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シティポップはここから始まった…ユーミンを国民的歌手に変えた「日本初の仕掛け」を解説する

プレジデントオンライン / 2023年1月21日 15時15分

スキー開幕のイベントで歌を披露する歌手の松任谷由実さん=2019年11月5日、東京都渋谷区 - 写真=時事通信フォト

世界で人気のシティポップは、どのように生まれたのだろうか。音楽プロデューサーの川添象郎さんは「松任谷由実の1、2枚目のアルバムには細野晴臣、山下達郎、大貫妙子らそうそうたるメンバーが参加したが、売り上げはイマイチだった。3枚目のアルバムからのシングル曲『あの日にかえりたい』をテレビドラマ・タイアップにしたところ、大ヒットした」という――。

※本稿は、川添象郎『象の記憶』(DU BOOKS)の一部を再編集したものです。

■デモテープを聴いた瞬間「才能を見つけたぞ!」

1972年、村井邦彦がヤナセ自動車の社長・梁瀬(やなせ)次郎と親しくなり、なにか文化的な仕事をやりたいという梁瀬次郎とともに原版制作会社として〈アルファ&アソシエイツ〉を立ち上げた。

そのアルファ&アソシエイツで作詞・作曲家として契約していたのがユーミンこと、荒井由実だ。

彼女との今日に至るまでの長い付き合いはヘアー(※1)の公演準備中に始まった。

ヘアーの出演者のひとりで、現在はプロデューサーとして活躍するシー・ユー・チェンがヘアーに出演したがっていた彼女を連れてきたのだ。

ユーミンという呼び名を付けたのも彼である。

※1 1967年にアメリカで初演されたミュージカル。ベトナム反戦・ヒッピー文化を題材に一大ムーブメントを巻き起こした。日本での初演を川添象郎氏がプロデュースしていた。

当時まだ15歳の少女であったため出演は断ったが、それでもリハーサル会場にはよく顔を出していたし、ヘアーが開幕してからもしょっちゅう楽屋に遊びに来ていた。

そんなユーミンがある日、自分で作詞作曲したというデモテープを持って現れた。

それを聴いた瞬間、僕は驚きとともに「才能を見つけたぞ!」というたしかな手応えを感じ、村井邦彦もまたその才能に感銘を受け、作詞・作曲家としてのみならず、シンガーとしてアルバムを制作しようということになった。

こうして、日本のシンガーソングライターのアルバム第1号が誕生したのである。

■細野晴臣、山下達郎、大貫妙子らが集結

村井邦彦は、編曲された譜面を演奏するだけの歌謡曲のスタジオミュージシャンではユーミンの魅力を引き出すことができないと判断し、細野晴臣率いるセッショングループ〈キャラメルママ〉と組み合わせることに決めた。

細野晴臣率いるセッショングループと組み合わせることに(※写真はイメージです)
写真=iStock.com/Instants
細野晴臣率いるセッショングループと組み合わせることに(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Instants

キャラメルママのメンバーは、ベース・細野晴臣、ドラム・林立夫、ギター・鈴木茂、キーボード・松任谷正隆、の4人で、のちに〈ティン・パン・アレー〉と名を変えて世に知られることになる。

このメンバーに加え、コーラスとして山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、山本潤子が加わった。現在、右記のミュージシャンを全員集めて作品を創ることは不可能だというほどに豪華なメンバーだ。

