酒井正親・内藤正次・天野康景・石川数正・阿部正勝・平岩親吉・野々山元政など)もいました(中村孝也『徳川家康公伝』日光東照宮社務所、笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房)、それなりににぎやかな駿府での生活ではなかったかと推測されます。

家康の人質時代というと、惨めで独りぼっちで寂しくと描かれがちであるが、そうでなかったのです。

また、竹千代は今川義元から邪険に扱われたわけではありません。その逆です。

一説によると、今川義元の右腕である禅僧・太原雪斎が竹千代の学問の師匠となったと言われています(しかし、家康幼少期の逸話は、江戸時代の編纂物に記されたものが多く、後世の創作とも指摘されています)。

人質生活と聞くと、暗くジメジメしたイメージがあるかもしれないが、決してそうした面ばかりではないのです。竹千代は、恵まれていたと言えるでしょう。もちろん、それは人質を迎え入れる側(この場合は今川氏)の意図や長期的戦略もあってのことでしょう。

つまり、慈愛をもって人質に接することにより、その人質が長じてのち、そのことを恩義に感じて、今川家に忠節を尽くしてくれることを期待する想いもあったのではないでしょうか。

■元服名を与えられ、嫁も娶る

天文24年(1555)3月、竹千代は元服し「次郎三郎元信」を名乗ります。

「信」の字は、信光や信忠のように、松平家当主のなかで使用されてきた文字(通字=祖先から代々伝えてつける文字)です。

「元」の字は、今川義元から「元」の字を頂いたのです。「次郎三郎」というのは、父・広忠も、祖父・清康も使っていた称号であり、これまた松平家当主を表すものでした。

ちなみに、元信は、弘治4年(1558)頃には「蔵人佐元康」と改名しています。「元」の字は今川義元の「元」です。「康」の字は、祖父の清康の「康」をもらったと考えられています。

「徳川家康」という名乗りはまだ登場してこないが、「今川人質時代」の家康には、当然ではありますが、常に「松平家」(家と先祖)のことが頭にあったのでしょう。

さて、弘治3年(1557)正月、元信は結婚しています。お相手は、今川家の家臣である関口氏純の娘。後に築山殿と呼ばれることになる女性と結ばれたのです。関口氏は重臣であり、今川の一門でもありました。

このことから、松平元信も今回の婚姻によって、今川一門に准じる立場となったのです。これも、かなりの厚遇と見なければなりません。

■松平家臣は不遇をかこったと言われているが…

厚遇を受ける元信と対照的であったのが、岡崎の松平家臣だったと言われています。

岡崎城には、今川氏から派遣された城代が居座り、思うがままに振る舞ったというのです。

岡崎城
岡崎城(写真=baggio4ever/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

例えば大久保忠教が記した『三河物語』には、松平家臣の苦難が次のように描かれます。「松平家の領地は全て今川家が奪った。よって、松平家臣は扶持米が支給されない状態となる。せめて、山中二千石の領地(松平家の本領)だけでも渡してほしい、そうでなければ、譜代の者は餓死してしまう、彼らに扶持をと頼んだが、ついに渡してくれることはなかった。だから、松平家臣たちは、自ら耕作して、年貢米を今川家に納めた。百姓と同じように鎌や鋤で妻子を養っていたのだ」と。

まさに悲惨そのものです。また次のような見解もあります。

「岡崎城には今川家から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)が入り、彼らによって松平の家臣たちは頤使(いし)され、逆らえば竹千代の身に危害の及ぶことを恐れ、ひたすら忍従に甘んじざるをえなかった」と(笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房、2016年)。

このような悲惨な体験から、家康と家臣の間に強い絆が生まれたとされています。

■今川家との本当の関係性

しかし、近年では、岡崎城に城代は置かれていなかったのではとの説もあります(本多隆成『徳川家康の決断』など)。城代ではなく、奉行である今川の有力家臣たちが、交代で城に詰め、その下で松平家の譜代家臣が実務を担当していたのではと言われているのです。

確かに、東三河にある吉田城には今川氏の城代が置かれていて、実務を担う者も今川氏の家臣であり、今川による「直接支配」が行われていました。ただ、松平家の本拠地である岡崎城は前述のような状況であり「間接支配」だったと言われているのです。

■天下人ゆえに“盛られた”幼少期

若い頃の家康と松平家臣に苦労が全くなかったなどと言うつもりはありませんが、忍従と苦労が過剰に後世に伝えられている可能性がありましょう。

家康は幼い頃から苦労して、ついに天下人になったとした方が「物語」としては劇的ですし、感動を生みます。

(主要参考文献)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
本多隆成『徳川家康の決断』(中公新書)
笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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