■素晴らしい作品だが売り上げはイマイチ

1973年11月20日にリリースされたファーストアルバム『ひこうき雲』は素晴らしい作品に仕上がった。

しかし、売り上げに関してはイマイチだ。3万枚という数字は新人のアルバムとしては悪くないが、投資を回収するにはほど遠いものだった。

荒井由実の2作目には、僕がプロデューサーとして参加した。

アルバムタイトルの『MISSLIM』は、「やせっぽちの女の子」を意味する「MISS SLIM」という言葉をくっつけて作った造語だ。

アルバムジャケットの写真はタンタン(※2)の家のピアノの前で、タンタンがドレスを着せて撮影したものだ。

※2 川添象郎氏の父、川添浩史の再婚相手である川添梶子のこと。

荒井由実自身がすべての楽曲の作詞・作曲を行ったこのアルバムは『ひこうき雲』を凌ぐ完成度であった。

しかし、この作品の売り上げも3万枚程度に留まることになる。

■「ゴールデンタイムに強制的に聴かせよう!」

3枚目のアルバム『コバルトアワー』の発売を経て、1975年10月にリースされたのが「あの日にかえりたい」というシングルだ。

冴えない売り上げをなんとかしなければならないという思いで、これまでとは異なるプロモーションを試みた。それがテレビ番組とのタイアップだ。

当時、ドラマの主題歌は番組の予算内で制作されており、当然のことながら映像のほうに予算を割くために歌の制作費はわずかなものであった。

そこで僕は、視聴率の高いドラマ班のスタッフに話を持ちかけた。

「ここに、200万円という大金を費やして制作した楽曲がある。これをタダで使わせてやる代わりに、ドラマの始めと終わりにこの曲を流して、クレジットを入れてくれ」

こうしてめでたくTBSのテレビドラマ『家庭の秘密』の主題歌に採用されることになった「あの日にかえりたい」は、本邦初のテレビドラマ・タイアップになった。

TBSのテレビドラマ『家庭の秘密』の主題歌に(※写真はイメージです)
写真=iStock.com/mizoula
TBSのテレビドラマ『家庭の秘密』の主題歌に(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/mizoula

「ゴールデンタイムに強制的に聴かせよう!」というこの作戦が功を奏し「あの日にかえりたい」は大ブレーク。荒井由実がこれまでにリリースした3枚のアルバムは、このシングルのヒットに連動して凄まじい勢いで売れ始めた。

過去に発表した作品までもが一挙にヒットするという稀有な例である。

投資分をあっという間に回収し、売り上げはとんでもないことになったのだ。

その後もユーミンは大活躍するけれど、アルファレコード時代に発表された初期の3作品『ひこうき雲』『ミスリム』『コバルトアワー』の仕上がりは格別だ。

日本の音楽史に残る、永遠の傑作ではなかろうか。

■「シティポップ」として世界的に評価される

アルファレコードができたときに、村井邦彦が突然僕に〈社是〉を作ろうと言い出した。

「社是ってなんだい?」とたずねると、

「当社の経営コンセプトだよ! わが社は音楽産業を通じて社会に貢献してどうのこうのというやつだよ」
「わからないからクニが作ってよ」
「オッケー」

ということで、2、3日して村井邦彦が作ってきた社是は、

一、犬も歩けば棒に当たる
一、毒も食らわば皿まで
一、駄目でもともと

というものだった。僕は大いに感心して大賛成をし、それを大きく紙に書いて会議室に貼り出した。

アルファレコードは山手線田町駅の裏側の改札を出てすぐの場所にあった。

ヤナセ自動車が建てたこのビルには、全面にさまざまなイラストレーションが描かれている遊び心いっぱいの楽しい建物だった。

5階には、村井が精魂込めたスタジオ、通称〈スタジオA〉が設えられた。

スタジオの音楽機材はその時代の最新鋭のマルチ・チャンネル・システムで、スタジオ内装には木材を多用し、暖かみと同時に柔らかな音響を実現した。

このスタジオからユーミン、YMO、サーカス、カシオペアなどの都会的アーティスト群のヒット曲が次々と生み出されていく。

このとき制作された楽曲が、21世紀に「シティポップ」として世界的に評価されるとは思いもよらなかったが、優れたミュージシャンが自由に活躍できるよう、お金をかけて創った作品の価値はこれからもますます高まるだろう。

■途方もなく呑気なやり方

スタジオAにまつわるこんなエピソードがある。

セッション・グループ〈ティン・パン・アレー〉とのレコーディングのための編曲作業について細野晴臣にたずねると、例のマジメな顔で「ティン・パン・アレーの4名でヘッドアレンジします」と。

「ヘッドアレンジってなに?」
「いわゆる編曲作業です」
「どこで?」
「もちろんスタジオですよ」

という話なので任せていたところ、彼等はなんと1時間の使用料が4万円もする正式録音スタジオで4名集まって、そこで初めて楽曲の編曲の相談を始めるという途方もなく呑気なやり方であった。

おまけに担当ディレクターの有賀恒夫は、スタジオの調整室を陣取り、居眠り混じりにそれを見物しているという至極いい加減な風景である。

有賀恒夫は背が低いので「ビーチ」と呼ばれていた。その頃のミュージシャンたちの間で流行っていた反対コトバの表現で、チビが「ビーチ」なのである。

社長の村井邦彦は、普段の呑気な口調とは裏腹に短気な「瞬間湯沸かし器」である。

このスタジオでのいい加減なのんびりした状態を知るや否や、秘書の江部智子に向かって言った。

「ビーチのスットコドッコイ! 社長室にすぐに来いと伝えろ!」

クールな江部智子はすぐに内線電話で有賀に電話。

「ビーチのスットコドッコイ! 社長室にすぐに来い! ……と申しております」

と、そのまま伝えた話は伝説になった。

■メキシコの曲を探し出し、録音するように命じた

〈ハイ・ファイ・セット〉は、細野晴臣によって考案されたネーミングだ。

これは、村井邦彦が育てたコーラスグループの〈赤い鳥〉がふたつのグループに分解し、山本潤子を中心とした3人組がアルファレコードに所属することになって結成されたコーラスグループの名前である。

さっそくハイ・ファイ・セットのレコーディングが始まったが、ディレクターのビーチとメンバーたちはシンガーソングライターにこだわっており、出来上がってくる作品はすべてそこそこで、村井や僕にピンとくるものがない。

要するに、シングル化して大ヒットする曲がないのだ。

川添象郎『象の記憶』(DUBOOKS)
川添象郎『象の記憶』(DUBOOKS)

そこで、彼らの希望を無視して、そのころのメキシコの曲を探し出し、歌謡曲ジャンルの天才作詞家・なかにし礼に作詞してもらい、それを録音するようビーチに命令した。

メンバーとビーチは激しく抵抗していたが、強引に録音させた。

メキシコの叙情的なメロディーとなかにし礼の独特な色気たっぷりな歌詞、そして山本潤子の澄んだ爽やかな高音の声が見事にマッチして、この「フィーリング」という曲はハイ・ファイ・セットのデビュー曲になった。

作品が出来上がったとき、村井と僕は社長室で視聴し、2人で顔を見合わせて足をひくつかせ「これは大ヒットだ!」と喜んだ。

そのとおり、このハイ・ファイ・セットのデビューシングル「フィーリング」は100万枚を超すスマッシュヒット曲になった。

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川添 象郎(かわぞえ・しょうろう)
音楽プロデューサー
1941年東京都生まれ。父はイタリアンレストラン「キャンティ」を創業し、国際文化事業で知られる川添浩史、生母はピアニストの原智恵子。明治の元勲、後藤象二郎を曽祖父にもつ。1977年、村井邦彦とアルファ・レコードを創設し、荒井由実、サーカス、ハイ・ファイ・セットなど、現在では「シティポップ」として世界的にも評価される、都会的で洗練された音楽をリリース。YMOのプロデュースでは、世界ツアーを成功に導き、日本を代表するポップカルチャーとして世界的存在に仕立て上げた。青山テルマ feat.SoulJa『そばにいるね』は日本で最も売れたダウンロードシングルとして、ギネス・ワールド・レコーズに認定。著書に『象の記憶』(DU BOOKS)など。

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(音楽プロデューサー 川添 象郎)

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